続いていくもの

2014年6月。川崎での新しい住まいは等々力陸上競技場のすぐそばにあった。週末の度に聞こえてくる歓声に引き寄せられて、縁の無かったJリーグの試合を見に行くようになった。

中村憲剛と言う人を知ったのもその頃だ。ピッチを駆ける選手の見分けがつかなかった頃も、あの猫背はすぐに探し出す事ができた。知らない誰かとハイタッチして喜んだ初優勝、連覇、ルヴァン杯。いつしか私は青いものばかり選び、アウェイ遠征に出かけ、年齢を聞かれると「川崎フロンターレの中村憲剛と同い年です」と答えるようになっていた。

2020年11月。中村憲剛が会見を開くと聞いて、真っ先に「引退なのかな」と思った。ふろん太くんがまず映った中継画面を見て、お得意のおふざけかと安堵したのに、やっぱり引退だった。怪我を治すのにかかった時間より、治った後ピッチに立てた時間の方が短いよ、もったいないよ。でも彼の表情を見て、肚におちた。このまま続ける事もできたはず。でも、後悔のないようにやってきたからこそ、自分で終わりを決められるんだ、ちゃんと納得できるんだ。

2020年12月。母が急死した。中村憲剛の引退セレモニーは葬儀の翌日だった。親の葬式の翌日に良くもまあと呆れる人もいるだろうが、セレモニーの間笑ったり泣いたりしながら、本当に来てよかったと私は何度も思った。行かなかったら後悔していたとは言わない。それはそれで私は暮らしていただろう。どれほど失っても、取り戻せなくても、私自身を失わない限り、私の人生は続くのだ。

2021年元日。実家で天皇杯決勝を見た。眠ってしまった父を起こさないように、息を飲んでテレビを見つめる。先制点の後ピッチに寝転んだ彼を見て、アップの時もいつもああやって寝転んで空を見ていたな、と思い出した。試合終了の瞬間、実家の居間に彼のように寝転んで大の字になり、良かったねえ、と呟いた。空は見えないが、天井が見える。母も居間で良く昼寝をしていた。きっと母も見た天井だ。涙がこぼれた。

ケンゴさん。折れないでいてくれて、「続ける」をやめないでいてくれて、ありがとう。1980年生まれのひとりとして、あなたの存在は誇りです。緑のピッチで、その猫背を見つける日を楽しみにしています。

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