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戦前戦後の激動の時代にマラヤで偉大な功績を残した日系マレーシア人森敬湖氏とその家族のストーリー

こんにちは。Matahari@マレーシア🇲🇾です。


戦前戦後の激動の時代にマラヤで偉大な功績を残した日系マレーシア人森敬湖(もりたかみず)さんのご遺族にインタビュー

まずこのインタビューが実現するまでの経緯をご紹介させてください。

遡ること約8ヶ月前の2022年7月2日。

筆者は初めてクアラルンプール日本人墓地を訪れました。

きっかけは、親子ほど歳の離れた友人で熊本県天草出身の在マレーシア歴33年の榊原ご夫婦から毎年恒例の慰霊のお話しを聞き、行ってみようと思ったからでした。その頃はちょうどコロナパンデミックの真っ只中。なかなか実現しませんでしたが、2022年に入りようやく行動制限が緩和され、行ってみることに。

その日、墓地に足を踏み入れてまず初めに目に飛び込んできた立派なお墓。

男性と女性の写真が墓石に飾られていました。

その週に、筆者は日本とマレーシアの外交的なイベントの日英司会と通訳という身に余る大役を仰せ使っていました。そのどなたかも存じ上げなかったけれどその立派な墓石からきっと日系コミュニティの偉大な人なのだろうと思い

「いいお仕事が出来るように、どうかご支援をよろしくお願いします。」

と、その墓前で手を合わせてお参りをしながらご報告をしました。

その日クアラルンプール日本人墓地を訪れたことを、友人で慰霊の旅を共に続けて来た菅原あおいさんにお伝えすると

「私も行きたいので、今度陽子さんが時間がある時に一緒に行きませんか。」

とお返事がありました。

そうして、わたしたちは2週間後に再びクアラルンプール日本人墓地を訪れることになりました。

2度目の訪問で、またそのご夫妻のお墓にあおいさんを案内すると、思いもよらずあおいさんがバッグからガイドブックを取り出し、そのお墓のことについて教えてくださったのです。

そのお墓に眠っているのは、森敬湖(たかみず)さんと奥様のちよかさん、とその時初めて知りました。

戦前からの在留者で英語教師だった森敬湖さんは、戦後マラヤ国籍を取りメソジストボーイズスクール(MBS)の校長として高い名声を得た。

ガイドブック 旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア
クアラルンプール日本人墓地内にある森ご夫妻のお墓

驚いたことに、メソジストボーイズスクール(MBS)は、筆者の中華系マレーシア人の友人の母校でした。そういえばその友人から以前に「T. Mori校長先生は日本人で、とても偉大な人だったんだよ。」と聞いたことがあったことを、その墓石の前で思い出したのでした。

その日がきっかけとなり、その墓石に眠る森敬湖さんちよかさんご夫妻が、突然身近な存在になったのでした。

それから、わたしたちはクアラルンプール日本人墓地を住み込みで管理している中華系マレーシア人のBillyさんと息子のHengさんにお話を聞きました。お二人の案内で御堂にご案内頂き、御堂内に掲げられている数々の写真や年表などの情報を拝見させていただく機会を得ました。

その後、その日の様子についてこちらの記事にまとめました。

それから2ヶ月後・・・

9月11日(日)に、再び榊原さん夫妻のお誘いで、クアラルンプール日本人会主催の日本人墓地慰霊祭に伺うことになりました。

通常は春と秋にの年2回催されていた慰霊祭はコロナ禍でずっと開催されないまま3年が過ぎましたが、この日初めて御堂に人々が集い、広島から僧侶を招いて慰霊祭りが盛大に行われました。高橋日本国大使夫妻が献花に訪れ、ゲストとして森敬湖さんの次男ご夫妻も招かれていました。

墓地の中を献花をしながら歩いていると、森敬湖さんのお嫁さんである中華系マレーシア人のキム・モリさんとお話しする機会に恵まれました。多くの人がいたため、彼女から「改めてまたゆっくりお会いしましょう。」とご親切にも電話番号の書かれたお名刺を頂戴しました。

その日がきっかけとなり、森敬湖さんのご遺族に取材をさせて頂くことになりました。

取材にご協力いただいたのは、森敬湖さんの次男で、英領マラヤ生まれの日系マレーシア人カツノリ・モリさんと奥様のキム・モリさん。それからエリック・タンさん(次女ミチヨさんのご主人)です。

キムさんとカツノリさん(次男)
エリック・タンさん(次女ミチヨさんのご主人)
熊本県天草出身
在マレーシア歴33年の榊原ご夫妻
同郷のご友人のお父様の墓石のお世話をされた事があり
毎年KL日本人墓地に慰霊に訪れているそうです。

