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先の大戦はまだ終わっていない。ミャンマー(旧ビルマ)の大地で今も眠る旧日本兵たちと、国を追われた難民の子供達の支援活動。


ビルマで大勢の戦没者を出したインパール作戦とは?

当時のイギリス領インド帝国の北東部にあるインパールを攻略するために立案された作戦において、関わったほとんどの日本軍兵士が死亡したため「史上最悪の作戦」として語り継がれている<インパール作戦>。ビルマ(現ミャンマー)との国境近くにインパールはあります。

第二次世界大戦が事実上の終戦を迎える前年の1944年(昭和19年)3月に起きました。当初3週間でインパールを攻略する予定で立案されましたが、数ヶ月も延長され、終結したのは、なんとその年の7月でした。

驚くことに、その作戦によって死亡した兵士たちのほとんどが、栄養失調による餓死でした。ビルマ北東部各地で次々に倒れ、そのまま母国の地を踏むことは二度とありませんでした。(この作戦による戦死者の数は3万とも4万とも言われています。それだけのご遺骨がまだミャンマーの山奥に眠っているということになります。)

インパール作戦を戦った生存者の証言

国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う世にこれほどの悲惨事があろうか。

これは、インパール作戦を指揮した第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐち・れんや)中将に仕えていた齋藤博圀(さいとう・ひろくに)少尉の言葉です。

90代という高齢になって初めてNHKの取材に答え、詳細に第二次世界大戦中の様子を語りました。

この「史上最悪の作戦」と呼ばれるインパール作戦。ビルマ(現ミャンマー)北部と英領インドの国境地帯にあった連合軍の基地を、旧日本軍が陥落を目指し侵攻。杜撰(ずさん)で無謀な計画だったため、熱帯雨林という過酷な環境の中で物資も兵器も十分に与えらないまま、兵士たちは日に日に疲弊し、インパールに辿り着く前に物資は完全に底をつき、戦闘に耐えるうる状態ではありませんでした。

これ以上の作戦継続は難しいと判断し、突如今度は撤退命令が出されてからも、兵士たちは飢えに苦しみながら、敗走路となったビルマの農村で次々に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。その数は数万とも言われています。

旧日本軍兵士たちのご遺骨はそのまま回収されることなくその地に残され、その地域は地元の人たちから「白骨街道」と呼ばれています。

現地の人たちを丁寧にインタビューし制作されたドキュメンタリーがあります。彼らが発掘した旧日本兵のご遺骨を大事に保管してくださっていたり、当時の様子を語る地元のおばあちゃんなどが映像に出てきます。

前述の齋藤博圀さんの証言によれば、軍司令官と参謀の無謀な作戦を推し進める乱暴な会話を間近で聞いていたそうで、その理不尽な内容を聞き苦悶しながらも逆らうことも出来ず、最終的には司令部から齋藤さん自身もビルマのジャングルに置き去りにされてしまったそうです。その当時の非常に複雑な胸中を、齋藤さんは日記に克明に綴っています。

ご興味のある方は、このドキュメンタリーをご覧ください。クリックすると観れます。

NHKスペシャル「戦慄の記録・インパール 完全版  2017年12月27日
 前編後編 


なぜ、私がこの歴史的史実に興味を持ったのか

過去記事でも触れましたが、

マレー作戦に従事した私のルーツがある福岡県久留米市の第18師団(菊兵団)が、シンガポール陥落後にビルマの作戦に関わっていたこと(フーコン地区を担当していました)

また、プロフィールにも書きましたが、

私は2年前ほど前からミャンマー(旧ビルマ)からマレーシア国内に逃れてきた少数民族チン族の難民たちと交流していること。

この二つが、過去にこの地で起きたことに対する興味を持つきっかけとなりました。

少し脱線しますが、チン族難民はビルマ国軍から、キリスト教徒である信仰の自由を奪われ強制労働を課されるなどの迫害を受け続けており、長年故郷に帰ることは出来ず、マレーシアで慎ましく暮らしています。国連の難民条約の当事国ではないマレーシアでは、難民の子供たちは学校教育を受けられず、寄付などによる善意で運営される学校で学ぶ他ないのです。

私が毎週通っている学校は、完全なる難民コミュニティの自治で、先生となる人材も全く足りず、ボランティアに頼っている状況です。ご縁があって、彼らに関わるようになった私は、5歳から8歳の難民の子供たちに、英語やクラフトを教える授業を毎週ボランティアで実施しています。

白骨街道とは?

