マレーシア🇲🇾ネグリセンビラン州への慰霊旅の記録(2022年8月)
Matahari @マレーシア🇲🇾です
この国に住んで住んで12年、フリーランスの日英通訳やイベントの司会として活動しています
今月8月からYouTubeチャンネルBEFORE TOO LATE始めました
慣れない作業に早くも心が折れそうなので(汗)
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近年は、移住したい国ランキングで常に上位に上がってくる親日のイメージが強い南国の住みやすい国!というイメージがすっかり定着したマレーシアですが、かつてこのマレー半島で起きた悲劇について知らない人は少なくありません
かつて日本が占領していた頃のマラヤについて、長年住んでる筆者が聞きかじったことをまとめたnoteマガジンです
日本軍がマラヤ占領時、歩兵第11連隊が日々の任務を書き記した「陣中日誌」
1941年に始まった太平洋戦争で、旧日本軍は英領だったマラヤに侵攻
英軍を始めとした連合国軍側の捕虜たちや、非常に多くの民間人、特に中華系住民を苛酷に扱い、たくさんの犠牲者を出しました
被害の数は諸説あります
なぜなら当時の記録のほとんどは旧日本軍によって敗戦後まもなく焼却されていて何も残っていないからです
隠蔽のため過小報告されていてもおかしくありません
数少ない証拠となる記録の中で、大日本帝国陸軍の第5師団歩兵第11連隊第7中隊(広島県が本拠地)が日々の任務を書き記した「陣中日誌」が戦後見つかっています(防衛庁防衛研修所図書館所蔵)
その中には克明にどの地域でどれだけの「戦果」が上がったのかが記されていました
歩兵第11連隊がマラヤが日本の軍政下になってすぐ警備を担当した場所がネグリセンビラン州でした
長引く日中戦争において、軍事費用や物資を東南アジア各地から支援したとされる華僑たち、抗日運動をしている人民抗日軍(ゲリラ)を掃討するという目的で、主に中華系の住民が粛清(虐殺)の対象となりました
本来ならスパイ活動をした容疑で逮捕した上で裁判にかけてから罪状に応じた処罰が下されなければいけないのに、その場で怪しいというだけで連行され酷い虐待を受けて上で殺された罪のない人々が多くいたという証言が、数少ない生存者たちによって残されています
マレーシアを巡り戦争の生存者から証言を集め続けた日本人
1980年代初頭から、時に石を投げつけられたりしながらも諦めずにマレーシアに通い続け、その貴重な証言を集め続けた日本人がいます
歴史研究家の髙嶋伸欣琉球大学名誉教授です
高嶋先生のチームが出版したガイドブックについてはこちらの記事をご参照ください
筆者は2名の友人と共に、この本を参考に慰霊旅に出かけました(定年後のご夫妻で奥様は元小学校教員)
ネグリセンビラン州イロンイロン村の追悼碑とは
2022年8月10日に、クアラルンプールから車で約1時間半のネグリセンビラン州ティティを訪ねました
ティティの隣町イロンイロン村で起きたことは、この州最大の悲劇と言われています
以下、上記ガイドブックから抜粋します
1942年3月18日、クアラ・クラワンの町から約100人の日本軍が村にやってきた
日本軍は、食料配給の人口調査のため身分を確認するのだと村長に伝え、村人を小学校に集めた
しばらくして、そこに集まった男性たちが10〜30人ずつ連れ出され、近くの民家に入れられて虐殺が始まった
<中略>
日本兵は救いを求める無抵抗の女性や子供たちも連れ出し、跪かせて背後から銃剣で刺殺、さらに家を焼き払った
<中略>
警戒して学校に行かずに逃げた人たちは、夜通し燃えさかる炎をよく覚えているという
こうして200世帯が住んでいたイロンイロン村はほとんど全滅状態となってしまった
追悼碑には1474人が犠牲になったと記されている
ネグリセンビラン州への慰霊の旅に出発
