シアターE9は「広場」になりえるか?

●レジュメ

2017年11月4日、スタジオ・シードボックスにて行われた「シアターE9」報告会に出席をした。その際に感じたことをまとめたい。

「シアターE9」とは、演出家・あごうさとし氏が発起人となって、京都市・九条に小劇場を設立するプロジェクトである。建設までに三段階を踏んでおり、「step 1」となる建築調査の段階が終わり、報告会が開かれたところである。プロジェクトは今後「step 2」へ進んでいく。

文章は長くなるであろうから、先んじて報告会のレジュメを記しておく。私の意見に興味がある人は、最後まで読んでいただければ幸いである。

・「step 1」では、1,900万円のクラウドファウンディングが集まり、想定を超える寄付が集まった。
・「step 3」までに必要な費用(つまり建設費)は一億円。当初の想定よりも大きな額となった。
・劇場の予定地は第一種住宅地域なので、最も水準の高い防音設備を整えなければならない。
・シアターE9建設後、京都の演劇人・芸術家に、じっくりと時間をかけて作品を作ってもらえるような劇場を目指して、できるだけ使用料を安く抑えたい。
・1億円を集める手立てを考えなければならない。

「報告会」では、「step 1」の達成と共に、想定よりも大きな額の建設費の見積もりが出たということが説明された。これに関しては、あごう氏自身、今後どのようにファウンドレイジングをするべきか、参加者に問いかけていた。

報告会は19:00から20:00までの一時間行われ、最後には劇団「ママママ」代表の木之瀬雅貴氏による、スタジオ・シードボックスのこけら落とし公演の紹介がなされた。
報告会終了後には、交流会が開かれた。尚、筆者は予定があったため交流会には出なかった。

以上が、「報告会」の要旨である。

さて、以下は例のごとく長い文章を書き連ねたいと思う。章毎に文章を分けているので、興味があるところだけでも読んでいただければ幸いである。

本題は、「シアターE9は『広場』になりえるか?」とさせていただいた。それは、京都に小劇場を建設するべきかどうかを語るためではなく、今日劇場はどのような社会性を持っているのかという点を、私の専門的見地から分析するためである。従って、本論は「シアターE9」を建設すべきだ、ということを推奨するわけではなく、市民にとって演劇がどのような価値を持っているのかを問いかけることが、主眼である。

論を始めたい。

●建設費の「一億円」は妥当か?

「報告会」では、あごう氏から、見積もりが当初よりも高額になったことが説明された。その際に、あごう氏が今後必要だと言った額は(詳細は省くとして)一億円だった。

「step 1」における、当初の必要経費は、8,500万円(運営費なども含む)であった。そこで想定される純粋な建設費(基礎工事費と改修工事費)は、6,000万円である。
6,000万円という額が妥当かどうか、素人の私に判断はできないが、「安い」と思った。いわゆる公共ホールの建築費は30億円前後であり、複合施設となれば100億円を超える。「シアターE9」はあくまで倉庫のリノベーションという形なので、新築するわけではないが、30億円の劇場と比べれば、当然に安い。記憶が曖昧で申し訳ないが、都内にある小劇場の類も、新築の場合、やはり一億円くらいしていたはずである。リノベーションとはいえ、6,000万円は安いと思った。

工事費の高騰は、2020年のオリンピックを迎えるためにホテルの建築ラッシュが京都であることと、材料費の高騰が理由であると、あごう氏から説明がなされた。

もちろん、一億円で劇場が建つのならば、安いものだ。必要とされていない公共ホールや劇場が建設される中で、必要とされる劇場が一億円で作れるのならば、やはり作るべきだと思う。そういう意味で言えば、もろ手を挙げて「シアターE9」を設立すべきだと思う。

一方で、一億円という額を誰が出資するのか、どのように回収するのか。「step 1」で集まった1,900万円の五倍の額を、どこからどのようにして調達するのか。そういったことを考えていくと、これは単に劇場を一つ京都に建てるという問題から、市民にとって劇場とはどのような存在なのか、という問題を孕んでいるように私には思われたのだ。

●第一種住宅地域に劇場を建てること

文脈を共有していない人のために書くと、建築法上の「劇場」というのは、かなり大きなホールを想定しているのが一般的である。1000人を超えるホールは、当然「劇場」である。また、公共ホールに含まれている200人程度の小ホールや音楽堂なども、「劇場」の要件を満たしている。

一方で、都内もしくは地域にある民間の演劇施設のほとんどは「劇場」ではなく、「集会場」や「スタジオ」である。それは、入口が一つしかなかったり、消防法を満たす消火設備を有していないためである。私たちはそれを一般的に「小劇場」と呼んでいる。

「小劇場」は「劇場」ではない。第一に、この点を理解しておく必要がある。そうでなければ、「シアターE9」の試みの意義を理解しそこなう。
多くの「小劇場」は、住宅地付近にある。商業地に建設されているケースは稀である。「アトリエ劇研」もそうであり、例えば「こまばアゴラ劇場」もそうである。
だから、昔から「小劇場」にまつわる騒音問題は大きな問題だった。近隣の住民に理解を得るといっても、限界がある。だから、選択肢は限られる。大きな音を出さないか、地下に上演場所を設けることである。

