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【小説】 母はしばらく帰りません 27
子供が生まれる前の両親学級で、出産の様子を撮影したドキュメンタリーを見せてもらった。希望者だけどうぞ、と言うことだったが、参加者はほぼ全員希望したようで、その中でもマティアスは、期待いっぱいのキラキラした瞳で画面を見つめていた。
「すごいね。感動したよ。まずいよね、今からこんなふうなら、俺、本番の時どうかなるかも知れない」
と、半泣きの顔で言った。まるで小さい女の子のように感情豊かなところがあった。
血塗れの出産シーンが怖くなかったかと聞いたが、
「あー、俺、おばあちゃんの田舎が農家で、馬とか牛の出産は見たことあるんだ。足を引っ張る手伝いをしたこともあるし。だから俺たちの子供が生まれる時も、安心してね? 俺、手伝うから」
「いや、人間の子の出産は、せいぜいへその緒を切るくらいの手伝いでいいみたいだよ」
と、輝子は笑ったが、内心、思ったよりグロテスクだった出産のシーンに怖気を奮っていた。
しかし実際自分で経験してみれば、怖がっている暇などなかったし、考えてみれば当たり前のことだが、自分で血塗れの部分を見ることもないのだった。
サッと体を拭ってもらい、胸に乗せられた生まれたてで、ホカホカしている赤ん坊と、目を合わせて見ようとした。まだ目は開いていない。
「あ、動いている!」
まだ皺くちゃで頼りない手足を動かし、赤ん坊は殆ど自力で乳首にかぶりついた。うぐうぐと、まさに必死で乳を吸い上げていた。
「すごいなあ。本当に、出産ビデオのまんまだ」
「テルちゃん、写真、撮ってもいいかな?」
タマールはおずおずと小さい声で言った。まるで大きな声は、生まれたばかりの赤ん坊を怖がらせる、とでも思っているみたいに。
「あ、うん。お願い。写真撮ったら、抱っこしてやってよ」
「ええ! いいの? 僕が? 本当に?」
「いいに決まっているだろ」
乳をたらふく飲んだ赤子は、もう一度助産婦の手に返され、体重を計ったり、健康状態をチェックされてから、タマールの手に渡された。
「僕、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。とっても上手に出来ているわ」
と、助産婦は笑いながら言った。
「なんか……、コタロー君にそっくりだね、この子」
と、タマールが言った。実は輝子も同じことを思っていた。まだ顔なんか皺くちゃでカサカサしているのだが、すっと鼻筋が通って、目元が涼しいような気がする。
「あのバカヤロー。結局立ち会えなかったな。どこにいてやがるんだか」
「ダメだよ、テルちゃん。こんな小さな子の前で、汚い言葉は」
と、タマールは諌めた。
「僕さ、さっきテルちゃんのこと一生恨むなんて言ったけど、ごめんね」
「いや。無茶言って悪かったよ」
と、今では輝子もすっかり反省していた。
けれども、もし時間が戻せたとしても、あの時タマールの手を離さないことは分かっていた。
「ううん。一生感謝する。この子が生まれて来る瞬間に立ち会わせてくれて、ありがとう」
「……こっちこそ、ありがとな。逃げないでくれて」
「僕さ、今、三賢人の気分なんだ」
「サンケンジン?」
なんだ、それは? 出産直後の疲れた頭に難しいこと言うな、と思った。
「三人の賢者。ジーザスの誕生に東の方から来て、贈り物をした博士たちのことだよ」
「あー、ああ? クリスチャンでもないのに詳しいねえ」
「この子はね、祝福されているんだよ。特別な子供なんだ」
「あー、うん? そうなのかな?」
どうも出産に立ち会ったショックで、少々テンションがおかしくなっているらしい。そう思ってみれば、目の下にはクマが出来ているし、顔は涙の跡で汚れている。
子供も無事に生まれたことだし、さっさと家に帰して休ませてやらねば、と思ったのだが、
「テルちゃん。名前は?」
「へ?」
「へ、じゃないでしょ。名前、この子の。決まった?」
「ああ、うん」
お腹の子が女の子だと分かった時から、名前の候補がいくつかあった。あとは顔を見てから二人で決めよう、と話し合っていた。
けれど、父親は逃げ出したので、その権利は全て私のものだ。
「……ルチア」
「聖女の名前だね」
「うん」
夜明けと共にこの世界に生まれて来た女の子。光の子。ルチア。