生きることはクリエイティブ

人生には、なにか節目というのがあって、そんな節目を大切に意味を感じて生きていきたい性分だ。7歳女子、5歳男子、3歳女子の七五三を目前にして、思いを巡らす長女が産まれた時のこと。とっても大変だったのに、私の家族と、夫の家族がつながるような、そんなあたたかな光に包まれているような感じに記憶が塗り替えられているのが不思議だ。


3人産み終えた今、「産む」以上のものはもう何も生み出せないような気がしていたのだけれど、もしかしたら・・・

やっと書けるようになった話を書いてみようと思う。


2015年4月のとある木曜日。
前駆から24時間以上の陣痛を経てやっと子宮口全開までたどり着いたのに、最後の最後で、緊急帝王切開。

正直、長女が生まれた喜びを感じる余裕もなく、とてつもなく具合が悪かった。
「おめでとう」の実感がよくわからない。人の誕生に、気軽におめでとうって言ったらイケナイ、なんて、謎の思考に至ったくらいだ。

退院も伸ばしてもらったのに、はんぺんのような真っ白で浮腫んだ顔が良くならない。
最上級に元気がないとはこのことだ。上も下も切っているから、とにかく痛い。ヘモグロビンの値が良くならない。通常12~16程あるべき数値が、6~8あたりだったと記憶している。

アパート暮らしだったけれど、産後は夫の実家に1ヶ月居ると決めていた。
義祖母、義母、祖母、母、そんな経験者たちの意見を尊重してのことだ。
みんなが世話しやすいように。みんなの孫、ひ孫だから。
夫の実家に実母も居候する。
広い田舎の家だからできることだ。
(えー、ありえない!って声が聞こえてきそう笑)

日陰にはまだ残雪残る季節。お産が先か、桜が満開になるのが先か、そんな話をしていたのに、退院したころには、桜、梅、椿、水仙、チューリップ。一気に春が来ていた。

だけど晴れる気持ちにならぬまま、具合は相変わらず、悪くずっと寝ていた。外に出ると、陽の光が異様にまぶしくて出られない。

一回だけ、外に出たことがある。娘が生まれた記念に、小屋の前に桜の木を植えた時だ。
ちょうどゴールデンウィークだったので実家の父・母・祖母・妹・弟が来てくれた。
産まれたばかりの長女を囲み、両家全員で撮った写真は宝物だ。わが子が産まれたことで全員集まる機会となった、それは何よりの喜びだった。



具合の悪さに追い打ちをかけたのは、退院後の不正出血。聞けば毎回2リットル弱とのこと。

一度目はまだ記憶があって、目の前が、砂嵐のように切れ切れに見えなくなり白と黒の世界になった。
こうやって、血が廻らなくなると身体の機能は否が応でも低下するのだ、と身に染みて感じた。

救急車が来て村の人たちがみんな出てきたらしい。
「じーさんか? ばーさんか?」

いや、嫁だった。笑
(おかげで子どもが生まれたことは村中知れ渡り、近所の人が大きな鯛を持ってきたという。海老ならぬ、救急車で鯛を釣ったってことになるかしら。)


だが、異常はわからず、病院に一泊して輸血して帰ってくる。

そのあと、また出血。
また。
もう意識はなかった。
血もサラサラして固まってくれなかった。

たまたま、母がトイレに様子を見に来てくれたから、気づいてもらえた。
意識の左側に、白と黒のぐるぐるがあって、真っ白になって、そして真っ暗になった。




気付いたら、病院で点滴の針を刺そうと奮闘する女医さんの姿があった。
血管がペッタンコで、針が刺さらないらしい。
あとで聞けば、血圧上が40、下が20以下。ヘモグロビン値は5.0を下回っていたそう。

「血管開け!!!」
って念じた。
神でも仏でもご先祖様でも誰でもいい、私の血管に血を送ってくれ!!!