既に、この時点で「小劇場」が見舞われる表現の制約が生まれていることが分かる。「劇場」のような表現は、「小劇場」ではできないのだ。大きな音を出したり、大型トラックで荷物を搬入することはできない。

100人規模の客席数で、こうした制約を逃れている劇場は、例えば下北沢の小劇場群が想定されるが、東京で言ってもほとんど存在しないと言って良いだろう。

商業地は家賃が高くて、賃料が払えない。かといって、住宅地にある劇場は、騒音問題という大きな問題を抱えている。「小劇場」として成立するための条件は、そもそもかなり限られているのだ。

●劇場の公共性(18世紀フランスを振り返る)①技術面

そもそも、「劇場」が自由な表現ができる場所であった時代などというものはあったのだろうか、と私はこの問題に触れて考えた。
むろん、倫理・道徳的な意味で、「自由な表現」が可能になったのは、歴史的にみてごく一部である。この点には、今回は触れない。

劇場機構・技術的な意味で、「自由な表現」ができるようになった時代があったかを考えたい。
15世紀のイタリアから振り返ってみよう。上演芸術において、「背景」が出現したのは、通説としては15世紀にさかのぼる。「悲劇」や「喜劇」「田園劇」など、芝居のジャンルに対して、背景を変えたことが、その後の背景画の発達につながる。上演専用の建築として「劇場」が建設されるのは、大雑把に言って18世紀を待つことになる。それまでは、公園内に仮設のステージを組んだり、闘技場やスポーツ施設を上演空間として流用することが一般的であった。その意味で、上演専用の「劇場」が建つのは、18世紀であると言って良いだろう。(グローブ座を「劇場」とすべきかどうか、本論では保留とさせていただきたい。)

だが、この「劇場」もまだ、上演“専用”の劇場とは言い切れないところがある。貴族の社交場であったり、政治家の演説会場となったり、必ずしも演劇やオペラ、ダンスのための施設とは言い切れない。だが、技術的な面から言えば、作品を上演するための設備が整うのが、この時代である。音響効果や照明機材、舞台機構が発達し、作品を作るための環境が整い始める。私たちが「劇場」と言って想定するモデルは、この時代に基礎ができたと言って良いだろう。

●劇場の公共性(18世紀フランスを振り返る)②興行面

18世紀はまだ、貴族や政治家が劇場建築のための費用を出資していた時代である。平土間で立って観劇をしていた観客は、劇場建築や上演にとって重要なファクターではなく、あくまで貴族を喜ばせることが、劇場の設立目的だった。

19世紀を目前に、観客から得る興行収入だけで劇場を運営していくことが演劇人の間で検討されるようになる。そこで想定される客席数は、2,000席である。これは、今日のホールの客席数から考えても、かなり大きな劇場である。もちろん、2,000人キャパの劇場は建たなかったし、貴族の補助や行政の補助金なしでは劇場は成立しないのであるが、19世紀に入って集客することで劇場を運営していく、という考え方が生まれるのである。

●劇場の公共性(18世紀フランスを振り返る)③倫理

私見で申し訳ないが、今日的な「劇場」という考え方は、19世紀に成立したのではないかと私は思う。つまり、上演を主眼とする施設で、興行によって運営費を賄う恒常的な建築物、という意味での「劇場」は、劇場機構の音響的・照明的技術が発達することで生まれたと、言えるのではないだろうか。古代ギリシアはもちろん、それまでの「劇場」は、必ずしも上演だけを目的とした施設ではなかった。そして、「劇場」が「興行場」ではない、という考え方が生まれたのも、およそブルジョワジーによる経済的支援から、市民が観客となることで生まれた考え方だと、私は思う。

ジャン・ジャック=ルソーは、「劇場」が嫌いだった。都市にある、観客を呼び込むための「カタルシス」を伴う、大規模化した「劇場」は、市民活動に必要ないといった。ジュネーブのような小さな町に、そのような「劇場」は必要ではなく、「広場」が必要であると言った。

ここでは詳論しないが、この18世紀中を巡っての、「劇場」の歴史は極めて複雑である。「劇場」は、ある面では都市の気風を乱す悪場所であったし、ある面ではミューズの息を吹き込まれた聖なる空間であった。しかし、「劇場」が「芸術」に奉仕したり、「表現の自由」を守ったり、都市を浄化する「公共建築」であったことは、少なくとも18世紀にはなかった。そういった名目の裏で、常に政治家の私利私欲、ブルジョワジーの見栄、色欲にまみれた観客の欲望が渦巻いていた。「劇場」が劇場であった時代など、ごく一部のことでしかないと、私は考える。

100年続く劇場という理念の裏に、どのような欲望が渦巻いているのか、もしくは欲望抜きに100年間も劇場が存続することは可能なのか。
私は改めて、上演“専用”の「劇場」が社会にとって必要なのかどうか、「シアターE9」設立を機に、考え直しても良いのではないかと思う。

