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カルティエ・ラタンの事情


数日前に久し振りにサン・ミッシェル広場までやって来た。特に用事は無かったのだが、そこにあるジベール・ ジューンという大型書店の6店舗のうち、半分以上が3月末に閉店したと言うニュースを聞いて、信じられなかったのでこの目で確かめる為であった。

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ジベール・ジューン(Gibert Jeune)には学生時代大変世話になったという事と、場所的にあのサン・ミッシェル広場で2番目に目立っていたので(1番は勿論あの聖ミカエルの噴水)、無くなるなんていったら近辺はいったいどうなってしまうのだろう。そもそも去年までは広場から細道までカフェやレストランに集まるツーリストでギッチリのところで、値段も味も(サーヴィスも?)ピンからキリまでで、あまりの騒がしさに時には不愉快な気分を味わうこともあった位。それでも時々足を運んでいたのはジベール・ジューンに本などを探しに行く為であった。なぜジベール・ジューンかというと、第一には種類が豊富なこと、美術史、旅行関係などに分かれているのだが、そんなに時間がない時は店員さんをつかまえてインターネットで探してもらうと速かった。タイトル、筆者、出版社名さえわかればあっという間だ、

第二にはものによって同じ本が新品と中古と並んでいるので、見知らぬ人が既に使用したものでも気にならない人は中古を選ぶとかなり安くなる事もある。私の大学は特に教科書がなく、教授や講師の話を聴いて素早くノートを取らなくてはいけなかった。最初の授業の時にビブリオグラフィ(書誌情報)が配られて、リストにある本をもとに勉強すれば試験はバッチリという事である。が、特に教授のオススメの本などは大学の図書室に授業終了後に行ってもとっくに誰かが借りてあって、まず私のところまで回ってくることはなかった。読むのも遅いし。そういう時はジルベール・ジューンまで行って中古で買って読む。読み終わったら買い取りもしてもらえる。

最近は行ってなかったが、やはり実際にすっかり変わってしまった風景は私にショックを与えた。本屋の帰りには広場からノートルダム大聖堂を眺めて、お腹がすいていたらクレープを食べて帰ったけど、クレープ屋もなかった。

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この辺りが復活するのはいったいいつなんだろうかと思うと気分が暗くなるのでそれよりカルティエ・ラタンに灯りを、と希望を持ち続ける方が精神的にましであると考えた。

カルティエ・ラタンの名前の由来については私のnoteでの記事、<パリオススメ散歩>を参照願いたい。最初の方に簡単に説明してある。イメージ的には学生でいっぱいのカフェ、本屋などであるが、近年は最初の方で述べたように特にサン・ミッシェル広場には観光目的の人々の数がそれを上回った感じであった。ノートルダム大聖堂やサント・シャペル教会等の帰りに食事、カフェ、あるいは土産屋目的の人々で界隈はごった返していた。

古くからの良いものがたくさん残っている事でも知られていた。それがこんなに変わってしまうなんていったい誰が予想したであろうか…。

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現在ノートルダム大聖堂のすぐ近くにあるシェークスピア・アンド・カンパニーは元々(初代オーナーは1912年よりシルヴィア・ビーチ、アメリカ人)は他の場所にあったが、その時から英語文学作家と読者の出会いの場所であったことと、アーネスト・ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルドの様な著名な作家達も頻繁にここに通ったというところが︺普通ではない。また、映画などのロケ地に使用された事でも知られている。2011年にはウッディ・アレン監督の<ミッドナイト・イン・パリ>にも登場した。

現在の建物は16世紀に修道院として建てられたものだったそうで、2代目オーナーのジョージ・ウィットマン(やはりアメリカ人で1951年より)によってこの場所に移されたが、当初は店の名前は<レ・ミストラル>といった。<シェークスピア・アンド・カンパニー>と言われるようになったのは1962年、初代オーナーのシルヴィア・ビーチが亡くなった後からであった。

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店内に入ると棚にギッチリと並べられた本の数に圧倒される。また、ベッドを備えた宿泊施設もあり、無名の若い文学者は書店の手伝いをする代わりにそこに宿泊、また食事をする事も出来た。そんな<シェークスピア・アンド・カンパニー>は(現在のオーナーはジョージ・ウィットマンの娘のシルヴィア・ウィットマンである)カルティエ・ラタンの近代史を語る事の出来る貴重な存在であるが、昨年のフランス最初のコロナ感染拡大予防対策の為のロックダウンの時以来経営ピンチであると言われている。

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カルティエ・ラタンには数多くの書店があるが、中でもこの店の人気度は群を抜いている。置かれている本は皆英語であるとはいえ、これからも地域の重要な存在であってほしい。

オーナーを始め、スタッフ達の対策アイディアとして、まずはフェイスブックやインスタグラム等で現在の状況を訴え、店の営業時間を短縮し、併設のカフェに至っては週末のみのオープンにした。本の紹介や販売も出来るだけインターネットで、クイック・アンド・コレクトのシステムも利用するようになった。さらに有志が中心になって友の会を結成した。会費を納めなくてはいけないが、会員ならではの特典も多々あるようだ。こうして、店がもとのように復興出来る様に皆で頑張っている。

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さて、ここでもう一つカルティエ・ラタンの歴史と素顔を語るのに欠かせない店について話そう。

それは<ル・カボー・ド・ラ・ユシェット>、パリ最古のジャズクラブである。現在の様にジャズクラブになったのは1949年以来であって、建物自体、特に地下は1551年以前にはテンプル騎士団と薔薇十字団の集いの場所であった。1772年にはフリーメイソンの秘密の場所となり、フランス革命時期にはコルデリエクラブとモンタニャールクラブの集会の場所であった。地下には2つ部屋があり、上下に重なっている。上の部屋では話し合いや、飲んだり歌ったりが盛んに行われていた。ダントン、マラ、ロベスピエールなどが中心となっていた。下の部屋には今でも井戸が残されているそうであるが、実は当時捕えられた者の裁判での判決がくだされた後、ある者はギロチンに、また別の者はその井戸に投げ捨てられたという寒くなるストーリーが実在していたそうだ。

第二次世界大戦後にジャズクラブになってからは、人々はここで演奏を聴き、飲んだり、ひと晩中踊ったりしたのである。当時流行ったのはスウィングやビーボップなどで、皆自由に、また心の底からジャズを楽しんだのであった。ライオネル・ハンプトン、カウント・ベイシーやアート・ブレイキーなど偉大なるアーティスト達がここで演奏をした。

1970年からはヴィブラフォン奏者であるダニー・ドリスがこの<カヴォー・ド・ラ・ユシェット>のオーナーとなって現在に至る。

映画の<ラ・ラ・ランド>のパリでの舞台としても登場した。ポスターが今でも店の前に貼ってある。

今回経営状態などの話は特に聞いていないが(クラブやバーなどはもう一年以上扉を閉ざしたままなので)、何としても頑張ってまたカルティエ・ラタンの顔として再開してくれないといけないのである。

その他、現在はレストランであるが、パリで一番古いカフェとして知られている<ル・プロコープ>の存在も忘れてはいけない。やはり一時的に閉店しているが、その内装や、またナポレオンがおいて行った帽子が店内に飾られている話(現在では店内のガラスのケースに入っているので店に入らないと見られなくなった)は有名だ。このようにカルティエ・ラタンには、また他にも様々なストーリーがあり、学生街から旅行者で賑わう街へと移り変わっていったのも納得出来る。一刻も早く以前の姿に戻って活気を取り返して欲しいものだ。

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