昔々の話には

「悪いことはいわぬ。名前に也の字があるお主は、そこに近づかぬほうがいい」
(あの老人は、確かにそう言っていた)
半時間前ことだ。
峠から麓へと降りたところで、ガタガタな車道脇を歩く作務衣姿の老人に、峠から見えた水辺への道をたずねるや否や、そう返されたのだ。
「これは、この地で語り継がれてきた話なのだが…… 」
私の頭の中に、老人が語って聞かせた昔話がよみがえる。

昔々、この地に高名な寺があってな、その向かいに庄屋があった。
あるとき、寺に立ち寄った旅の僧と庄屋の娘が恋仲となり二人して墜ちるところまで墜ちてしまった。
――その結果、命を落とした旅の僧は寺の墓地に葬られ、娘は役人が捕らえようとしたそのとき突如大蛇へと化した。
七日七夜、その大蛇は暴れに暴れ、その一帯は沼へと化し、大蛇はその沼の奥底へと姿を消したのだが、奇怪は続いた。
若い男が沼の側を通ると行方知れずになることが度重なったのだ。
生き残った寺の住職に門徒らが、旅の僧と大蛇と化した娘を一箇所に弔い、法要を行い、慰霊碑を建て、ようやく怪奇がおさまったという。
以後、この地では、その法要が毎年が行われ、年号が変わるたび慰霊碑を建てるのが慣わしとなったのだが……
(昔話や怪談話には忠告も併せ持っている。それなのに私は、好奇心に負けてしまった)
――この水辺に来るまでに、私は令和の年号が入った慰霊碑を見ただろうか?
――過疎化に世界的感染症の禍の中、大蛇と化した娘の法要は行われていたのだろうか。
――いや、それよりも、あの老人に自分の名前を告げただろうか。
……今の今になってから、そのことに気づく。昔話で繰り返し語られた禁忌を破ってしまったばかりに、自ら境地に陥るという戒めを。
(ああ、私は……)
峠の木々の合間から水辺を見たときから、私は捕らわれていた。沼というには大きすぎる水辺から、…也様…也様と繰り返し聞こえる、その声の主に。
――よいか、也の字を持つ若者よ、水辺へ近づいてはならぬぞ。でないと、そなたも、その娘に命を奪われ、悠久の刻を過ごす虜にされるぞ。
老人の忠告と共に、私は底なし沼へと沈み逝く。

ちくま800字文学賞に投稿した作品に加筆訂正