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布の記憶。『親愛なる忘却』とZOZOのこと
昨日のビッグニュースと言えば、Yahoo!のZOZO買収だろう。同じことなのだけれど、個人的には、前澤社長がZOZOを売却したという言い方のニュアンスのほうがピンときた。いずれにせよ、ファッション業界の中心をユニクロとともにになってきたZOZOのこの決断は、後に日本のファッション業界の大きな潮目として語られるのだろう。
手塚愛子『親愛なる忘却へ』
このニュースを知って、いろいろ思いをめぐらせながら、仕事の打ち合わせでスパイラルカフェへ行った。新しい展示がされている時は、必ずスパイラルガーデンへ立ち寄ることにしている(無料なので、表参道で待ち合わせする際はかなりオススメ)。今は織物を使って表現される、手塚愛子さんによる『親愛なる忘却へ』の展示がされていた。
糸をほどいてゆくことで、描き、織られた時間をたどりなおすことは、物理的な構造だけでなく、それを形作ってきた精度や歴史に目を向けることでもあった。織物から糸をほどき、再構成し、刺繍する行為は、過去の出来事と現在を、あるいはそこに流れる時間を織りなおし、編みなおし、観る者に視覚的触覚的に伝える試みと言い換えられる。(『親愛なる忘却へ』解説より)
米沢織のこと
私は以前、絹織物の産地である山形県の米沢市に取材に行き、織物ができる行程を見せてもらうため、複数の工場をまわらせていただいとことがある。ガシャンガシャンと機械はアートマティックに動いている。その糸の調子をチェックしている職人さんたちは馬の世話をする調教師さんの如し。布は、1本1本の緯糸と経糸が交差して織られていく。気の遠くなるような時間を経て布は完成する。
目の前に服となって現れる時、その実感はともなわない。少なくても私は、工場を見学するまで、そこまでの思いを馳せて生地、そして服と向き合うことはなかった。過剰供給でファッションアイテムはどんどんデフレの渦に巻き込まれている。それはいったい何を意味することなのか。携わる生産者の方々の行程ひとつひとつを辿ることができれば、私たちはもう少し冷静になれる気がする。
石内都さんの作品のこと
手塚さんの作品を観ながら、私はカメラマン石内都さんを思い出した。広島の被爆者の遺品を撮り続けているシリーズ「ひろしま」、メキシコのアーティスト・フリーダ・カーロの遺品を撮った作品で知られている。石内さんの作品が語られる時、よく「過去と未来をつなぐ」という言葉が使われる。遺品と聞くと「過去」というイメージがあるけれど、確かにそれを作品に残すことで、未来に語り継がれるメッセージとなる。
布ってなんだ?
過去を、歴史を振り返る時、わたしたちはその記憶を、痕跡をたどる。しかしながら、記憶と忘却は合わせ鏡のようなもので、記憶の背後には忘却された何者かが必ず存在する。(中略)無意識の忘却もあれば、不可避の忘却もある。記憶をたぐり寄せるなかで、歴史を振り返るなかで、忘却に気づいた時、それを美化し取り戻そうとするのではなく、その事例を生んだ状況を改めて見つめ、批判的に考察し、その過程を共有していくことが求められている。(『親愛なる忘却へ』解説より)
先日、展示会に足を運んだアーティスト、塩田千春さんは衣服を「第2の皮膚」ととらえていた。布というものには、それだけで温度があり、記憶が刻まれている。大量生産、大量消費される服たちにも、きっと温度や記憶はある。きっとそれらを感じられなくなってしまったのは私たちのほうなのだ。
ZOZOがYahoo!傘下に入った日、私はそんなことを思った。