●理念を問う

(いつもの通り)前置きが長くなった。私にとっては、劇場建築を考える上で、18世紀は避けて通れない課題であると思っている。ここまでお付き合いいただき、光栄である。

「シアターE9」の(分かりやすい)理念は、「100年つづく小劇場」である。
「アトリエ劇研」の閉鎖だけでなく、京都には客席数の少ない小劇場が減っている。若手の演劇人が、時間をゆっくりかけて作品を作ったり、手軽に作品を作る場所を提供するのが、この劇場のミッションである。

従って、開設後にも、劇場使用料は安く設定しなければならない。それが仮に、東京の小劇場と同じような金額(例えば、一日7万円)を取っていれば、京都で小劇場を開設する意義はなくなってしまう。

この点が、恐らくは最も重要な点だろう。

安く借りられる小劇場が欲しい、そう願う演劇人は多いのではないだろうか。もしこれが、「劇場」ではなく建築費を安く抑えることができ、東京のように利用者が多ければ、ここまで話は大きくならなかっただろう。というよりも、理念が問題になることはなかっただろう。ただ、運営していく目途さえ立てば良かったのだろう。

しかし、これが理念的な課題を抱えざるを得ないのが、①「京都に若手演劇人が自由に表現できる場所を作る」という芸術ないし表現の自由を課題としている点と、②広く寄付を募集しており、市民(ないし出資者)に効果を還元しなければならない、という点による。

もしこれが、18世紀のようにブルジョワジーのポケットマネーで建設できたならば、理念は問われなかっただろう。6,000万円、ポンと出す個人がいれば良かったのだ。
もしこれが、高度経済成長期のように、どこか大企業一社が建築まで担っていれば、理念は問われなかっただろう。もしくは、公共事業として立ち上がって、100億円規模の建築物として構想されていれば、少なくとも「理念」は問われなかったはずである。

この計画がユニークなのは、演劇人が発起して、何万人という人を相手に寄付を要求している点である。「市民の力を結集して。」とウェブサイトにはあるが、ここで言う「市民」が、一体誰のことを指しているのか。それが問題だ。

●一億円を集めるシミュレーション

一億円という額は、単純計算すれば、10,000円出資する人が1万人集まれば良い。1万人という数に、少ししり込みするが、大きな数字ではないはずだ。
例えば、歌舞伎を見るために1万円払う観客は、一万人以上いる。例えば武道館のコンサートに1万円払う観客は、1万人以上いる(武道館ならば、一日で1億円以上稼ぐことができる)。
上演芸術に関心を持って、1万円支払う人は、1万人以上いるわけだ。

もちろん、公共事業として構想すれば、建築費として1億円は、安い。また、公共ホールが年間でもらっている補助金も、1億円を超えるところもある。
1億円という額は、決して多くない。しかし、それは商業ベースにのっかっている(観客からの興行収入をアテにする)か、自治体の公共事業として認められるかのいずれかである。

「シアターE9」という、芸術家が発起したスペースに出資する“市民”とは、一体どのような存在なのだろうか。

●1万人で劇場を建ててみてはどうだろうか

劇場建築を専門としている人以外は、公共ホールがどのような成り立ちを持って、どのような金額で建設されているのか分かりづらいだろうと思う。また、それが適正な運営なのかどうかを判断することもできない。オリンピック招致のために数千億円も使う時代である。年間1億円の税金が使われている施設を見て、「税金の無駄使いだ」というのは、金額的な問題ではなく、文化的な生活をする上で芸術を必要だと思うかどうか、その道徳的価値観に基づいているものである。もしくは、チケット収入で(常設の)劇場を運営していくべきだ、という極めて資本主義的な、そしてそのような成り立ちで成立してきた劇場は歴史の上でほとんど存在しなかったと言って良い価値観に基づいている。

端的に言えば、キャパ100人程度の、芸術振興を主眼とした上演空間は、これまで「市民」の手によって生まれてはこなかった。それは、(仕方のないこと言えば、そうなのだが)一部の経済的に豊かな人によって設立され運営されてきた。また、そうした一部の人に享受され、守られてきたのが「小劇場」という上演“専用”施設だったのだ。

もし「シアターE9」が、一万人の出資によって建設されたとすれば、それは世界的に見ても類を見ない劇場になるではないかと思う。少なくとも、巨額の出資者を待って、いざ建設するというシナリオや、政治家にロビーイングをして公的資金を得るよりも、エキサイティングで、ラディカルだと私は思う。

一万人という数は、必ずしも多いとは言えない。それをもって「市民」を名乗ることはできないかもしれない。けれど、「市民の力を結集して。」という理念に立って、一万人の出資者による、一万人の総意を踏まえた劇場を作る、というのは演劇史的に見ても、とてもユニークな出来事になるのではないかと思う。

私は、「シアターE9」は、ジャン・ジャック=ルソーが異議を唱えた「劇場」に対する、一つの回答になりえるのではないかと、なかば理想論者的に夢想している。