タクシーに転職するまで ①【上京の頃】
私は41歳でタクシーに転職した。
今から約20年前の話だが、それまでにいろんな仕事を経験した。
私は鹿児島の高校を卒業して、約2年間地元で働いた。
昼は喫茶店のウェイター、夜はサウナ店のホール係。いわゆるバイトのダブルワークだ。
若い時は、多少寝なくても働けた。とにかく元気だった。
仕事は楽しくて、毎日があっという間に過ぎて行った。
私は、高校卒業前から、ずっと東京に行きたいと思っていた。鹿児島という街は好きだったが、一度は生まれ育った場所を離れて都会で生活してみたかったのだ。
勉強嫌いで、大学への進学は考えていなかった。大学に行かなくても、人生何とかなると思っていた。
私には6歳離れた姉がいるのだが、両親は私と姉に対して驚くほど放任主義で、悪い事をしなければ何をしてもいいという家庭だった。
東京へ行くために、昼夜働いて金を貯めるつもりだっが、なかなか貯まらなかった。
服。飲食、遊興費。映画。ステレオセット。レコード。ラジカセ。本、雑誌。
せっかく稼いでも、入れば入るだけ使ってしまうのだ。
それは今も変わらない。悪い癖だ。どうしようもない。
2年経っても全然貯まらないので、これではいつまでたっても上京出来ないと思い、10万円だけ持って飛行機に乗って、出て来てしまった。
20歳の時だった。
最初は交通警備の仕事から始めた。すぐに働けて寮もあったからだ。寮と言っても、築30年の木造長屋アパートだった。広さは、三畳一間。トイレ共同で風呂無し。
いくら荷物がないとは言え、さすがに狭かったが、それでもそこを拠点に東京での生活をスタート出来た。
会社は三鷹にあり、寮もすぐ近くにあった。
暑い中寒い中、多数の車が行き交う路上での交通誘導は、楽ではなかった。
この時は自動車免許を持っていなかったので、交通ルールも全然知らない。
慣れない仕事で、先輩警備員や工事関係の人間から怒鳴られることもあったが、じっと耐えた。
アパートを借りる費用を貯めて、三畳一間のボロアパートから抜け出したい。その一心だった。
半年後、私は新宿区の西落合に六畳一間のアパートを借りた。木造2階建ての2階の角部屋。トイレ共同。風呂無し。家賃2万円。住環境は少しだけアップした。
新しい部屋を借りると、警備の仕事をやめて、新宿の名画座でバイトを始めた。もぎりの仕事だ。時給800円。
昔から映画が大好きだったので願ったり叶ったりの仕事だった。
当時、その名画座でやっていたのは、洋画のアクション映画ばかりで、週替わりで1本立て上映をしていた。
記憶に残っている映画としては「燃えよドラゴン」「ランボー」「戦争の犬たち」「ワイルド・ギース」「ブレードランナー」 「ハンター」「カサンドラクロス」「ナイト・ホークス」「勝利への脱出」「ニューヨーク1997」などなど、数え上げたらキリがない。
何しろ映画は見放題。前職に比べると仕事は楽だし、危険もない。バイト料も月に18万円ぐらいになる。
生活も少しずつ安定して来て、何の不満もなかったが、2年もやっているうちに、だんだん楽な生活を持て余すようになって来た。
そして、こう思うようになった。
せっかく東京まで来て、このままでいいのか?
楽をし過ぎじゃないのか?
もっとやりたい事があったんじゃないのか?
私は、さらに他の世界を見たくなった。
私はお客さんとしてよく来ている映画好きのYさんと仲良くなっていた。Yさんとは毎週のように飲みに行って、その友達とも知り合いになり、次第に映画仲間が増えていった。
毎週、週末には新宿の居酒屋で飲み会が開かれた。
映画の話でワイワイガヤガヤ。
それは東京に出てきて初めて経験する何とも楽しい時間だった。
Yさんは、私より少し年上で、映画の専門学校を卒業していた。
私は、Yさんの友達の助監督Aさんに制作現場に入りたいとお願いした。
実を言うと、私は、一度でいいから映画の仕事に携わってみたいと思っていたのだ。
私はダメもとでお願いしたのだが、Aさんは面倒見のいい人で、映画学校の同級生だった制作進行のNさんに、居酒屋の公衆電話から連絡してくれた。
「悪いけど、現場やりたいっていうのがいるのよ。全くの未経験なんだけど、何処か入れないかな?」
すると、Nさんは次の日に時間を作って会ってくれた。
新宿の喫茶店だった。
私はNさんに挨拶し、全くの未経験だが、やる気だけはあると言った。
「じゃあ俺の下で、助手やってみる?」
「え? いいんですか?」
「いいけど。給料安いよ」
「はい。お願いします!」
私は、嬉しすぎて大きな声で返事をした。
そこから話は、するすると進展し、私はしばらくして、2時間ドラマの制作進行助手として、現場に入ることになったのである。
(上京の頃 終わり)