#2. クアラルンプール日本人墓地を訪れた日のこと ~ 中華系マレーシア人の管理人さんにお話を聞きました。
前回の記事では、意外に知られていないクアラルンプールの日本人墓地の場所(都心に残された鬱蒼とした森の中にある)や、その知られざる歴史について、戦後の混乱の時代に日本人墓地を守り今ある姿に導いた方のお話などなど、徒然に書いたのでちょっと長めの記事になりました。
今日は短めに。
クアラルンプール日本人墓地を管理して下さっているのは
クアラルンプール日本人墓地を管理してくださっている方は、今回初めて知って驚いたのですが、中華系マレーシア人です。
表向きはクアラルンプール日本人会が管理していることになっていますが、実際にはその地に住み、お墓の手入れをし、訪れる人を迎えてくれるのは、中華系マレーシア人のご家族なのです。(戦後の16年間は日本人が管理していたそうです。詳しくは#1をご参照ください。)
この墓地を管理して12年になるというBillyさん。(筆者撮影)
Billyさん、お若く見えますが、お歳をを聞いたら70代前半でした。
(筆者のお父さんと同い年だったので親近感が…。戦後まもなくの昭和20年代のお生まれですね。)
なんでまた日本人墓地の管理人さんになろうと思われたのですか?と尋ねたら
「さぁ、28人面接を受けてなぜかわたしが選ばれたんですよね。」
と。(笑)
Billyさんは、前述の戦後に日本人墓地を整備し守っていた森敬湖氏が校長を務めていたキリスト教系の男子校Methodist Boys School(MBS)の卒業生なのだそうです。
当時の森敬湖氏の印象は
「ものすごく寛大で素晴らしい人でしたよ。ただ規律にはとても厳しくてね。ルールを破った生徒に対しては非常に怖い存在で。僕もたくさん怒られましたよ。」
一番右が森敬湖氏(筆者撮影)
御堂に飾られている日本人墓地の歴史を伝える年表やこれまでの慰霊祭の写真などを見ながらお話しいただきました。
動物を愛する管理人さん親子に話を聞いてみた
最初に伺った日に気付いたのですが、管理人さん一家は数頭のワンちゃんを敷地内に飼っておられます。
墓地の敷地内に数匹、そして敷地の外にも、管理人さん以外にもおそらくコミュニティの皆さんがお世話をしていると思われるたくさんの野良ワンちゃんたちがいました。どの野良ワンちゃんたちもお腹を空かせている感じではなくて、楽しそうにお墓のある森を駆け巡っていて。
とても幸せな光景でした。
Billyさんの息子さんのHengさん(筆者撮影)
筆者が動物好きだと知ると、ペットのワンちゃんを抱っこして連れて来てくれました。
見るからに汗でぐっしょりですが、晴天の日に朝からずっとお墓の草刈りやお掃除をされていたのです。
草刈機を使ってその後は集めて燃やしていました(筆者撮影)
こうして誰の目に触れることもなく、先人たちのお墓とそこに集まってくるワンちゃんたちを、マレーシア人のBillyさんご一家がお世話して下さっていることに、わたしは感謝の気持ちで胸がいっぱいになりそこに立ち尽くしてしまいました。(だってこの地に12年も住んでるのに知らなかったんですから・・・。)
初めて訪れた日に自分にも何か出来ることがあるのではないかと考えさせられ、今回は3回目の訪問だったので、持ってきた軍手をはめて草むしりでもしようとしたら
「ノーノー!蚊や大きな蟻がたくさんいるし、奥の方は時々ヘビも出ますから入ってはいけません!僕たちに任せてください。」
そう優しく促してくださいました。
日本人墓地を数回訪れた私に起きたこと
笑顔で日本人墓地を後にして、門の目の前に広がる無縁墓地を優しく包む森を相変わらず楽しそうに駆け巡るワンちゃんたちを眺めながら、私の脳裏に浮かんで来たこと。
それは、東南アジアの多くの場所で、数万と言われる兵士たちが兵站(食料などの物資)の不足で栄養失調による病気にかかったり、餓死してしまったという悲しい事実。
