#2: 2022年最後の慰霊旅の記録:クアラルンプールから、ネグリセンビラン州とジョホール州へ
#1からの続きです
最初の目的地:ネグリセンビラン州ティティの慰霊碑
この記事を読んでくださった友人大熊さん(仮名)が、行ってみたいということで再び8月以来4ヶ月ぶりにネグリセンビラン州ティティ村の慰霊碑を訪れることに。
この地で何があったのかは、詳しくはこちらの記事を読んでください。ネグリセンビラン州最大の悲劇と言われる中華系住民の虐殺があった場所です。関わったのは広島の第五師団でした。
前回土砂崩れなどで通行止で通れなかった山道を通ることになりましたが、落石被害や道路工事中の場所を横目に運転しながらも、雨も降らずに無事辿り着くことができました。
その日、わたしたちはまず最寄りのコピティアム(中国系のカフェ)に立ち寄り慰霊の目的を話し合うことにしました。
正直にいうと、そんな僻地にしかもかつて悲惨な歴史があった場所に日本人観光客が行くことはほぼないので、わたしたちの訪問を快く思わない現地住民もいるかもしれないと覚悟しながら緊張の面持ちで行きました。
でも、そのコピティアムにいたお姉さんは、少し日本語を話す人で、わたしたちをあたたかく迎えてくださいました。コピティアムを後にし、わたしたちは慰霊塔に辿り着きました。
その日はとても晴れていて、二人並んで黙祷を捧げた慰霊碑の後ろには、煌々と輝く太陽が。私たち以外に訪れている人はおらず、その義山(中華系の霊園)はとても静かでした。
わたしたちがティティ村を出るときには午後5時を過ぎていました。翌朝コタ・ティンギを目指すために、一休みするには東海岸の比較的大きな町メルシンがいいのではないか、ということになりその場でホテルを予約。メルシンを目指し、午後7時を過ぎると日が暮れるマレーシアで、街灯もないただただ暗い夜道を東に進みました。
夜もふけた頃、マレー半島の東海岸まで無事に辿り着きました。
その道中で目にした「Endau エンダウ」という看板がわたしの心を揺さぶりました。
この「Endau エンダウ」という街は、戦時中日本がシンガポール(昭南島)を統治していた時代に、昭南特別市の行政が中華系住民を移り住ませることにした入植地でした。
だんだんと戦況が悪化し食糧難に陥った際、昭南特別市が中華系住民とクリスチャン系のユーラシアン住民をマラヤの僻地に疎開させ、自給自足を目的として送り込んだのです。中華系住民はエンダウに、ユーラシアン住民はバハウに、それぞれ送り込まれました。その指揮をとったのが、#1でもご紹介した昭南特別市の行政で要職を担っていた篠崎護さんでした。
篠崎護さんの自伝を読んだわたしの脳裏には、エンダウという街の名がしっかりと刻まれていました。
ロングドライブの後、東海岸のメルシンで宿泊し、翌朝エンダウへ
早めに就寝し、日の出前に目が覚めたわたしがまず手に取ったのは、その篠崎護さんの自伝でした。
何気にその本を開くと、まず目に飛び込んできたのが、なんと「コタ・ティンギ」でした。
以下抜粋
大熊さんに、南に向かう前に、エンダウに戻っても良いか聞いたら快諾してくれたので、また車を30分ほど走らせエンダウに戻ることに。昨夜は真っ暗で全く見えなかったのですが、エンダウに戻る運転中に右手に美しい海が見渡せました。野生の猿たちの群れに遭遇したり、こんな面白い道路標識もありました。マレーバクに遭遇できるの?!ワクワクしながら運転しましたが、残念ながらマレーバクさんには会えませんでした(笑)
エンダウのチャイニーズコピティアムで朝食をとりながら二人で調べていたら、なんとその入植地が現在どうなっているかという情報が書かれている中国語の記事を大熊さんが見つけてくれました。(大熊さんが優秀過ぎる件)
Google Mapで調べたら、なんとそこから3kmの距離でした。ほとんどのシンガポール住民は、日本の敗戦後帰国したけれど、12組ほどの家族がそこに残り農業を続けていて、現在でも約270人がその地に住んでいるとのことでした。
篠崎護さんが希望を持って中華系住民たちと共に作り上げたかつて中華系住民のユートピアだった場所に立ってみたい、その思いでその場に車を走らせることにしました。
最後の目的地:コタ・ティンギで訪れた場所
エンダウで過ごした後、いよいよコタ・ティンギへ。約2時間のドライブでした。
出発前に大熊さんが強い関心を持っていたのは、今も遺されている国道沿いにあるトーチカ(戦時中に敵の進軍を妨げるために狙撃する兵士が入る頑丈なコンクリートの建造物)でした。
メルシンから南にまっすぐ進み、コタ・ティンギの街に入る前の道の両脇に、そのトーチカはありました。
車を路肩に止めてその辺りを二人で歩きました。
①コタ・ティンギにある英軍による旧日本軍の進軍を阻止するために作られたトーチカの跡
南下してくる日本軍を狙っていた英軍の兵士たちがこの中で狙撃のタイミングを図っていたと思うと、筆者は怖くて中を覗けませんでした。一方で大熊さんは後ろに回って中に入れるか確認していましたが、中には入れないようになっていました。
②コタ・ティンギの旧日本軍による中華系住民の虐殺があった場所に立つ慰霊碑
その後、わたしたちは、旧日本軍が抗日分子の粛清(大虐殺)を行ったとされる、慰霊碑を目指し、コタ・ティンギの街中に向かいました。
大きな病院の裏に義山(中華系の霊園)がある、とガイドブックにありました。
迷うことなく辿り着き、商店で色とりどの菊の花を買い、慰霊碑に行きました。
慰霊旅を終えて
旅のお供をした大熊さんとクアラルンプールへ戻る道中、コタ・ティンギの慰霊碑の前で黙祷をした後、この旅で感じたことを車中で話し合いました。
ここに来るまで、旧日本軍が関わったこのような悲惨な事件があったことを、二人とも全く知らなかったので、実際に訪れてみてこの歴史的史実が「自分ごと」になりました。
クアラルンプールを出発する時は、全く知らなかったことです。まるで導かれたようにこの場所を訪れることになりました。
軍部の粛清命令に従い前線で大量虐殺を実行することになった旧日本軍の若い兵士たち、理由もなく殺されてしまった人々の無念、そういった忘れ去られてしまっている歴史の舞台となった場所を自分の足で訪れ、感じて、現代に置き換える、それが出来るようになれたことが、今回の慰霊旅の最大の成果だったのではないか、という風に感じています。
現代も、歴史から学ぶことなく、上層部の意向に自分の意に反して従っている声なき声がある、という風にわたしは感じています。またこの件については、時期を見て書いていきたいと思います。
こういった歴史から学ぶことは多いですが、正直に言えばわたしたち一人一人に出来ることは非常に限られています。
世界や社会を変えるなんて大それたことは出来ないかもしれないけれど、こうして実際に負の歴史を伝える場所を訪れた経験を伝えることは出来ます。
ただ、わたしたちが届けられる人の数は少ないです。それでもこうして機会があれば、命ある限り健康なうちは、慰霊の旅をずっと続けて行きたい、そう思わせてもらった旅でした。
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