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【小説】母はしばらく帰りません 16

「母さん」

 母はベッドの端に腰を掛けて、青い瞳をぼうっと宙に彷徨わせていた。少し間があって、
「ん、何?」
と、振り返った。

「ドア、閉めてもいい?」

 二人が泊まっている客間は、二階の突き当たりで、その斜め向いにバスルームがあった。ドアの隙間から、シャワーの水音と、派手な笑い声混じりの会話が入り込んでくる。

「ミスター、まだそこにヒゲが残っていますがね!」

「ええ? どこだって?」

「そこですがな、そこ!」

「湯気で鏡が曇って、よく見えないんだよ」

「そこ、そこ! ああ、これでよか。さ、早く服を着てしまわんかね。風邪引くべ」

   輝子は母の返事を待たず、荒っぽくドアを閉めた。
 まるで若い娘のようにはしゃいだマギーの声も、それに甘えるような祖父の軽口も聞きたくなかった。そして、これ以上母に聞かせたくなかった。

「ああ、ありがとう」

「母さん。私、日本に帰りたい」
と、思いがけず口から溢れ出した自分の言葉に、輝子はハッとしたが、もう止められなかった。

「生姜焼き、美味しかった。ご飯もお味噌汁も! ねえ、帰ろうよ?」

「そうだね」

 母はドアの前をガードするように立ったままの輝子に近づいて、ギュッと抱きしめた。

「うん、もういいね。ごめんね、テルちゃん。お母さんのせいで嫌な思いさせたね」

「いいよ、いいよ! 楽しかったからさ。でももう帰りたくなったんだ」

「うん、ありがとう。テルちゃん、大好き」

「私も!」
 その晩は二人で一緒のベッドで眠った。二本のスプーンのようにくっついて。

 夜中に母がソッとベッドを抜け出して、携帯電話を手に出て行ったのに気付いた。
 きっと、日本の父さんと話しに行ったんだ、と夢うつつに輝子は思った。

 その翌日に、輝子と母は荷物をまとめて、祖父の家を出た。
 急なことだったが、祖父は特に驚いた様子もなく、心から別れを惜しんだ。

「来てくれてありがとう。本当に楽しかったよ!」

  その言葉に嘘はないのだろう。
 マギーは二人の突然の出発に驚きはしたが、別れはあっさりしたものだった。

「またいつでもきんしゃいね。待っているからね!」

 母は礼儀正しく感謝を述べて、マギーの手にサッと小さい封筒のようなものを握らせた。
 マギーは更に素早く手の中を確かめて、スカートのポケットに収めた。

「母さん、あの人に何かあげたの?」
 タクシーの中で輝子は母に聞いて見た。

「お礼よ」

「お礼って?」

「お金よ、勿論。お世話になったのだから」

 なんであんな人にお礼なんてするんだろう、と当時の輝子は少々腹立たしいような気もしたが、その後大人になって振り返って見ると、この時の母の気持ちはよく分かった。
 色々あったとは言え、世話になったことは間違いなく、そのことに関して、母は借りを作りたくなかったのだ。
 それから二人は、数日前まで泊まっていたホテルに戻った。ドアマンが大喜びして迎えてくれた。

 このホテルに一泊してから、翌日空港に向かった。
 日本行きの飛行機に乗って、輝子はホッと息をついた。やっと家に帰れる、という気持ちもあったが、急に帰国を決めたせいで、前日はお土産買いと荷物の整理に、大変忙しかったのだ。勿論、ホテルのプールで泳ぐことも外せなかった。

「あー、楽しかった!」
と、輝子は背中を伸ばしながら、大人っぽい口調で言った。

「それは良かった」
 母は機内のセーフティーノートをまじまじと眺めながら言った。緊急の際、非常口の場所や酸素マスクの付け方が描かれているノートだ。母は飛行機に乗ると必ず、それを端から端まで隈なく目を通す。そしてキャビンアテンダントの実演も、真面目に見学する。

「あ、そう言えばさあ、母さん」

 輝子は手元でペラペラめくっていた機内販売のカタログに、舞子姿の女性を見つけて思い出した。

「おじいちゃんさ、京都が超好きなんだって。二回も行ったけど、また行きたいって。そんなに面白いところ?」

 輝子はまだ京都に行ったことはなかった。
 母は大きな瞳を更に大きく見開いた。

「え、何?」
と、輝子が言うと同時に、母はブブッと大きく吹き出した。それから止まらなくなったように笑い出した。

「何? 何がそんなにおかしいんだよ?」

「あーははは、ごめん、ごめん。あーおっかしい」

「だから何がって?」
と、輝子は焦れて大きな声を出した。

「おじいちゃんね、誰と一緒に京都に行ったって、言った?」

「う、ううん」

「ふふ、一度目は桃子おばあちゃんと。二度目は二番目の奥さんと。あはは」
と、笑いながら言ったが、その時の輝子にはちっとも意味が分からなかった。

「えー、それの何がおかしいの? おじいちゃんが好きなところに、違う人と行っただけじゃん」

「あの人が、どんなに人の心が分からないか、と言うことよ。本人に全く悪気はないのだけどね」

「ふうん? でもそれのどこがそんなに面白かった?」

「そんな人だってこと、私はずっと知っていたのよ。なのに今まですっかり忘れていて、勝手に失望して。そうだね、ちっとも面白くないわ!」
と、母は言った。それなのにまだクスクス笑っていた。

 長い旅はようやく終わろうとしていた。

「ねー、日本に着いたら空港でさ、うどんとか食べたいな」

「私はとろろ蕎麦が食べたい。でも空港って高いのよねえ。大志さんにご馳走して貰おう」

 輝子は驚いた。

「え、父さん? 父さんが迎えに来るの? 仕事は?」

「知らないわ。でも来てくれないと困るよ。荷物、重たいんだから」
と、母はそんな言い方をしたが、父は迎えに来てくれた。照れ臭そうな笑顔で、到着ゲートの真ん前で待っていた父に、少し不貞腐れた顔の母は荷物を押し付けた。

「おかえり」

 それから、とろろ蕎麦や天麩羅うどんをお腹いっぱい食べて、三人で家に帰った。


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