戦前の英領マラヤと戦後のマレーシアで偉大な功績を遺した森敬湖氏とは

1898年に長崎県で生まれた森敬湖さんは、3歳の時に家族と共に英領マラヤへ移住。森一家は、移住間も無くの頃はクアラクブバル近くの街ラサというところに住み、両親はゴム園で働いていました。しかし、その暮らしは決して容易なものではなく、一家はクアラルンプールに移り住むことに。

その後、成長した森敬湖さんやそのご兄弟はメソジストボーイズスクール(MBS)で学び、その後は母校の英語教師として教壇に立っていました。

1933年2月、ちよかさんとお見合い結婚をすることになり、花嫁はマラヤで一番最初の日本式による花嫁衣装で結婚式を挙げられたそうです。
当時の写真が残っています。

1933年(昭和8年)マラヤ初の日本式の結婚式を挙げたお二人

結婚後、二人は平和な日々を送り、1933年11月には長男タカシさん、1935年長女シゲコさん、1939年次男カツノリさん、1941年次女ミチヨさんが誕生。4人の子供たちに恵まれました。

そんなある日、突然この一家を不幸が襲います。

太平洋戦争が勃発したのです。

幸せな暮らしが一転… 日本軍がマラヤにやって来て、突然一家は英軍によってインドに抑留された

1941年(昭和16年)12月8日未明、日本軍がマレー半島に侵攻。(その1時間半後に日本軍はハワイ真珠湾を攻撃)。

ある朝、奥様ちよかさんがいつも通り台所で家事をしていると、突然英国兵士がやって来て、森敬湖さんを連行して行きました。

その日の午後には、ちよかさん自身と子供達も連行され、ブリックフィールズにあるホテルに一時的に拘束されました。

その後、プドゥ刑務所へ連行されてしまいます。その当時英領マラヤにいた全ての日本人が連行される事態となりました。

その混乱の中、現地人と結婚している日本人だけは釈放され、他の全員は船で10日間を過ごした後シンガポールへと送られました。ほとんど所持品も食料もない中、そこから今度はインドのデリーへと連れて行かれました。

そのインドでの生活というのは、とても苦しく、描写のしようもないほどひどいものだった、と生前のちよかさんは回想しておられました。フラストレーションと後悔、そして空腹といった何の保証もない状態で、トラブルだらけの日々。果たしてこの生活がいつまで続くのかわからず、食料も貧しく、そして不潔な環境で薬品も十分になく、残念なことに病死してしまう人もいました。

そんな状況下、4人の幼い子供を抱えた母ちよかさんは、毎日神に祈って心を平静にするように努めていたそうです。

2012年(平成24年)に96歳でこの世を去った義理の母ちよかさんと非常に仲が良く、ありとあらゆるお話を聞いていたという次男カツノリさんの奥様キムさんからお話を聞き、当時ちよかさんが受けたインタビュー記事をお借りし編集しなおしました。(KL日本人会会報「日馬和里」編集部  忘れがたい偉大な日系マレイシアン)

この度は、カツノリさんとキムさんのご自宅にお邪魔しインタビューを敢行しました。

左から筆者、キムさん、カツノリさん(次男)

インドへ抑留された当時、3歳だった次男カツノリさんは、5年間を家族キャンプで少年時代を過ごしたことをこう振り返ります。

「僕は子供でしたからね。思い出すのは、現地の子供達(英領インドのインドの子供達)と同じ学校に通えていたし、イギリス人の先生や現地人の先生が英語で教えてくれました。そこで学んだ英語やゲームや歌など今でも思い出せるし、とても楽しかった記憶がありますね。両親は非常に苦労したと思いますが、子供だったわたしたちは学校に毎日通いそれなりの教育を受けさせてもらい、貧しいながらも子供らしい生活を送りました。」

カツノリ・モリさん

次女ミチヨさんのご主人エリックさんによると

「義父の敬湖氏のエピソードは、義母のちよかさんが彼が86年に他界した後も常に話してくれたので非常にたくさんありますよ。とても逞しくスポーツマンで責任感も強かった義父は、インド抑留中ある事件を起こしました。インドのデオリ日本人収容所(家族キャンプ)は、ヒンズー教寺院のそばに建っていて、そこで飼われている孔雀がたくさんいたそうなんです。女性や子供たちが栄養不足で飢えに苦しんでいることを許せなかった義父は、その孔雀を捕まえて羽をむしって焼いてキャンプに収容させられている人々に食べさせようとして捕まり(!)しばらく罰として牢屋に閉じ込められていたらしいですよ。」

