見出し画像

<公共>ということーボルドー(1769)から

2016.08.17. 横田宇雄

以下の文章は、内野儀「<公共>ということー東京から」に触発された、一つの事例紹介である。筆者の専門分野から、内野さんの提案に対して、思考の素材のために書いたものである。

何よりも、演劇ないし公共政策を専門にする人であれば、内野儀さんが書いた「<公共>ということー東京から」(アーツカウンシル東京)を読んで欲しい。

1990年代から、20年以上の長きに亘り、演劇分野は補助金の申請に声を荒げていた(というよりも、躍起になっていた)。おそらく、映画やアニメ、漫画分野に精通している人にとっては「なぜ演劇だけ、こんなに補助金が出ているの?」と思ったことのある人のいるかもしれない。この20年間、文化・芸術活動に携わってきた人ならば、内野さんの文章を読んで共感するところも多いのではないだろうか。

さて、私が注目したいのはまさに「善き無名性」に<場>を与える演劇の役割です。

内野さんは、ヨーロッパでは既に難しくなってしまったであろう<公共>の理念が、日本であればもしかしたら、想像することが可能なのではないかー彼自身はそれを「ユートピアンな提案」だとー提案しています。これは、多分に留保を含んだ表現であって、すぐ後に「ブルジョワ的個人主義が浸透しなかった(とされる)日本語圏では(…)あるいはその逆に、前からずっとそうだったということに?」と、どちらの意見も取らず、つまるところ、日本が今どんな状況で、どんな利害関係者になんと言われようと、研究者として、今可能性があると思われる理論を持ってして、こういうことを社会に問いかけたいのだ、と言っているように私には思えます。

つまり、私には内野さんは、こういう言い方を直接はしていませんが、演劇についてもっと議論をするべきなんじゃないかー結論はどうあれ、クソみたいな芝居をするくらいなら、もしくは芝居で芝居を延命させるようなクソみたいな保守主義に走るくらいなら、口ケンカくらいしましょうよ、と言っているのではないかと私には思えてならないのです。言い換えれば、この文章は多分にアジテーションに満ちた文章であり、しかしこれがアジテーションであるということは、とある文脈を踏まえていなければ分からないように周到に(それが内野さんのやり方だと、私はいつも思っているのですが)カモフラージュされていると思っているわけです。

簡単に言えば、プロアマ問わず、全ての演劇関係者が居酒屋で立場も役職も関係なく、ケンカできるような話題だと思うわけです。

私が、その素材に提供したいのは、ボルドー大劇場の例です。以下の例は、内野さんの「ヨーロッパの公共劇場のシステムが、国民国家の形成から帝国主義に進む時代に育まれた〈制度〉であり、いわゆる支配的市民階級のため(だけ)の〈公共〉であったこともまた、考えておく必要がある歴史的事実です。」に対する、歴史的な側面からの回答です。

ボルドー大劇場は、1773年に着工し、1780年に完成した、フランスの南の方にあるボルドーという街にあるオペラ劇場です(現在もあります)。

ボルドー大劇場に限った話ではありませんが、18世紀頃の劇場は、貴族たちの共同出資によって作られました。経済的な維持もまた、貴族たちの共同出資や寄付によって賄われており、チケット収入で運営していくという考え方が発達していくのは、19世紀以降になります。

ボルドー大劇場の例で興味深いのは、最初、劇場として建てられる前の1769年には「ワルハラ」と呼ばれるダンスホール(今で言うクラブのような社交場、当時イギリスで流行した)をボルドーに作ろうという計画から始まっていることです。この「ワルハラ」は、ジュラと呼ばれるボルドー特有の官僚制の圧力によって、「あまりに気風を乱す」という理由で却下されました。それが、貴族の趣味への公共権力の介入の例となります。

そして、ボルドーの官僚によって「ワルハラだとあまりにひどいから、劇場ならまだ文化的だろう」ということで、劇場を建てることを許可されます。許可が降りてから、着工まで4年ほどの時間がかかるのですが、細かい議論は控えて、結果的に政治の側に理解のある人が出てきたことで、ボルドー大劇場はボルドーの再開発地区に建てられるという公共事業になります。

ですから、18世紀の時点で、<公>のプライヴァティゼーションは、(当然といえば当然ですが)演劇分野においても始まっていたわけですね。一方で、歴史を知らない人にとっては、18世紀のオペラ劇場の歴史が19世紀の帝国主義的劇場建築ラッシュの歴史に連続していると考えがちです。私が強調したいのは、歴史の中で一時期、たった一時期だけですが、「善き無名性」が劇場に顕現した時代があったということです。これは、歴史を知らなければ、当然知り得ないことです。

