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「科学的新発見も何もなかった」UFO体験を追って30年のあの方はそうしみじみと語った・・・

さて今回はちょっと気になるポストがX(旧Twitter)のおすすめで流れて来ました。

発端はUFO事件簿という方が、ある農学博士の方が書いた記事に対するやや否定的な投稿で、それに被せるように引用した以下のポストでした。


この哀しみ色のポストの投稿主は、以前こちらの記事でも取り上げさせて頂いたオカルト懐疑派の皆神龍太郎氏でした。
一度は素通りしそうになったのですが、読むほどに色々気になって来ました。

まず気になるポイントは、”科学的に向き合って”という部分と”科学的新発見も何もなかった”という部分です。

”科学”という物差しを持って来て測ろうと試みたが、そもそもそれ以前の問題(嘘や見間違い等)である事が大半で、物差しの目盛りを数えることすら叶わなかった、というような趣旨だと思います。それだけ聴くとそんなに変じゃない気もするのですが、やっぱりちょ待てよ、と。

まず、一体いつ誰がUFO体験というものが「科学的に測れる現象」だと決めたのでしょうか。

仮に嘘や見間違いではない未知の現象を目の当たりにしたとして、既存の科学で測れるという確証はどこからやって来るのでしょうか。

また、”科学的新発見も何もなかった”の部分も違和感があるのですが、もしも未知の現象があり、”科学的”に”新発見”をしようと思うなら、少なくとも「既存の科学そのものの領域を拡張すること」が必須なのでは?とも思うのですがどうでしょうか。だって未知なんだもの(だからこそ、日々世界中で新しい研究が行われていることでしょう)。

今や科学的に常識となっているあらゆる事は、そうやってある種MADな偉人達が、変人だなんだと罵られながらも領域を広げて来た営みの積み重ねの上にあるわけですよね。
あるいは皆神氏は人智の限界を自ら規定できるほどの全能の持ち主なのでしょうか。


で、さらに驚いたのは、先のポストに対し『ムー』編集長の三神氏が返信された後、その返信に対してされたこちらのポスト。


「元々あると思ってやってませんでしたので」

これにはぶっ飛びました(食べかけのサンドイッチが)。

何かを探求する者としては一番駄目なやつじゃないですか。

ましてやそれが「一体何なのか、どんな物差しで測ったら正解なのかすら未知である」ところのUFO体験について調査する際のマインドとして、「予め何らかの結論を持った状態で挑む」って、少なくとも"科学"の物差しを信じるのであれば尚更あかんスタンスだと思うのですが違いますか?

あるいは三神氏とのやりとりは半分冗談?それならそうであって欲しいくらいですが。

以前の記事で私は皆神氏が予め”懐疑派”であると自ら名乗っておられることに対して疑問を感じるという趣旨のことを書いたのですが、今回その理由が改めてよく分かりました。


まあ現状の科学で説明できないことを信じるか信じないかは勿論自由です。ただ、いまだ我々人間は我々自身のことさえもきちんと説明し切れる言葉を持っていないのが現実であり、その部分にこそオカルト的探求の無限の楽しさがあるわけで。

そもそもUFO体験をそこまでして否定したいメンタリティとは何なのか?という興味は(また別の話として)あります。
インチキ霊能ビジネスを暴くとかならまだ分かるんですが、ただの一般人が「UFO見た」と言って回ったところで、それを見て「馬鹿だ」と思うのは自由ですが、一体誰の人生に迷惑がかかるのか。

もっと言うと、皆神氏を始め、オカルトからそう遠くない場所に根ざしながらあえて「UFOを追っても、結局何も得られなかった・・・」と肩落としぎみに周囲に語る方々に漂う独特の「裏切られた感」。あれは一体何なのか。「世の中には知らない方がいいこともあるんだよ」的な諦念さえ感じます。
彼らもかつては純粋無垢なビリーバーだったということなのでしょうか。だとすると、彼らを絶望させたものは本当に数多の嘘や見間違えなのか。

そもそも科学を盲信して硬直してしまった自身の(かつてはふわふのスポンジ状だった)マインドこそ問題なのではないのでしょうか。

まあ私も含め、結局人は自分の見たい世界しか見ていないのかも知れないですけどね。ならばせめて、胸躍る世界を見るための工夫をしたいものです。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!



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