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ぶっちぎりVII〜あの時オレは復活を喜べなかった

横浜銀蝿40thでの期限付きの活動に燃えているオレがいる。そもそもこのコラムも横浜銀蝿40thでの復活が嬉しくてたまらなくてその感情を発したくて始めたのだった。今回の4人での活動は後悔のないように燃え尽きたいと思っている。なぜこんなにも燃えているかは正直自分でも分からない。Johnnyが復活して4人での活動が死ぬほど嬉しいのは間違いない。でもそれだけじゃないのも確かなのである。理屈ではなく、タイミングがドンピシャで合ったんだと思う。

しかし、今回の復活をこれほど楽しんでいるオレが、実は1998年の復活の時はまったくというほど反応していない。横浜銀蝿にはあの時のT.C.R.横浜銀蝿R.S.のまま自分の青春時代の象徴として封印しておきたかったのが一番の思いだった。そしてJohnnyが参加していない復活なら意味がないとも思っていたのもある。

反応していないと言いつつも、あの時の復活アルバム「ぶっちぎりVII」は持っている。いつどこで買ったのかまったく記憶がないが持っている。おそらく当時、復活には消極的ではあったが一応気になって購入したんだと思う。しかしほとんど聴いていなかった。アルバムの内容に不満だったというわけではなく、おそらく横浜銀蝿を聴くタイミングじゃなかったんだと思う。

先日CD棚からこのアルバムを取り出して久々に聴いてみた。買った当時ほとんど聴かずにCD棚行きだったため、初めて聴くような感覚だった。

復活した時に雑誌のインタビューなどにも数多く出ていたはずだがそこまで追っかけていなかった。だからこのアルバムについての詳細はまったく分かっていない。確か、Johnnyはアー写には参加しているがその後のツアーやTV出演は参加していない。Johnnyがこの活動に参加していないのは、おそらくレコード会社での自分の仕事を全うしたかったのが一番の理由なのだと思う。横浜銀蝿40thでのインタビューでもJohnnyは「レコード会社での仕事での目標を達成していないのに、また銀蝿をやるのはちょっと違うと思った」というようなことを言っていたから、やっぱりそうなのだろう。Johnnyとはそういう男だ。

しかし、実際Johnnyはどの程度このアルバムのレコーディングに参加したのだろうか。改めてじっくり聴いてみたが、やはりあの4人の横浜銀蝿っぽさが足りないのだ。ギターの音色やフレーズはJohnnyらしくないものが多い。このアルバムのレコーディングにJohnnyは少しだけ参加しているという記事を見たことがある気がするのだが、もしかしたら全く参加していないんじゃないか疑惑も実はオレの中にある。この辺に詳しい人がいたらぜひ教えて欲しい。アルバムクレジットを見るとSpecial Thanksに上村功の名前が。これってアキ&イサオのイサオさんだと思う。おそらくイサオさんがギターを手伝っていたと予想する。まぁそれはそれで嬉しいことではあるのだけれど。

さらにクレジットを見てみると全曲TAKUが編曲していることに驚く。これはT.C.R.横浜銀蝿R.S.の時代にはなかったことだ。作詞作曲はほとんど翔くんで編曲がTAKU。プロデュースは横浜銀蝿になっているがおそらくTAKUが中心になって作られたアルバムだと思われる。「ALWAYS」「HIGHWAY STAR」「WOLF」あたりはこちらが戸惑うくらいにシンセサイザーが大胆に使われていてこの辺はTAKUっぽいセンスだ。T.C.R.横浜銀蝿R.S.解散後に様々なアーティストと仕事をしてきたTAKUの経験が生かされたレコーディングだったことは想像できる。

そして翔くんの声は相変わらずハスキーでやはり横浜銀蝿にこの声は欠かせないことを痛感するし、翔くんが歌えば横浜銀蝿になることを証明している。T.C.R.横浜銀蝿R.S.の頃よりも声の線は細くなっているいう印象。横浜銀蝿40thでの翔くんの声に近いだろう。

ひどい話だが、横浜銀蝿40thのベスト盤に入っていた「アイ・メイク・ユー」のイントロのアレンジがオレの知っていた「ぶっちぎりR」でのバージョンと違っていてなんだこれは⁇と思っていたが、このアルバムにこの別バージョンが入っていたことを今更知る。ちょっと昭和ムード歌謡っぽいイントロでこれはこれで好きではあります。この曲ほど翔くんの渋い声がハマる曲はないんじゃないかと思うほど、翔くんのボーカルは当時から神かがっている。高音部分のしゃくりあげるようでざらついている翔くんの声は一級品だ。

