見出し画像

山田太一先生の訃報に接し

「ああ、やっぱ人って死ぬんだな」という、なんともいえない寂寥感を覚える訃報がある。
その多くは、会ったこともない、でも大好きだった人の死だ。
山田太一先生の訃報に接し、私の胸には今、ものさびしい風が吹いている。

山田太一先生は、私の敬愛するО・ヘンリーとともに、心の師であった。
このお二人から受けた影響は、とても計り知れない。

山田太一作品との初めての出会いは、NHKの土曜ドラマ、「男たちの旅路」であった。
私は当時15歳であり、不良だった。夜遊びばかりしていたのである。けれどなぜかこのドラマは初回から観ていた。土曜日の夜という、絶好のヤンチャタイムなのに。理由や経緯は忘れたが、その前週に観たドラマが面白かったためだと思う。たしか千葉真一主演だった。
そうして観始めた、「男たちの旅路」。
説明できないなにかに、首根っこを押さえつけられたようだった。

といって当時、ドラマ作りの仕組みはわからない。
「脚本 山田太一」とのテロップは見ても、その役割がよく理解できず、鶴田浩二の演技に、ただただ圧倒されていた。

「俺は若い奴が嫌いだ。自分でもどうしようもない。嫌いなんだ」との鶴田の言葉には、ビクッとした。鶴田浩二本人が、自分の心情を吐露しているようにしか見えなかったのだ。そのくらい、役者とセリフが合致していた。
そのセリフを書いている、というよりこの物語を創った山田太一先生のすごさに気づいたのは、シリーズが終わった後だったように思う。
その頃の私は、家を出たくてしょうがなかった。人生の旅を始めたくて悶々としていた。といって、なにがしたいのかわからない。
そんな時期の、ドラマ「男たちの旅路」との出会いであった。

その後「山田太一作品」を探して観るようになったが、私の中で「男たちの旅路」を超えるものはなかった。いや、「男たちの旅路」のインパクトがあまりにも大きすぎたのだ。

小説家を志し最初にしたことは、山田太一作品の研究だった。
どうしたらこんなドラマが書けるのかが知りたかったのだ。
「男たちの旅路」のDVDボックスを買って観まくり、シナリオ集を手に入れ読みまくった。
その時に感じたのは、山田太一先生の巨大さと、自分のちっぽけさだった。当然だが、とても敵わない。私は尻尾を丸めた。

けれど、確実に私の血肉になっていた。
主人公の吉岡司令補に似たキャラクターを創るようになったのである。
また戦争を知る老人を取材するようになり、あの戦争とはなんだったのかと、掌編にて考えるようになった。
そして第4部第3話の「車輪の一歩」にインスパイアされた掌編を、いくつも書いた。

人は、死ぬ。
改めてそう思うと同時に、もっと書かなければ、そして先生のように種を蒔く人にならなければと感じた、切なくもどこか身の引き締まる訃報であった。

先生、お疲れさまでした。
そしてありがとうございました。

よろしければ、サポートをお願いいたします。ご喜捨としていただき、創作の活動費として、ありがたく使わせていただきます。