シンガポールが陥落した後、さらに北のインドの国境地帯インパールの連合軍基地を攻略する目的で、多くの若い兵士たちが国境地帯の旧ビルマの山間部のジャングルに送られたこと。
また、その地域に軍事物資を送る目的で、ビルマとタイを結ぶ鉄道建設に連合軍(イギリス、オーストラリアなど)の捕虜たちや現地の貧しい民間人が肉体労働を課されたこと。
いくつもの杜撰(ずさん)な計画が、前線にいる日本軍の兵士たちを苦しめたこと。
その鬱憤が連合国軍の捕虜たちや民間の作業員たちに向かい、多くの悲しい犠牲者を生んでしまったこと。
日本に任務を完了後に復員するという夢が絶たれてしまった無念。
戦闘ではなく栄養失調や餓死で亡くなってしまい未だに墓地に埋葬されることなく多くのご遺骨がビルマのジャングルの何処かに眠っていること。
走馬灯のように脳裏に浮かんで来て、一瞬どうして良いかわからなくなり。
その日一緒に行ってくれた頼りにしている私よりずっと年上の友人夫妻の横顔を見ました。
私と目が合うと、奥さんはにっこり笑って
「暑かったし喉も渇いたね。ご飯食べに行きましょう〜。」
明るい慰霊旅が出来るのもこのご夫妻が一緒だからこそ^^
番外編: 日本人墓地近くの美味しいホーカー
わたしたち3人は、前回偶然見つけた墓地からすぐそばにあるホーカーに立ち寄って、とても美味しいチリパンミーと経済飯のおかず数品を食べました。あぁ〜美味しかった〜〜。
経済飯(エコノミーライス)の種類も多くてどれも安くてとても美味しいです。筆者がこれまで2回訪れた際にはいつも満席という賑わいで、皆さんフレンドリーです。
行かれたら、飲み物の注文取りに来る陽気なおじさんHenryさんに話しかけてみてください^^
日本人墓地から徒歩で行けます(筆者撮影)
大通りJalan Loke Yewに面したJalan Pauhにある
関連記事: noteマガジンBEFORE TOO LATEより抜粋
わたしの脳裏に浮かんだいろいろは、noteマガジンBEFORE TOO LATEに数年かけて綴って来たことです。埋もれてしまわないように、ここに何記事か上げておきます。お時間が許せばぜひ。
泰緬鉄道建設の作業員として日本軍に従事したお祖父さまを持つ友人の話
現在もミャンマー(旧ビルマ)で遺骨発掘作業を続けておられる井本勝幸さんにインタビューした時の話
インパール作戦の犠牲者が今も眠るミャンマー(旧ビルマ)について、今も戦闘が絶えないミャンマーから逃れた難民の子供たちの話
お祖父様が日本軍に殺されたという過去を持つイギリス人の先生との会話
活動へのご支援のお願い
わたしは、これからも出来る範囲でマレー半島やボルネオ島また東南アジアの国々において「明るい慰霊旅」を仲間と共に続けて行きたいという願いがあります。
そのベースにあるのは人種や国境を超えた人間愛。
この活動への、皆様からのご支援やご感想をお待ちしております。
ご寄付や支援はこちらからよろしくお願いいたします。(PayPalになります)
昨日29日は新月で、旧暦の七月が始まりました。マレーシアでは「ハングリーゴーストマンス」と呼ばれ、死者の魂が帰ってくると言われ様々な慰霊行事が行われます。
そんな空気感の中で、8月の終戦記念日まで、しばらく慰霊関係の記事が多くなるかと思います。
歴史に向き合う時、様々な見方があると思いますし、常に視点が偏らないように気をつけています。なので、もしわたしが書いているものに対してご意見のある方は、どうか批判ではなく、あなたの視点をわたしに教えてくださいね。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
(短めのはずだったのに、結局長くなりました😆)
2022年7月30日
Matahari@マレーシア🇲🇾