筆者たちが、その追悼碑を訪れた日の様子をご紹介します
まず、ティティの追悼碑に向かう前に、当日思い立って立ち寄ったのは、州都セレンバンから国道1号線を北に10KMのところにあるマンティンという町
マンティンの義山(霊園)に行ってみたものの野良犬さんたちがたくさんいて近付けず
しかもその日はしっかり施錠されていて管理人らしき人も見当たらず残念ながら中には入れませんでした
ガイドブックには、高嶋ツアーで訪れる際には(当然ながら)事前に連絡し、現地の人と交流しているという記述がありました
有刺鉄線が巡らされている義山の外から、「また改めて来ます」と拝ませていただきました(参考:ガイドブックP. 102)
・・・
マンティンからティティ(知知)という町まで、東に約1時間車を走らせました
幸い天候に恵まれ、道中は長い長い田舎の峠道がどこまでも続き、とても美しかったです
辿り着いたのは午後3時を過ぎた頃でした
州道32号線を北に進み左側に見えてくるとガイドブックに書いてあったので、その通りに進んだら、この看板が見えてきました
知知中華新義山
車で入口に進むと門が開いていました
中へ入ってみることに・・・(緊張)
助手席の友人が「あった!」
運転席にいた私からは見えなかったのですが
遠くかなたにある赤茶色の追悼碑
あなたには見えますか?
追悼碑は高台にあります
車で近くまで行けました
暑い熱い午後でしたので、わたしたち以外の訪問者はおらず
イロンイロン村の虐殺事件の追悼碑
(ガイドブックP.104)
ガイドブックに掲載されている写真と違ったのは、マレー語と中国語と英語と日本語で、碑文が付けられていたこと、そして慰霊塔の上部に「世界和平」の言葉が新たに付けられていました
「歴史を捻じ曲げたものには天罰が下るのです」
理不尽な理由で犠牲となった人々とその遺族の悲痛な叫びが聞こえますか
80年が過ぎた後も、その傷は完全に癒えることはなく次の世代に伝え続けていて、記憶は時が経っても色褪せることなく、何世代にも渡って抱え続けなければいけないその理由を、自分ごとのように思い浮かべられる人が、今の日本に果たしてどれくらいいるのだろうか、と考えさせられました
まず最初に訪れたマンティンの義山にはワンコの家族がたくさんいましたが、ここでは子犬が一匹寂しそうにうろうろしていました
せめて冷たいお水をあげようと蛇口をひねっても、灼熱の午後には手で触れないほどの熱いお水しか出ませんでした
しばらくお水を出しっぱなしにしてもようやくぬるま湯程度
冷たい水とドッグフードを持っていけばよかったと悔やまれました
しばらく滞在している間、このワンコは私の車の周りを歩きながらしっぽをフリフリ…
連れて帰りたいくらい可愛かったです
じりじりじりじりと熱い日差しが照りつける午後
青空が広がり、野草は青々としていて瑞々しかったです
行けてよかった、と安堵しました
一緒に行った仲間と
私自身の経験から、慰霊旅は一人で行くのはお勧めしません
観光のついでのように軽い気持ちで行くものでもありません
実際に訪れてみて、目で見て肌で感じたことを語り合うことができ、精神的支えとなる仲間がいることの大切さを痛感した旅となりました
この後、帰路に着きました
途中道路封鎖のアクシデントで迂回して、クアラルンプールに到着したのは日が暮れた後でした
おまけ
この旅の途中、ネグリセンビラン在住の大親友のお家に立ち寄り美味しい手作りのランチをご馳走になりました。ありがとう!
歴史を次の世代に伝えるためにわたしに出来ることをやること
と
今目の前のことを楽しむこと
両方を同じくらい大切にしながら
日々を送りたいと思います
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2022年8月26日(金)
Matahari@マレーシア🇲🇾