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人間失格(挿絵付き)第23話_罪
←第22話
自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、
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たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。 「いいかい? 煙草は?」 と自分が問います。 「トラ。(悲劇(トラジディ)の略)」 と堀木が言下に答えます。
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「薬は?」 「粉薬かい? 丸薬かい?」 「注射」 「トラ」 「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」 「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」 「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇(コメディ)の略)なんだぜ。死は?」
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「コメ。牧師も和尚(おしょう)も然りじゃね」 「大出来。そうして、生はトラだなあ」 「ちがう。それも、コメ」 「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」 「トラ、トラ。大悲劇名詞!」 「なんだ、大トラは君のほうだぜ」
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こんな、下手な駄洒落(だじゃれ)みたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも嘗(か)つて存しなかった頗(すこぶ)る気のきいたものだと得意がっていたのでした。 またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、対義語(アントニム)の当てっこでした。黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。 「花のアントは?」と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、 「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」
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「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語(シノニム)だ。星と菫(すみれ)だって、シノニムじゃないか。アントでない」
「わかった、それはね、蜂(はち)だ」
「ハチ?」
「牡丹(ぼたん)に、……蟻(あり)か?」
「なあんだ、それは画題(モチイフ)だ。ごまかしちゃいけない」
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」
「まずいなあ、それは浪花節なにわぶしの文句じゃないか。おさとが知れるぜ」
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「いや、琵琶(びわ)だ」 「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」 「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」 「ついでに、女のシノニムは?」 「臓物」 「君は、どうも、詩(ポエジイ)を知らんね。それじゃあ、臓物のアントは?」 「牛乳」 「これは、ちょっとうまいな。その調子でもう一つ。恥。オントのアント」
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「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」 「堀木正雄は?」 この辺から二人だんだん笑えなくなって、焼酎の酔い特有の、あのガラスの破片が頭に充満しているような、陰鬱な気分になって来たのでした。
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「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」 ぎょっとしました。堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂(い)わば「生ける屍(しかばね)」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ、と思ったら、さすがにいい気持はしませんでしたが、しかしまた、堀木が自分をそのように見ているのも、もっともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だったのだ、やっぱり堀木にさえ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考え直し、 「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
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と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。 「法律さ」 堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆(あき)れかえり、 「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」 罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。
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「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」 「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」 「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」 「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」 「悪と罪とは違うのかい?」 「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」 「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」 「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」 「ありがてえ。好物だ」
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両手を頭のうしろに組んで、仰向(あおむけ)にごろりと寝ました。 「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」 「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」
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死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の何処どこかで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。
自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持が険しくなって来るのを懸命に抑えて、ほとんど独りごとのようにして言いました。
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「しかし、牢屋(ろうや)にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼(ああ)、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」 「ツミの対語は、ミツさ。蜜(みつ)の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」 「君が持って来たらいいじゃないか!」 ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出ました。
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「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」
ほとんど、ろれつの廻らぬくらいに酔っているのでした。
「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」
「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」
出鱈目(でたらめ)を言いながら起き上ります。
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罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容(あいい)れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に、
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「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。
「なんだ」
異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、
「見ろ!」
と小声で言って指差します。
自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。(つづく)
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→第24話
ども!横井です。ピッコマで縦読みフルカラーコミック「人間失格」を連載しております。
さあ「人間失格」も佳境です。どぎついです。
この後葉蔵とヨシ子はどうなっていくのでしょうか。
次回 人間失格 第24話_悲惨
よろしくお願いいたします。