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コミュ障じゃなくて、それは人間愛

私はコミュ障だから。

と、いろんな場で宣言してきた。

もし私があなたに何か勘違いなことを言ったとしても、許して下さい。もしくはたくさんの人が集まる場で、うまく振る舞えなくても勘弁してください。

あらかじめ予想される自分の失態を「コミュ障なんで」という便利な言葉を使いごまかそうとしていた。



確かに私は、初対面な人との面会が続くと、とてつもなく疲弊する。交流が目的の飲み会なんざ出たときは、家につく頃には抜け殻のような状態になる。会が終わりに自宅に着く。そしてパタンと自宅のドアを締め終えたあと、化粧も落とさずベッドに横たわる。そしてSNS上で作り上げた、自分にやさしい人たちがいる世界に逃げ込む。

はぁっ、疲れた...。

あぁーお会いできて嬉しかったです! すてきな時間をありがとうございました。とか、本当は返事しなきゃあかんよな。うぅ...今は無理だHPが0。

とかとか思いながら。



今年こそはこのコミュ障問題を少しは改善していかなければ。なんて思いながら、今日京都の街をすてすてと歩いた。

歩きながら、この1年私が会ってきた人たちの顔を思い出す。参加してきた「場」を振り返ってみる。

うんん?

私、結構そつなくこなせていたんじゃない? 自分が主催したイベントなんかも、良いフィードバックをもらえて、3次会まで盛り上がったな。人間関係の大きなトラブルもなく、知り合った人の多くと今も連絡しているしな。コミュ障じゃないかもしれないな。



あれ? 私なんで自分のことをコミュ障なんて言っちゃうんだろう。



桜の花びらが、昨日の雨で歩道に張り付いている。そんな京都の道を歩きながら、さらに考えを巡らす。

きっと疲れるからだよな。まだ親しくない誰かと会ったあと、くたくたになった心と身体をリカバリーするのにものすごく時間がいるからなんだろうな。だから自分のことを「コミュ障」って名乗っちゃうんだろう。

私が思うコミュ障ってのは

コミュ障=コミュニケーション後にめっちゃ疲れてしまう

こういうことなんだと気づいた。



じゃあ、なんで私はこんなに疲れ果ててしまうんだろう。



平日のお昼間、外国人観光客でパンパンになった京都の市バスに揺られながら、自分の問いに向き合ってみる。

もう一度、私が誰かと話をする場面を思い浮かべてみた。

うん、どんな場であっても、どんな人であっても(幼稚園生であっても)、私は全力で意思疎通をしようとしていたな。

この人が本当に言いたいことは何なんだろう?
この人が話していることを理解したい
私の聞き方、話し方はこの対話にフィットしているのか?

こんなことを無意識のうちに頭にかかえ、いかなる時も五感をフル動員し、100%全力でコミュニケーションを取ろうとしていたんだなって。



バスが目的地に着いた瞬間に気づいた。

誰かの話を理解したい、私の話を聞いてほしい、これってつまり。

私、ただ人が好きなんだな。つながることが本当に好きなんだな。




そんなことを考えながら、バスの運転手さんに満面の笑みを向け「ありがとう」と言い残し、バスを降りた。

運転手さんは前を向いたまま。私の言葉は聞こえていなかったようだけれど。

まぁ、そういうことなんだけどね。

となんだかおかしくなって、私は再び京都の街を歩き出した。

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