ガン、くも膜下、そんな大病をしてもまだ生きてる! そう警察の同僚に笑われていた、亡き祖父を強く想ったのはこのときだ。
きっと力になってくれたんだ。
生きる気合いをくれたんだ。

針はなんとか刺さり、輸血してもらえた。
献血してくれる人、病院で働くすべての人、私を生かしてくれた「何か」に感謝した。



倒れたことに気づいてもらえなかったら
救急車が来るのが遅れたら
針が刺さらないままだったら
すぐ輸血できる環境じゃなかったら
・・・私はこの世にいなかったかもしれない。


原因がわかるまで、入院することになり、2週間以上、ヘモグロビン値を上げる治療以外何もすることがなかったけれど、とりあえず生きて病院のベッドの上で過ごした。
一ヶ月検診も、病院着のまま受けに行った。

その間、面会時間と共に娘を病院に連れてきてもらい、面会時間が終わると夫の実家で母と義母が面倒をみてくれる生活だった。

産後1ヶ月近く経って、やっと自分が辛いことに気が付いた私は、夜中個室のベッドで号泣した。

なぜ、自分が一人で病院にいるのか。隣からは母子同室の赤ちゃんの泣き声が聞こえる。

1000人に1人、今まで例がない。そういわれたって私の中では、一分の一。

原因不明のまま、退院が近づいていた。
もう一晩だけ、そう言っていた木曜日、夜中に出血した。
今度は、ナースコール、からの輸血しながら血圧を測りながら、治療室へ運ばれた。

子宮仮性動脈瘤。
そう病名が付いてからは、早かった。カテーテルで塞栓術。治療はものすごく痛かったけど。
嘘みたいに良くなった。体が軽くなった。

「なんでわからなかったのよ!」
執刀した産科医の先生を恨みそうになったけど、塞栓術中、私の頭に手をポンポンっと置いてくれた。

がんばれ、って気持ちが伝わってきた。

「生きるよ!」

トータル10人分の輸血をしてもらい、いま生きている。
ありがとう。




この時があったから、実家と義実家の関係は良好だ。
私が入院中、実母は夫の実家に居候して娘を世話してくれた。
義実家にも、具合が悪すぎて頼るしかなかったけれども、今思えば、その頼る、頼られる関係性がいまの敷地内同居につながっている。

体が思うように動くこと、力がみなぎること、喜び、怒り、哀しみ、楽しい感情を感じられること、すべてはあの経験があったからこそ。

ずっとずっとこの時の、あのとき死んでいたかもしれないといううトラウマが心の下のほうにある。

生きているだけでありがたい。
3人のお母さんになれてもう十分。
もう、これ以上は望みません、と。

だけど、ちょっとずつ変わってきている。
元気が、体力が、血が、出ていかないように、守り、守り、守り。
波風立てず静かな水面でいるよう努めていたのに、せっかく守ってきたものは、もっとイキイキしたいって小さな水疱をポコポコと出して言っている。

守るだけじゃなくて、せっかく生きてるなら活かそうよ。
もっとワクワクと感動を生み出そうよ。


あのとき、生まれてきてくれた命は、もう7歳。
七つまでは神の子という。昔はそれだけ命を落とす可能性が高かったということらしい。現代では、そのありがたみに気づく機会は少ないけれども、思えばみんな生きているだけで奇跡。このハレの日を家族みんなで迎えられる、そんな幸せがほかにあろうか。


今週末は七五三。

7歳長女、5歳長男、3歳次女。
みんな元気で生まれてきてくれてありがとう。


たぶん、ここが一区切り。
私の実家と、夫の実家を結んでくれて、生まれてきた3人の成長をみんなに祝ってもらおう。

母も私も着た着物を着て、たくさん写真を撮って、神社も行くし仏壇も拝む。


今度は、
「おめでとう」を受け取れる!



古い伝統とかしきたりとかそういうものに縛られたいわけじゃなく、単純に家族が集まって、みんなで喜びを分かち合う瞬間がこの上なく好きなのだ。

お祝い事で心がつながる瞬間はきっと、

最高にクリエイティブだ。


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