そしてこのアルバムで一番の驚きだったことが「だからいつものRock'n Roll」が再録されているじゃないか!しかもライブでのバージョンに限りなく近いアレンジ。これが一番このアルバムを聴いていて唸った部分だった。ライブバージョンのようにいきなり間奏のギターフレーズから始まるイントロ、そしてカモン!ヘイ!ヘイ!ヘイ!の掛け声も入っている。これはもう最高。アレンジだけでなく音の質感も素晴らしい。カバーも含めいくつかある「だからいつものRock'n Roll」史上最高の出来。前に「だからいつものRock'n Roll」についてコラムを書いたが、この時はまだこのバージョンを知らずに書いたので少し心残り。


このアルバムで一番好きなのは「RUNNIG DOG」。間奏はギターソロが入るが曲中特にBメロなんかはクリーントーンのギターがうっすら入るだけで少し寂しい。こういったところがJohnnyの不在を感じる。その分TAKUが導入したであろうシンセサイザーは大胆に鳴っている。ギターの存在感が薄い分横浜銀蝿感も薄れているが、やはりここは翔くんの歌とTAKUのコーラスでしっかり横浜銀蝿感は出せているし、単純にこの曲はいい。メロディーが頭にしっかりと残る。そしてグルーヴが気持ちいい。

最後のYOKOHAMA RAIN は翔くんの切ない男の世界がうまく表現されている。翔くんの歌にはやはり説得力がある。男が惚れる男という感じ。そしてこの曲は全体の音の質感も素晴らしい。聴いていてじんとくる。

ここまで軽くアルバムのレビューをしてみたが、やはりなんといってもJohnnyがガッツリ参加していないのが残念すぎる。Johnnyのあのキレキレのギターが鳴っていれば、このアルバムのイメージも随分と変わって聴こえただろう。そこは残念だが、これは当時のメンバーが精一杯出来ることだったのかもしれない。

100点満点には遠い内容のこのアルバムだが、これもあっての横浜銀蝿40th。これがあったからこその横浜銀蝿40th。もしこの98年の復活がなかったら、横浜銀蝿40thの活動もなかったかもしれない。そう考えと十分すぎる繋ぎにはなったのかなと思う。横浜銀蝿40thの「ぶっちぎりアゲイン」の名盤感は、やっぱりJohnnyが復帰してキレキレのギターを弾いて、それに呼応するかのように他のメンバーに当時のような勢いが戻るという、ある種の化学反応が起こっているからこその横浜銀蝿40thなんだと思う。なので、どうしても40thと比べると物足りなさは感じるが、あの時の3人が「絶対に銀蝿を止まらせない」という気概があったからこそ今の40thがいるのは間違いない。

これだけ銀蝿一家のことを語っておきながら、アルバム「ぶっちぎりVII」を今更ちゃんと聴くというなんともにわか感の満載加減が恥ずかしいけれど、まぁ聴いてなかったものは仕方ない。これからどんどん聴いていこうと思う。

アルバムに入っている曲はあっさりしているものが多いが、アルバムジャケットのデザインも随分あっさりしていてちょっと萎える。どさくさにまみれてサラッと復活したように感じてしまう98年の銀蝿。もしかしたら彼らの中にも復活にあたって吹っ切れていない部分もあったような気もする。だからこその「ぶっちぎりアゲイン」での振り切れ具合が最高なわけだが。

T.C.R.横浜銀蝿R.S.が解散したのが1983年12月31日だ。翌年の84年がオレにとっては銀蝿一家に夢中だった最後の年となる。銀蝿が解散してポッカリと穴が開いてしまったような84年は、それでも紅麗威甦の最後のアルバム、BLACK SATANの始動、あとは矢吹薫や岩井小百合のシングルを買って聴いてはいた。しかしこの年の春、高校に入学すると同時に念願のギターを購入してバンドを組み出した。たまたま高校のバンド仲間の中でハードロックが流行っていたのもあって、聴く音楽は今までの銀蝿一家とはまったく違う方向性へと傾いていった。数ヶ月前までは死ぬほど憧れていたJohnnyがソロで使っていた白いストラトキャスター。そのストラトキャスターを買うつもりで貯めたバイト代は結局フライングVとなり、いかに速くフレーズを弾けるのかを追求する毎日を過ごすようになっていった。

