「私の祖父はラブアンに眠っています。」英国人の知人が発した言葉の意味
昨日の記事(↓)の続きです。
今日は、広島の原爆投下から75年。
世界中の人々が、核兵器の廃絶と平和な未来を創ることを決意する日。
日本の外から第二次世界大戦の終焉を見つめていきます。
あなたはどれくらい終戦の年に日本の外で起きていたことを知っていますか?
お恥ずかしながら、私がマレーシアに来たばかりの頃は、ほとんどと言っていいほど東南アジアで戦時中に起きたことを知りませんでした。
移住してしばらくしてから、時間を見つけてはマレーシアやシンガポールの博物館や戦地を巡り、少しずつ学んできました。
本日は、わたしが10年住んでいるマレーシアで、実際に私の身に起きたあるエピソードをご紹介します。
マレーシアに10年お世話になったわたしが出来ること。
このnoteマガジンBEFORE TOO LATEに、少しずつ学んだことや聞いたことを綴っていきます。
1. 「私の祖父はラブアンに眠っています。」
少し勇気がいったのですが、実際にわたしの身に起こった出来事を今日は書いてみようと思います。これを読む人の受け取り方は千差万別だと思います。
息子は5歳の時から某イギリス系インターナショナルスクールに通っています。ある時、当時の担任の先生(30代後半の英国人男性)と保護者面談がありました。
その短い面談の最後に先生は穏やかな様子で
「お母さん、息子さんのことで何か私が知っておいた方がいいことがあれば教えてください。」
とおっしゃった時に、何故か私は伝えなければいけない気がして、こう告げました。
「この夏休みに、息子とわたしの日本の実家に帰った時に隣県の広島平和記念公園を訪れました。アメリカ人の父と日本人の母を持つ息子はまだ幼いながら非常に興味を持って、英語の展示パネルを読んでいました。当然息子にはマラヤで起きた歴史のことを話してはいるのですが、まだ幼いので、もしかしたら先生やクラスメイトの前で不適切なことを言ってしまう可能性もあります。その時には、どうか寛大に受け止めていただければ幸いです。そして私に知らせてください。家庭で話をしたいと思います。」
先生は私の話を聞きながら、静かに頷き、じっと私の目を見てこう言いました。
「わたしの祖父はラブアンに眠っています。」
一瞬でわたしの脳裏に、先生の出身と旧日本軍が統治していた東マレーシアとラブアンという土地に何があるのか、が繋がり、わたしの目に涙が自然に溢れました。
先生は驚き、戸惑っているようでしたが、
「先生、わたしにそのことを伝えるのは葛藤があったと思います。おっしゃってくださってありがとうございます。」
と伝えると、安堵したように頷き、無言で俯いたま、でもその表情は優しい微笑みを浮かべておられました。
しばらくしてゆっくりと顔を上げた先生の目が赤く充血していたことをわたしは見逃しませんでした。
その後、深々と頭を下げて教室から出て行くわたしを、ずっと無言で見送ってくださっている姿が、ドアに反射して私には見えていました。
先生が言葉にするには難しい感情が、きっとあったのだろうと推測します。
この出来事を通して、日本人以外の友人知人の前で、戦争についての話題を出すことに非常に慎重になりました。
もし、わたしが、その発した言葉の意味を理解できなかったら?
もし、わたしが、無知で知らないことが、その人にとって、非常に大きな意味を持つことだとしたら?
まだ移住したばかりの私だったら
ラブアン
というキーワードを聞いてもピンと来なかったでしょう。
知らないせいで、不適切な対応をしてしまったと思います。
2. 第二次世界大戦の開戦とマレー半島の歴史をおさらい
第二次世界大戦開戦後まもなく1942年2月にシンガポールを旧日本軍が英国から奪う形で陥落。イギリスやオーストラリアなど連合国の兵士たちは捕虜となり、東マレーシア(ボルネオ島)に送られ強制収容所に収容され過酷な肉体労働を強いられました。
もっと詳しく知りたい方は、こちらのnoteマガジンも読んでいただけると嬉しいです。
3. ラブアンってどこにあるの?
ラブアンは東マレーシア(ボルネオ島)の北に浮かぶ小さな島です。ラブアンが日本に占領された時の名前は前田島。ラブアンに建立されたラブアン平和公園は1945年に日本軍が降伏した際に、連合軍との間で正式な調印が行なわれた場所で、サレンダーポイント(降伏地点)とも呼ばれています。ボルネオ地域でで犠牲になった連合国の兵士達が眠る墓地と慰霊碑があり、毎年連合軍側の遺族と現地マレーシアの人々が慰霊の式典を開催しています。
わたしの友人で尊敬するマレーシアのクアラルンプール在住のライター野本響子さんが、その慰霊式典に参列する過程で起きた日本人としてショッキングな出来事を詳細に綴られています。
ご興味のある方はぜひ読んでみてください。
4. 筆者が訪れた東マレーシアの戦争関連施設と戦争を題材にした映画など
わたし筆者はラブアンに行ったことは残念ながらありませんが、ボルネオ島の東部サンダカンには訪れたことがあります。その際に、オーストラリア政府によって建立されたサンダカンメモリアルパークの資料館を訪れたことならあります。その様子はこちらからご覧ください。
ボルネオ島を舞台に、英国人の捕虜とその家族について書かれた小説の映画化「THREE CAME HOME」。作者のアメリカ人アグネス・キースの生家を訪れた旅行記と映画の感想を書きました。こちらもどうぞ。
日本人として、知らなければいけない歴史的事実として、ヨーロッパではその年の5月に完全にドイツの降伏により終戦に向かったのにも関わらず、日本は停戦に応じずに3ヶ月も厳しい戦況の中で戦い続け、挙句に本土決戦から8月6日と9日の広島長崎への原爆投下に至り、多くの民間人を含む戦没者を出す事態となりました。
毎年テレビから流れてくる原爆関連のニュースを見る度に、日本で起きた空襲や原爆の被害者の話ばかりに終始し、歴史的な事実を俯瞰した報道が少ないことを非常に危惧しています。
今日は、2020年8月6日。広島に原爆が投下されてから75年。
終戦の日まであと9日。
SNS上には国境はほぼありません。日本人が原爆投下のあったヒロシマに想いを寄せ、平和を祈る投稿をしていることに、複雑な思いを抱く人たちがいることを知らなければなりません。
知るためには、主体的に学び続けるしかない、と思います。
受け身ではなかなか学ぶのは難しい母国日本の負の遺産。
二度と同じ過ちを私たち人類が起こさないために、様々な視点から戦争という過去の出来事を見つめて行く機会が持てればと思います。
全てのコメントやメッセージにはお返事できないかもしれませんが、全てのメッセージに筆者は目を通しています。あらかじめご了解いただきますよう宜しくお願いします。