もし、広島原爆ドームを解体して、米国のウォ◯マートを建てるなんていう計画があったらあなたならどう感じますか?
matahari@マレーシアです
突然ですが、あなたに質問です。
もし、広島原爆ドームを解体して米国のウォ◯マートを建てるなんていう計画があったらあなたならどう感じますか?
そんなことが起こるわけがない
馬鹿げた質問だ
と、日本人なら誰もが思うのではないか、そう感じたあなたは、まともで道徳的な人ですね。私もそう思います。
この問いには、その人それぞれの歴史に対する認識や考え方が色濃く反映されます。日本人で広島原爆ドームどんな場所かを知らない人はいませんし、その保全のための努力がこの78年間絶え間なく続けられて来ました。
この先は、わたしがマレーシアで13年暮らした実体験を通して気付いたことを書きますので、この冒頭の質問に既に憤慨された方がいらっしゃったら、
これは単なる例え話だということを、まずご理解ください。
(不謹慎な例え話に使ってしまった米国のウォ○マートさんもごめんなさい。)
これからその理由を自分の言葉で書きますので、出来たら最後までお付き合い頂けると幸いです。
世界からの注目を浴びたG7広島サミット2023と実際にヒロシマを訪れた日のこと
世界中から多くの人が訪れ、「核廃絶」「平和」を守るシンボルとして、今年のG7サミットの訪問地にも選ばれた広島原爆ドームと平和記念資料館。
岸田首相は広島出身で元外務大臣も務められた方ですね。首相の非常に強い思い入れがあって、世界のリーダーたちのヒロシマ訪問が実現した、とTVや新聞で連日報道されていました。
(わたしはその時ちょうど日本に帰国していたので毎日そのニュースを見ていました。)
それから数ヶ月後の今年8月、12歳の息子を連れて、同じく同年代の姉弟がいる友人一家と一緒に広島を訪れることになりました。
非常に酷暑だった今年の日本にも関わらず、耐え難い炎天下の中でも、さまざまな人種の訪問者が長蛇の列を作って平和記念資料館への入場を待っていたのは印象的でした。
わたしたち親子もその列に並びました。まだ小学生と中学生の子供達が文句を言うかと思いきや、意外にも辛抱強く並んでいましたし、ごった返す8月の資料館の中でもじっくりと時間をかけてさまざまな展示物を食い入るように見つめていました。
わたし自身行けて良かったと思いましたし、多感な年頃の子供達ともその後かなり戦争と平和についての対話が進んだように思いました。
その時の様子はこちらに綴りました。
アジアの国々にとっての「ヒロシマ」のような場所には、いま何が起きているのか
一方で、アジアの数多くの場所では、旧日本軍が戦時中に罪のない現地住民を連行し、尋問し、傷つけたと言われている場所が数えきれない程ありますが、それにも関わらず、その場所を遺すことなく商業施設をその上に立てたり、忘れ去られてしまったような場所が数多く存在します。
戦後、まだまだ貧しい小国だった東南アジア国々の政府は、歴史遺産を自らの手で建設し存続させて行くということに消極的であった、ということもあるでしょう。
旧マラヤで、現地住民の手によって建てられた慰霊碑について調査してこられた高嶋伸欣氏の出版された本(旅行ガイドにないアジアを歩くマレーシア・シンガポール)によれば、出版当時で少なくとも全国に45ヵ所あると。
その本を手にした時の衝撃は、到底言葉にすることが出来ないばかりでなく、驚きを通り越して自分の無知を心から恥ずかしく思いました。
私たち日本人が学校では習うことのない「惨たらしい加害の歴史」が、もっとわかりやすく言えば「侵略戦争を経験した国のそれぞれの家族の物語」の数々が、アジアの各地至る所に存在しているのです。
わたしがこの活動を始めて質問を重ねていくと、それまで仲良くしてくれていた友人たち(マレーシア人、シンガポール人、ビルマ人、ミャンマーのチン族、フィリピン人)の口から耳を疑うようなその時代を生きた祖父母たちが受けた被害の物語と、いかにして生き延びたか、と後世に残したメッセージを聞くことができました。
私たち日本人の祖先が、広島や長崎に投下された原爆で、沖縄の地上戦で、日本全国で起きた大都市への空襲で、飢えや貧困で、尊い命が奪われたように。