「白骨街道」に話を戻すと、私がお付き合いしている難民たちの故郷であるチン州の北部や、周辺の州には、昔々戦時中に傷ついた若い旧日本兵たちのご遺骨が未だにたくさん発掘されずに眠っており、村人の間で語り継がれていると、自身も難民である若い先生からお聞きし知ったのです。その先生が現地の言葉で詳しい内容や場所などを調べてくださっています。

今年3月に大阪で開催される大阪アジアン映画祭でも、このチン州北部を舞台にしたショートフィルムが上映されるようです。(筆者はまだ観ていません)

また、現在ミャンマー国内で長年にわたって続いているビルマ国軍と少数民族の衝突ですが、停戦状態にならないとこのような発掘作業はできないようです。

少数民族の迫害を続けるビルマ国軍と日本軍の関係

わたしがリサーチを続ける中で、もっとも衝撃を受けた事実は、ビルマ国軍に軍事訓練を施したのが旧日本軍で日本式の軍隊であるということでした。

日本が関わった戦争は、第二次世界大戦の終戦から75年たった今も、実は終わっていないのです。

今を生きる私にできること:未来を生きるチン族難民のこどもたちへのボランティア先生の活動

この難民支援のボランティア活動を応援してくれている、長年の付き合いがある親しいタイ人の友人に、このミャンマー北東部各地にあるとされる「白骨街道」の話しをしたところ、ミャンマーと国境を接するタイにも、未だたくさんの旧日本兵の遺骨が眠っているという話や、終戦後に日本に帰らないことを選んだ未帰還兵と言われう人たちが現地のコミュニティに溶け込んで今も暮らしている、とテレビで観たことがある、と話してくれました。

こういうきっかけがないと、どんなに長い付き合いだとしても、なかなか戦時中の話題は持ち出さないと思いますが、思いがけずタイでのお話も聞くことが出来ました。

私が熱心に話しているのを遮ることなく最後まで聞いてくれた後、彼女がこんな言葉をかけてくれました。

「あなたは、時代を超えて彼らに恩返しをしているんだね。」

言われた時は、あまりピンと来なくて、その場では素通りしてしまったこの言葉。

このタイ人の友人が、私に伝えたかったことが後になってじわじわと伝わってきて、それが嬉しくて泣いてしまいました。

祖父が戦争に行かずに生き延び、孫娘に命をつなぎ、マレー半島にご縁ができました。

もし祖父母が生きていたら、私に何を託すのだろう。

この友人の言葉をきっかけに、深く深く考えるようになりました。

人と人の出会いは不思議で運命的だな、と思います。

誰に言われたわけでもなく、自ら選んだボランティア活動。お互いのルーツを辿ると、国同士にそんな歴史があったなんて。始めた頃は全く知りませんでした。これもきっと必然で、導かれたからこそのご縁なのでしょう。

一人にできる活動には限りがありますが、少しずつ仲間を増やし、ミャンマー(旧ビルマ)の未来を変えて行けるような、愛と希望を持った人を育む場所が永遠に継続して行けるように。

迫害されたという過去は変えられませんが、起きてしまったことを乗り越え、やがて許すことが出来る強さを身につけるためには、仲間との愛のある横の繋がりがとても大切になって来ます。

微力ながら、今後も支援を続けていこうと思っています。


よろしければ、サポートをよろしくお願いします!いただいたサポートは、マレーシアでの平和活動を続けて行く際に、大切に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。