半・乗り逃げ 深夜の大追跡!!【後編】
私の中には半年前の記憶が蘇っていた。あの忌々しい高額の乗り逃げ。
その乗り逃げのせいで、私は小遣いがなくなり、3ヶ月ほどカツカツの生活を送る羽目になったのだ。
私は2度と逃すものかと思った。この乗り逃げ男を絶対に逃がしたくない。
私は男との間隔を10m ほどにして追いかけた。
私は、この男は気付いていると思った。私が追いかけていることに。分かっていて逃げているのだ。
おそらく年齢は私と同じ40過ぎぐらいだろう。
サラリーマン風で、ちゃんとした服装。通勤の鞄も持っている。
その年齢なら、勤めている会社の主任とか課長とか、それなりの地位にあるのではないか。
なのに、料金を半分しか払わずに逃げ出し、タクシー運転手に追いかけられるというのは、社会人としてあまりにも情けないではないか。
恥を知れ。
私は心の中でそう思った。
最初に警察に電話した時から10分は経っていると感じた。
しかし、警察はなかなか来てくれなかった。
私はもどかしかった。早く来てくれと願った。
その間にも、男はどんどん歩いて行く。
辺りは、一戸建てやマンション、 アパートなどのきれいな建物が続いている。いわゆる 都会の高級住宅街だ。
男の家はこの近くにあるのか? それとも 全く関係ない場所をひたすら逃げ回っているのか?
すでに1キロ以上は追いかけたと思われた。
さすがに私は息が切れてきた。体中汗びっしょりだった。
このまま逃げられるんじゃないかと思った。
私の心臓の高鳴りは最高潮に達していた。
その時、背後でバイクの音がした。振り返ると警察官だった。2台一緒だった。
「あの男です。乗り逃げです!! 捕まえてください」
私は警察官に向かって叫んだ。
警察官はバイクのスピードを上げ、男の近くまで走って行って、立ち止まるように言った。
男は、さらに行こうとしたが、警察官はさらにバイクで追いかけた。
数十メートル逃げたところで男はついに観念し、立ち止まった。
男も、私と同様に相当息切れしている様子だった。
その後、すぐに応援のパトカーが2台来て、男の近くに停まった。
パトカーから、4人の警察官が降りて来て、男を取り囲んだ。
大捕物になってしまった。
男は、酔った大声で文句を言っていた。そして、懸命に何かを説明をしているようだった。
警察官の一人が私の近くに来た。
私は、その男を磯子駅から西馬込駅まで乗せ、その後、男が料金を半分だけ払って逃げた話をした。
「とにかく署の方に来てもらって、詳しく話を聞きましょうか」
と、警察官は言った。
私は、男とは別のパトカーに乗せてもらい、タクシーを止めた場所まで送ってもらった。そして、自分のタクシーで近くの警察署まで行った。
それから、1時間後、私は警察署の一室にいた。
ドアは開いてはいるものの、そこは取り調べ室だった。
私は何だか落ち着かなかった。
奥の部屋では、男に対する事情聴取が続いているようだった。
しばらくして、警察官の一人が私の近くに来て言った。
「まあ、相当酒を飲んでいるみたいですけどね。乗客が言うには、川崎の駅から乗ったということです。料金は 1万円じゃなくて5千円が妥当だと思って支払ったと言ってます」
「え?」
私は驚いた。そして言葉を失った。
本当にそんなことを言っているのか。ふざけるな。そんな嘘が通用すると思っているのか。
私は心底腹が立った。
当時、車内カメラはついていなかったが、運行管理用のタコグラフはついていたので、男が磯子駅から乗って実車になったことは証明できると思った。
「どうしますか? 訴えたいのであれば、この後、被害届を出してもらいますが」
と、警察官は言った。
私は、どうしようかと思った。
警察官に捕まえてもらったのはよかったが、相手がそんなことを言っているのであれば、話はややこしくなりそうだった。
私は、携帯で時間を確認した。午前3時を過ぎていた。
まずい。あまり時間がかかると、相手番が出社する時間になってしまう。
私は迷った。被害届を出すとすれば、さらに時間がかかるだろう。朝になってしまうかもしれない。
しかし、私は、男を許したいとは思わなかった。
その時、別の若い警察官が入って来た。そして、目の前の警察官に耳打ちした。
何やら聞かされた警察官は、私に向き直って言った。
「今ね、乗客の奥さんという人が来ています。その人が、料金を支払いたいと言ってますが」
「え?」
「どうしますか? 会いますか?」
と、警察官は聞いて来た。
私は、しばらく考えて返事した。
「会います・・・」
しばらくして、男の奥さんという女性が入って来た。
寝ていたところを電話で起こされ、慌てて来たような雰囲気だった。
女性は、私を見るなり頭が膝に付くくらいに謝って来た。
「本当にすみませんでした。主人が、ご迷惑をおかけしました」
いきなり謝られて、私は何も言えなかった。
女性は頭を下げたまま、決して上げようとしなかった。
そして、裸の1万円札を私に差し出して来た。
「これで許してください」
「・・・」
「いつもは真面目な人です 。普段はそんなことするような人じゃないです。お酒が入ると変わってしまうんです。すみません。すみません・・・」
女性は、泣きながら何度も詫びて来た。
私は、その勢いにすっかり押されてしまった。
女性は、私の妻と同じぐらいの年齢だった。
私はその時なぜか、妻と女性の姿が、重なってしまった。
私は、タクシーの乗り逃げこそしたことはなかったが、前にサラ金から多額の借金をして妻に大きな迷惑をかけたことがあった。
借金のことがバレて、夜中に泣かれたこともある。
あの時、私は自分の過ちを妻に謝るしかなかった。
妻に迷惑をかけたという点では私も同じだ。
「わかりました。もういいです。料金を払ってもらえればそれでいいですから」
私は、その1万円を受け取った。
「あの、お釣り・・・」
私は、持っていた釣銭箱から、釣りを出して渡そうとした。
しかし、女性は、頑なに受け取ろうとしなかった。
「いえ、もうこのままで。受け取ってください・・・ご迷惑かけたんで・・・」
女性は、お釣りを受け取らず、下げた頭を上げることはなかった。
私が会社に帰ったのは、朝5時前だった。空は、すっかり明るくなっていた。
私は、洗車して納金を済ませた。そして、休憩室でコーヒーを飲んだ。
私は警察署での出来事を思い出していた。
私は、女性が差し出してきた1万円を受け取ってしまった。
警察官2人も目の前でそれを見ていた。
私は、何とも居心地の悪い思いがした。
警察官の一人が聞いてきた。「被害届は出しますか?」
私は答えた。
「いえ。もう大丈夫です。出しません。どうもご迷惑をおかけしました」
私は警察官に謝った。
私は苦いコーヒーを一口飲んだ。
男に対する怒りの気持ちは変わらなかった。
しかし。
私はそれよりも、女性に対してすまないという気持ちがした。
私が深夜の住宅街で男を追いかけ、警察に捕まえてもらった頃、女性はぐっすり眠っていたんだろう。それを電話で叩き起こしてしまった。
もとはといえば、長距離の客を狙って、磯子駅に着けた私が悪かったのだ。そんな思いさえした。
ばつの悪い話になってしまった。
これが2回目の「乗り逃げ」の一部始終だ。
何だか思いもよらない結末になった。
私の中で、あの女性に対して申し訳ないという気持ちは、いつまでも消えることがなかった。
(後編 終わり)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?