エリック・タンさん

森敬湖氏の逞しさと責任感の強さが伝わるエピソードですね。

日本の敗戦… シンガポールを経てマラヤの自宅に戻るも見ず知らずの人が住んでいた

1945年の日本の敗戦により、森一家は他の日本人と共に翌年1946年にシンガポールへ移されました。この間、ちよかさんはインドの家族キャンプで三女フミヨさん、シンガポールで四女サダコさんを出産。

クアラルンプールに戻って来た時には、自分の家のはずの場所に見ず知らずのマレー人が住んでいて、仕方なく友人の家にお世話になることに。約1年間そのような日々が続き、その後は日本人墓地のあるお寺の一角に1948年から1951年まで住むことになりました。

森敬湖氏がマラヤに戻ってからは、MBSの教師に復帰し忙しい日々を送っていました。

1951年にシンガポールのラッフルズカレッジ(現在のシンガポール国立大学)で1年間学び、卒業後はふたたび教師を勤め、1955年にはMBSの校長に就任されました。

インド抑留から戻り苦しい日々を経て日常を取り戻した頃の撮影ではないか、とのこと(時期不明)

その頃マラヤ連邦はイギリスから独立(1957年8月31日)。その独立直前に政府より耳を疑う命令が下されます。

「日本で生まれた日本人は本国へ帰国せよ」 マラヤの友人たちから嘆願書が集まりマラヤ国籍となる


「日本で生まれた日本人は本国へ帰国せよ」森敬湖氏は日本で生まれた日本人(九州長崎出身で、3歳でマラヤへ移住)だったため、この政府の指示に従う必要がありました。

しかし、森敬湖氏の教え子や卒業生、同僚、友人たちの多くがマラヤ政府に対し嘆願書を提出。無事に受理されることになったのです。1957年初代首相となったトゥンク・アブドゥラ・ラーマンもその友人の一人でした。

二人はサッカーを通じて知り合い、戦後の両国間の絆をどう取り戻していけば良いかを日夜語り合ったそうです。戦前から義父の森敬湖は教師としてだけではなく、スポーツでも大活躍していました。マレーのナショナルプレーヤーとして、サッカー、ラグビー、ホッケー、クリケットなど数々のスポーツの分野でひっぱりだこだったんです。

キム・モリさん

マラヤ独立後、マレーシア日本両国間の橋渡し役として多忙な日々を送る


こうして、数多くの友人たちの願いが叶いマラヤ国籍を取得した森敬湖氏は、両国間の関係修復の橋渡し役として昼夜を問わず働きました。

ご自宅にお邪魔し当時の写真を見せていただきました。

マレーシア独立をきっかけに、当時の岸信介政権の招待で日本を訪れた初代首相トゥンク・アブドゥラ・ラーマンに伴い日本へ。森さんは初代首相の表敬訪問の公式通訳とカメラマンの大役を任されて首相が招かれた場所全てに同行したそうです。昭和天皇や岸首相との晩餐会の様子を写真に収めたのは森さんでした。

光栄にもご自宅で当時のアルバムを見せて頂きました
左からマレーシア初代首相、昭和天皇皇后、首相夫人、昭和皇太子(現上皇)
東京駅から箱根に向かう首相一行
(首からカメラを下げているのが森さんお隣が奥様ちよかさん)
当時は岸信介政権(首相と大臣たちと競馬観戦)


その後も、森敬湖氏は両国間の政治経済の交流に常に参加し、友好親善のために努力を惜しみませんでした。それから少しずつマレーシアと日本の外交関係が活発になり、いよいよ日本大使館設立の際にはマレーシア政府との交渉の場で森敬湖氏が中心となって物事が動き始めました。

民間企業の進出が始まると、当地での基礎づくりの援助をしたのも森さんでした。

多くの日本の民間企業が進出し始めた60年代頃、1963年にクアラルンプール日本人会が、1966年にクアラルンプール日本人学校の設立されました。そのための政府との交渉や手続きなども一手に引き受けました。

本業のMBSの校長として働きながら、クアラルンプール日本人墓地のお世話やYMCAの設立に私財を投じて奔走

森敬湖氏は、日本人関係のことだけではなく、本業の学校(MBS)の仕事、それからYMCA(YOUNG MEN CHRISTIAN ASSOCIATION)の奉仕活動などにも真剣に取り組みました。なんと、私財を投じて(当時所有していたバンサーの土地を売って)YMCA建設資金に当てたのだそうです。

