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壁打ち

 一台の卓球台が、隅にある自動販売機の冷たい白光を受け、ぼんやりと暗闇から浮かび上がる。
 殺風景な部屋だった。あるのは卓球をするのに必要最低限の設備と空間。
 ――そして大きなずた袋がひとつだけ。
「おい、出ろ」
 猪原は眼下にある袋を、思いきり蹴りつける。人体の弾力と生暖かさが、シューズ越しに伝わってきた。
 ずた袋は衝撃でごろごろと転がり、最終的に中身をぺっと吐き出した。目蓋の上から血を流した雨宮が、荒い息を繰り返しながら周囲を見回している。
「猪原? どこだ、ここは?」
 ようやくこちらに気づいた雨宮が、左目を見開いた。血が沁みるのか、右目は固く閉ざしている。蹴りの当たり所が悪かったようだ。
「どこでもいい。それより、準備しろ」
「なんの準備だ」
 猪原は、雨宮の後ろにある卓球台を顎で示した。
「試合だよ」
 言い捨てると、あらかじめ用意してあった卓球用具一式を、雨宮の足元に放り投げた。カットマン用のやや幅広のラケット、ユニフォーム上下、おまけに止血用の絆創膏。
 雨宮は動かない。数時間前に誘拐され、たったいま解放されたばかりの三十男は、床に散乱した用具類をぼうっと眺めている。
「着替えろ」
 それだけ言うと、猪原はポケットからセルロイド製のボールをとり出し、卓球台から自分のラケットを拾い上げた。シェイクハンド式の両面裏ソフト。そのまま壁打ちを始める。
 中学時代、雨宮が卓球部のエースとして活躍している横で、猪原はひたすら壁打ちを続けていた。それなりに小学校時代は将来を嘱望された選手だったが、中学に上がると、それまでの活躍が嘘だったかのように勝てなくなった。卒業後、またラケットを握る気にはなれなかった。高校を中退して家を出てからは、数えきれないほどの職を転々としている。
 自分が低いところへ、低いところへと流されていくのがわかった。なぜかはわからない。だから濁流に身を任せるしかなかった。
 ――雨宮と再会した、あの時までは。
 たまたま帰省した折に、雨宮が妻と子供と三人で手を繋ぎ合って歩いているのを目撃した。その瞬間、答えがわかった。
 猪原は壁打ちばかりで、試合はおろか雨宮と練習をしたことすらない。自分の力を試せぬまま、ラケットを置いた。戦わなかったという後悔。自分を押し運ぶ流れを遡行した先で発見したのは、そんな感情だった。
 雨宮と決着をつけることでこの濁流を堰き止めようと、猪原は心に決めた。 
(やってやる。どんな手を使ってでも)
 最初は正面から頼んだが、歯牙にもかけられなかった。もう何年もラケットなんて握ってない、と。二度目は淡々と攫った。警備員として勤務している温泉旅館に、存在感の希薄な娯楽室がある。そこに袋詰めにした雨宮を運び込んだ。
「なにが目的なんだ」
 振り向くと、ユニフォームに着替え終えた雨宮が、目元を押さえて立ち尽くしている。
「言っただろ、試合だよ。台につけ」
 雨宮はため息をつきつつも、台の対岸に立った。体の正中線に沿ってラケットを握る。洗練されたカットマンらしい、隙のない構え。
 あらかじめ失われてしまった戦いが、十年以上の時を経てようやく始まった。
 猪原は左手から、ボールを高く投げ放つ。空中でボールが減速し、頂点で静止。一拍置いて、再び手元へと落下してくる。
 サーブを打とうとした瞬間、自分の横を人影が疾走していくのが見えた。
 一瞬、意味がわからない。雨宮が脱走を試みたらしいとわかった時には、ボールは床に着地していた。
 部屋の隅にある鉄扉を開こうと、雨宮は必死にドアノブをひねる。開かない。事前に施錠済みだ。
「無駄だよ」
 雨宮が振り向く。冷静沈着で、自信に満ちたカットマンの顔はどこにもない。そこにあるのは混じり気のない恐怖だけだった。
「頼む、逃がしてくれ」
「試合をすれば出してやる」
「金なら払う」
「だから試合を……」
「俺には、家族がいるんだよ」
 雨宮は自ら生み出した恐怖にさらに恐怖し、ひっくひっくと子供のように泣き出した。得体の知れない怒りが、猪原の全身を包む。
「構えろ」
「無理だ」
 雨宮は首を振り、床にラケットを放り出した。戦意はどこにも見当たらない。
 ゆっくりと雨宮に近づき、思いきり股ぐらを蹴り上げる。甲高い奇声が娯楽室を満たす。今夜は休業日で、館内には宿泊客も就業員もいない。絶叫は完全に閉じ込められ、どこにも届かなかった。
「早く構えろ」
 猪原の言葉と同時に、雨宮は嘔吐した。酸っぱい黄色の水溜まりが、雨宮の体を中心にさあっと広がる。
「少し休め。回復したら、また試合だ」
 猪原は壁打ちに戻った。
 戦いたい、家庭という枠から解放されたい……。雨宮もそう思っているに違いないと、どこかで決めてかかっていた。
 思い描いていたものと、足元に広がっている水溜りの模様とは、似ても似つかない。雨宮はいまだに這いつくばったままだ。
 壁打ちを切り上げるタイミングを見失い、猪原は頑として壁から目を離さなかった。

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