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自筆短編 「失踪雪国」
失踪雪国
人の運命とはいきずりなのだとつくづく思う。
運命は突然に眼前に現れてしまう。
この話しの転がりについては、
私の人生の転機というのか、はたまた没落なのか、その始まりは唐突に訪れるのであった。
私はK県のF市にバーを経営していた。
その店は一周年になり、やっと軌道に乗ってきたところであった。
あれは三ヶ月程前の事、春美という女が働きたいと突然店に入ってきたのが始まりであった。
その春美という女は名前の通りに桜の花盛りの並木を思わせる様な美しい女で、彼女が店に立つとその周りが花咲く程に、まるで太陽の様な空気を纏っていた。
私は会社を経営して十五年になるのだが、創業した時に、会社を登記した時に自分に課した事が一つあった。それは社長となってちやほやされ始めたとしても従業員にだけは手を出してはいけない。もしそれをしてしまったら、それまで積み上げてきた信用を全て失うだろう。
そう思い、自分へ約束をして走り出した。
それが抑制出来なくなってしまったのは春美のあの美しい眼差し、それは憂いを伴った妖艶な魔力の様な本能を刺激する耐え難い魅力、それを自身の店に一客として飲みに行く度に感じ、その魅力が私の心を、全てを満たしていくのに時間はかからなかった。
二人になった瞬間があった。
もう止める事が出来なかった。
話しが非常に突飛になってしまうが、私はその二人になった瞬間に衝動的にこんな事が口から出てしまっていた。
「春ちゃん。君と一緒に旅がしたい」
自分でも驚いてしまった。
こんな大胆な事を言ったのは人生で初めてかもしれない。ましてや自分の会社のスタッフに対してだ。
しかしさらに驚いたのは春ちゃんがこう言った事だった。
「はい。いいですよ。連れてって下さい」
私は耳を疑った。
男としては駄目なのだろうけども、もう一度聞き直してしまった。
やはり春ちゃんは「連れていって欲しい」と言っていた。
その一月後に私達は旅に出た。
越後湯沢の高峰という旅館を取った。
それは二泊三日での旅だった。
外は一面の雪景色。
宿の灯りに照らされて美しく光り輝いた白銀の世界の中で、私達は自然であった。
自然に温泉に浸かり、食事をして、何の違和感もなく一つになった。
それからは心までも一つに、二人いるはずであるのに一人の人間の様に感じて、生まれてこのかたこれ程までの充足感に満たされたのは初めての感覚であった。
三日目の朝、客間で身支度を済ませていた時の事だった。
春ちゃんは泣きはじめた。
子供の様に涙を流しながら私の胸元を掴んでこう言った。
「帰りたくない。もうこのまま二人でいよう。ねえ、お願い」
私は最初の十秒、こう考えた。
無理に決まってる。
会社がある。従業員がいる。
そして何より家族がいる。
まさか、こんなところで二人でこのままでいるなんてあり得るはずがない。
しかしそう思った時に春ちゃんの涙を、潤んだ瞳を、その美しい口元を、まざまざとみた時に、
私の中で全てが弾けてしまった。
私は私ではない様な気がした。
それは意識とは無関係に言葉を発していた。
「もう全てを捨てよう。帰らないよ。もう帰る事はない。春ちゃん、もうこのまま時を終わらせよう」
それを聞いた春ちゃんの幸福に満ちた笑顔をみた時、私は置き去りにしてきた愛する娘の面影をみた気がした。
だけれども、
もう、何も要らない。
君がいれば他に何も要らない。
君と一緒に、私は死にたい。
この幸福は代償が大きい、
だからこそ、
代償が大きければ大きいほど、
罪深ければ深いほど、
愛というものは無限の広がりを魅せるのだった。