今ここアジアで縁があって出逢う大切な友人たちは、その時代を生き延びた人たちの子孫なのだ、という当たり前のことが目の前に突きつけられたのです。
ただ、そんな話を、日本人の方から訊ねることが無ければ、向こうから話してくれることはまずありません。
当然ですよね。だれがそんな話を今更掘り起こして歴史を何も知らない哀れな日本人のために親切に教えてくれると思いますか?それによって今のせっかく築いた友人関係を壊すリスクもあります。
あなたの目の前にいるアジア人のお友達、仕事仲間、取引先の人・・・表面的には「親日」とあなたに親切にしてくれますが、だからと言って、その過去が消えて無くなるわけがありません。そして、代々語り継がれていくのです。
Forgive, but Never Forget. (赦そう、しかし絶対に忘れない)
とはシンガポール建国の父、李光耀(リークアンユー氏)の言葉です。
そして繰り返しになってしまいますが、戦後瞬く間に米国の元で世界の経済大国へと変貌を遂げた日本を相手に、その話を持ち出すことは政治や外交の世界では完全なるタブーだったのです。
わたしたちの祖父母たちが口を固く結んで、軍事教育を受けていた過去の話を絶対にしなかったように。
ここまで、辛抱強く読み進めてくださった方、ありがとうございます。
では、また質問です。
あなたの家族間で伝わる戦争を生き延びた祖父母たちの物語を
「もうずいぶん昔に起きた過去のことなのだから、そろそろ忘れましょうよ。手放して先に進みましょうよ。」
と誰かが言ったら、あなたは果たして賛成できるでしょうか?
わたしは、もしそういう事を考える人がいたら、到底賛成は出来ない派でが、、、また、責めることもしません。そういう考えもあるのだなぁ、と思うようにしています。
「未来に生きる人々のために、この負の物語を伝える場所を、私たちの手で素敵な街に生まれ変わらせましょう。みんなが集う商業施設を作りましょう!」
とアメリカ人の誰かが言い出して、原爆ドームを解体するなんて話が出たら、日本人は黙っていないのではないでしょうか?(※繰り返しますがこれは例え話です)
せっかくのこの素晴らしい街の中心地(一等地)なのだから、未来ある人々のために活かしましょう。それはもしかしたら完全に悪い考えではないのかもしれない。あなたが過去を振り返らない、そういう信念を持つことに反対はしませんが、それでは到底納得出来ない人々が、この世の中に星の数ほどいることを、頭の片隅にぜひ置いていて欲しい、と心から願わずにはいられません。
わたしがストーリーテラー(語り部)活動を続ける理由
私は、この地に住みご縁のあったアジアの人々からお話を聞き、それを書いて伝えるストーリーテラー活動をしています。
もしそれで、「自分ごと」に置き換えて考える人が、これからずっと続いていく時代の中で、一人でも増えてくれたら、と願いながら。
戦争を知らない三世のわたしに一体何が出来るのか、いつも葛藤を抱えながら。
今はこうして偉そうなことを言っているわたしも、実を言えば、全く自分の家族の、祖父母たちの物語を知ることなく育ちました。正直わたしの戦後生まれの両親も親戚もあまりよく知らないのです。
なぜなら、当時を生きた人々、戦争を生き延びた世代の人々は、しっかりと口を固く閉ざしていたからです。その世代の親に育てられたわたしの両親たち(団塊の世代)が後期高齢者となる社会がやって来ました。過去の証言に触れる機会はますます限られて行きます。
次回は、私がこのアジアでの戦争証言「それぞれの家族の物語」を伝えるストーリーテラー活動を始めて、ようやく辿り着いた自分自身の家族の物語について少しずつ触れて行きます。
祖父たちの軍歴を調べて分かった衝撃の事実についてお届けします。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
よろしければ、サポートをよろしくお願いします!いただいたサポートは、マレーシアでの平和活動を続けて行く際に、大切に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。