その長年の献身的な貢献が讃えられ、国王アゴンからKMN (KESASTRIA MANGKU NEGARA)を受賞。1979年には、昭和天皇から勲四等瑞宝章を受賞しました。

授賞式での森さん
昭和54年 昭和天皇から勲四等瑞宝章を授賞

生徒たちから怖いと恐れられた愛のムチを振るう鬼教師の横顔も

当時のMBSの生徒だった友人からお話しを聞きました。

筆者の長年の友人でMBS卒業生のウォンさん

森敬湖氏(愛称はT. Mori)は非常に素晴らしい方でしたが、厳しいことでも有名でした。ルールに反する生徒には、躊躇わずにムチを振り上げると恐れられていました。みんな一度はムチで叩かれたことがあると思いますよ。僕はね、小学生の頃に朝始業前の時間友達とマーブル(おはじき)で遊んでいたら後ろからいきなりムチで叩かれた事がありますよ(笑)

MBS卒業生 ウォン・チー・オンさん

次女ミチヨさんのご主人エリックさんもMBSの卒業生でした。

僕が少し年上のミチヨさんと交際するということになった時、クラスメートに呼び出されてこう言われました。

「お前、ミチヨさんの父親が誰か知っているだろう。お前は勇気があるなぁ。まともな神経を持っているやつなら彼の娘に近づくなんてとても出来ないぞ。悪いことは言わないからやめておけ。」

次女ミチヨさんのご主人 エリック・タンさん
ユーモアを交えながら義父母の思い出話を余すことなく語ってくださったエリックさん
エリックさんのインタビューには、菅原あおいさんにもご同席頂きました

エリックさんも学生時代、未来の義父である森さんからムチの洗礼を受けた一人だそうです。

次男カツノリさんの奥様キムさんによると、MBSのミュージアムにその噂のムチが今も飾られているのだそうです!

4人のお子さん達が日本人と結婚することを望んでいた森さんは、諦めずに交際し続けた二人を最終的には認め、5年後にめでたく結婚することになったそうです。

余談ですが、エリックさんは輪廻転生を信じておられ、生後間も無く祖母に連れられ訪れた盲目の中国系のサイキック(超能力者)から、「過去世は日本人の軍人だった。」と言われたことがあるそうで、心は日本人だと話してくださいました。筆者も輪廻転生を強く信じている一人なので、興味深くお話しをお聞きしました。(詳しいお話しは、毎月定例の「平和のため会のおはなし会CROSSING」でお伝えしますので是非ご参加ください。)

クリスチャンの森敬湖氏の遺言「クアラルンプール日本人墓地に埋葬して欲しい」という望みを叶えた在マレーシア日本大使館

森敬湖氏が78歳の時(1986年昭和61年)に亡くなる前の遺言は
「自分の遺体はクアラルンプール日本人墓地に埋葬して欲しい」
だったそうです。

奥様ちよかさんが、仏教式の墓地にクリスチャンの夫の埋葬のため日本大使館を訪れ申請すると、理解を示した大使館から許可が下り、無事にクアラルンプール日本人墓地に埋葬されることになりました。

2012年には、奥様ちよかさんも96歳で愛するご家族のもとを去りました。現在はクアラルンプール日本人墓地のお墓に愛するご主人と共に永眠されています。

生涯をかけて自らの信仰に身を捧げ両国間のために努力を惜しまなかった森敬湖氏のお墓のお名前の上には十字架が彫られています。

最後に

最後まで読んでくださりありがとうございます。
この家族の物語を読んで、どんな風にお感じになったでしょうか。
筆者はマレーシア在住13年。
「親日のマレーシア」「ロングステイ人気NO1のマレーシア」ともてはやされ、マレーシアと日本の友好関係が強調されていた2010年に当地に移住して来ましたが、このような歴史があったこと、私財を投じて戦争で一度はズタズタに壊れてしまった両国間の関係の修復に人生を賭けた一家がいたことを知り、胸が熱くなりました。

ぜひ皆様にも知って欲しいと思い、インタビューを重ね、この記事を書かせて頂きました。ご家族の皆様もとても温かくわたしを迎えてくださいました。

わたしは研究者でもジャーナリストでもなく、単なるブロガーですが、わたしの想いを汲んでくださり、貴重な時間を割いてたくさんのお話しをお聞かせくださったカツノリさん、キムさん、エリックさん、心から感謝を申し上げます。

一人でも多くのマレーシア在住日本人の皆様に、この森家のストーリーが届きますように心を込めて。

2023年4月10日
Matahari@マレーシア🇲🇾

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