盗人と喫茶店(BFC6二次選考通過作品)
犯罪者の老後はみじめだ。
年金をきっかり納めている会社員とは違い、老後の保障などない。
従ってそれぞれの生業を年老いても続けざるを得ないのだが、犯罪者も人間である。歳をとれば腕もにぶる。お縄にかかる確率も高くなる。
晩年を、刑務所の冷たい寝床で過ごす羽目になる者も少なくない――。
九藤[九藤 ルビ くどう]は暗い考えを振り払おうとした。が、商店街のショーウインドーに映る還暦手前の自分の顔を見ると、ずるずると老いについての思索に引き戻される。気分を変えるために、対岸の喫茶店に入った。
店の主人は、九藤よりもさらに年配の老人である。老いを感じさせる白髪頭とは対照的に、広い肩幅は柔道選手のように頑強そうだった。
ブレンド、とだけ主人に告げ、一番奥の席に腰を沈める。
(いつまで続けられるかな)
九藤の生業は空き巣である。強盗や詐欺などに比べれば長続きする分野だが、それでも日に日に腕がなまっていく。
特に手先だ。金庫破りの時などには芸術的な手さばきの繊細さが要求される。
しかし、それが失われつつある。砂時計のようにゆっくりと、芸術的な感覚が細かな粒となって指先から零れ落ちていく。食い止める術は見つからない。
「ブレンドです」
主人がテーブルにカップを置いた。九藤は無言でコーヒーをすする。
舌先に熱いコーヒーが触れた瞬間、渦巻いていた暗い思索がぱっと霧散した。
久々に飲む、旨いコーヒーだった。
ただ苦いだけでも、酸っぱいだけでもない、絶妙な味。香りもより一層味を引き立てている。そして味も香りも最大の効力を発揮する、最適な温度。芸術的な一品だ。
「旨い」
思わず口に出していた。九藤はそれなりにコーヒーにうるさい。自分でも豆を挽いてコーヒーを淹れる。仕事の前後に、一杯ずつ飲むのが習慣だった。
「ありがとうございます」
まだそばにいた主人が頭を下げる。
どきりとした。他人に声をかけられたのは久しぶりだ。九藤はできるだけ人と関わらないように決めている。顔と声を覚えられるほど、足がつく可能性が高くなるのだ。
「数年前に定年退職しまして、そこから開いた店なんですよ。職場で旨いコーヒーを飲むのが楽しみでしたので、今度はそれを仕事にしてしまおうと。昔の仕事仲間ばかりが来る店なので、お客さんみたいな一見さんの方に褒めていただけるのが、一番嬉しいですね」
いかつい外見に反し、主人は饒舌なタイプのようだ。言葉がするすると溢れてくる。それらに耳を傾けながら、九藤はコーヒーをすすり、静かに感動していた。
(こんな店なら、常連になってもいいな)
そんな想いが滲み出してきたことに、九藤自身が驚いた。これまで慎重に他人から距離を置いてきたのに、俺はコーヒー一杯でその努力を無駄にしようというのか。
「私、実は元警察官でしてね。よくコーヒーを飲むんですよ、刑事は。ドラマと違って書類仕事が多いもんですから。どうせなら旨いコーヒーを淹れようと、あれこれ工夫するうちに、自分の店を開きたいと思うようになりました」
九藤はカップをとり落としそうになるのを、全神経を集中してこらえた。
(すると、昔の仕事仲間が来るというのは、刑事のことか)
警察OBだらけの喫茶店。きっと現役も、休憩や打ち合わせで立ち寄るだろう。
九藤はいつの間にか罠にかかった格好だった。
「お勘定」
急いでレジへと向かう。できるだけ顔を伏せ、相手の印象に残るものを最小限に留めるよう努める。
「五百円です」
主人はレジの反対側に急ぎながら、気遣わしげな目を向けてきた。話しすぎた、と思っているのだろう。
ますますいい店だ。また来たい。そんな想いが湧き上がる。
パチリ、と音を立てて五百円玉をレジの脇に置く。九藤はその音を、甘い未練から自分を引き剥がす合図にした。
そのまま立ち去ろうとする。しかし、ガラス戸に手を伸ばした時、ある疑問が九藤を引き止めた。
どうやってその歳で、あんなにも奥深い味を出せるほどの、繊細な感覚を維持しているのか?
その秘訣を聞いてみたい、なんとしても今この瞬間も指先からサラサラと零れ落ちていく、感覚の流出を食い止めたい……。
九藤は振り返る。「ごちそうさん」。
聞かなかった。
九藤は年季の入った盗人として、ありとあらゆるものを盗んできた。しかし、いま言葉によって掠めとろうとしているもの、それだけは、他人がどうこうしていいものではない。
そんな気がした。理由はない。
九藤は店を出ると、翌日には遠く離れた街へ住処[住処 ルビ すみか]を移した。以来、あの店には二度と足を運んでいない。
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