劇場が完成してから20年も立たない、1795年前後の話です。パリでは1789年にフランス革命が起こり、すぐ後の反動で、1793年には独裁制に変わってしまいます。ボルドーは、ジロンド派が多かった地区で有名ですが、パリで起きたフランス革命から独裁政治の影響は、ボルドーにも当然あり、劇場で上演される演目はフランス国家を称えるもの、そして一日一回は必ずフランス国家を歌うというルールが敷かれた時もありました。

記録として残っているものは、本当に数が少ないのですが、私の手元にある資料(ボルドーの市政史)ですと、例えば1796年10月31日に、グルック『アウリスのイフィゲニア』を上演している時、ある男たちがお金を払わずに劇場にやってきて、貴賓席にいる貴族(もしくは政治家)に向かって「そこから降りてこい!」と叫び、劇場を駆けずり回り、民衆よ立ち上がれ! と歌い、芝居を中断させた、という記事があります。

他にも、ボルドー以外の地区からやってきた観客が、ボルドー市民とケンカをしたり、当時の<異教徒>(要するにイスラム教徒。スペイン系も含まれる)と乱闘になるなどの記事があります。歴史的資料として残っているものは、そこまで多くありませんが、恐らくは政治の動乱期に、毎晩のようにこうした騒動が起こっていたのでしょう。

もう一つ面白いことを紹介します。18世紀当時もまだ、公共劇場は未整備でした。劇団は国内外をツアーして食っていくことが普通でしたが、いくつかのオペラハウスがフランスにできることで、俳優を常勤で雇うというシステムも少しずつできはじめました。ボルドーには、パリから来た俳優が多く、パリからきた俳優たちは、当然パリで起きている政治の最新の理論や意見をボルドーに持ち込むことになります。ボルドー政権は、彼らにも目を張り、政治的な発言を劇場でした俳優を処刑するということさえありました。しかし、俳優は反権力的な立場にいたので、同じ思想を持つ観客に向けて、一見、愛国的な歌を、反愛国的に歌うというケースもあったようです……!

フランス革命の動乱期のたった数年ですが、ボルドー出身ではない、つまりボルドーという土地にエスニシティを感じないような人たち(<異教徒>や俳優たち、他の地域から来た移動労働者たち)が、劇場をとある<場>に変化させた時期があったのです(しかも、演目はヴォルテールだったり、ラシーヌなのです。今では考えられませんが)。

長くなったので、結論します。確かに、劇場というののは、貴族が出資し運営するし、そこに介在する力は公権力である場合が多いわけですが、実際にそこで作品を作ったり、足を運ぶ人たちの中には「善き無名性」を顕現させる人たちがいるのだ、ということです。その力が顕現する期間は、歴史的に見ると短いかもしれません。けれど、私はそれで十分なのだと思います。つまり、劇場は貴族によって建てられ、ナショナリズムの温床となり、騒動は公権力によって鎮圧されるけれども、そこに名も無き労働者がいて、彼らに対して呼びかける人たちがいる限り、何かしらの形で劇場は「善き無名性」を問う<場>になるだろうと。

それはほとんど、諦めの境地に近いかもしれません。つまり、例え大手マスメディアの財力によって運営されたり、官僚の天下り先として想定されたり、土建屋の利権に絡んで劇場が建てられたとしてもー言い換えればどんな理由で劇場が建てられようとーそこに劇場がある限りー劇場を利用する立場の人間がいる限りー、演劇という虚構が活かせる可能性はあると。

1790年台後半の、ボルドー大劇場での騒動は、そのことを私達に教えてくれます。つまり、ヨーロッパの公共劇場の歴史は「ヨーロッパの公共劇場のシステムが、(…)いわゆる支配的市民階級のため(だけ)の〈公共〉」ではなく、例外もあったのだと。そして(これは私の想像でしかありませんが)多くの平土間席の観客は、その例外たちであったと。彼らは無名であるがゆえに歴史に資料を残していませんが、経済的な面ではなく、観客動員数という数値だけで言えば、支配階級の人たちよりも劇場に足を運んでいたに違いありません。そして俳優もまた、平土間の観客と同じ(もしくはそれよりも低い)階層だったはずです。重要なことは、彼らの声に耳を澄ませること。すれば、自ずと彼らの歌が聞こえてくるでしょう……!

(建築家ヴィクトール・ルイが描いた、ボルドー大劇場の平土間の観客たち)