そう、あの84年以降オレの音楽の好みは大きく変わってしまい銀蝿一家から離れてしまった。翔くんのソロもほとんど聴いてない。もちろん中学であれだけ燃えた銀蝿一家を否定することは一度もなかったし、まったく銀蝿一家の音楽を聴かなくなっていたわけではない。銀蝿の存在は大きく、社会で生きていくために必要な銀蝿の生き方や男らしさは常に意識させてもらってきた。ただ夢中になる音楽がまったく違うものへと変わってしまったのだった。

この「ぶっちぎりVII」がリリースされた98年、いったいオレはどんな音楽を聴いていたのだろう?と振り返ってみるとなんとこの頃はテクノなどのダンスミュージックにハマっていて、わざわざお金を貯めてテクノの本場ドイツまで音楽を聴きに行っていた頃だった。横浜銀蝿の復活に夢中になるのは到底無理があるほど音楽の好みが変わってしまっていたのだった。要するにタイミングではなかったということだ。

そういったわけで、この「ぶっちぎりVII」を今更じっくり聴き直したばかりで結局中途半端な感想しか書けなかった今日のコラム。この時の復活をもっと楽しんでみたかったが、終わってしまったことは仕方ない。とにかく今は40thの今年いっぱいの活動を全開バリバリで応援するしかないのだ。

横浜銀蝿40thが始動して、ついに84年以来35年ぶりに銀蝿一家熱が高まっているのがオレの現在地点である。あの時の復活を喜べなかったオレが今回の復活にはここまで夢中になれている。今回は横浜銀蝿とオレのタイミングがばっちり合ったということだろう。もしかしたらそういう人は多いのかもしれない。SNSでの書き込みや、配信などでのコメントを見ていると、横浜銀蝿40thに夢中になっている人たちの想いにじんとくることが多くある。4人での復活を嬉しく思っている人たちの想いは皆同じで共感できるものなのだ。今回、横浜銀蝿40thがアンテナに引っかかるタイミングが合った人たちがたくさんいる。この広がりを今年いっぱいどんどん広げていきたいものだ。

このコラムの冒頭で横浜銀蝿40thでの期限付きの活動に燃えているオレがいると書いた。その気持ちは確かなものではあるが、ここまで書いて悲しいニュースが飛び込んできた。3月発売予定だったニューミニアルバム「ぶっちぎり249」の発売が9月に延期された。

悲しい。この一年、いろいろなことを我慢してきた。それは誰もがそうだろう。個人的には、何があってもいつか笑って過ごせる時が来ると前向きに我慢してきたわけだが、さすがに今回のリリース延期は心が折れた。ライブの延期や中止は覚悟していたが、まさかレコーディングまでが難航する事態になるとは考えていなかったのだ。SNSの書き込みを見ていると「ずっと待ってます!」という前向きなコメントが多かった。皆さん心が強いなと自分の弱さにも悲しくなった。

待つ。待つしかないのだから。けれどもこのやり場のない気持ちをどこに吐き出したらいいのかが分からない。なぜこんなにもオレは悲しくなるのだろう… それはおそらく横浜銀蝿40thの活動期間が今年いっぱいという期限が迫っているから焦っているのだ。

もちろん誰が悪いわけではないことは承知だ。銀蝿40thのメンバーやスタッフを責めるつもりは毛頭ない。この一年我慢しかしていない気がするが、この先さらに我慢しなくてはいけないことが続くのかと思うと心が折れる。しかし、この状況は銀蝿40thのメンバーが一番辛いだろう。だから、心折らずにこの先いつか横浜銀蝿40thを心の底から楽しめる日をひたすら待つしかない。

そもそもライブやCDが延期になるくらいのオレの我慢よりももっと大変な人が大勢いるのだ。医療の現場で奮闘する方、生活すらままならない状況の方など。自分の我慢のレベルなんて大したことじゃない。折れた心をなんとかして立て直そうと無理矢理ポジティブに考えようとしていた帰宅時、イヤホンから「銀のロックン・ローラー 」が流れてきて、思わず電車の中で泣きそうになった。いろんな感情が交差してしまったのだ。

  OH BABY ひとりきりじゃ できないことも
  OH BABY タフな仲間と 乗り越えろ

  過ぎ去った日々だけを
  悔やむより未来(あす)に 
  突き進めいつも攻めていけ

「ぶっちぎりVII」の話から大きく逸れてしまったが、この先どんなことが起きたとしても、横浜銀蝿40thが存在している今このタイミングにドンピシャでハマっている。人生とは何が起きるか分からない。その人生でタイミングが合うか合わないの違いは大きすぎる。あの時の復活ではタイミングが合わなかったけれど、今回横浜銀蝿40thとぴったりと合ったこのタイミングを大切に、そして大晦日を笑って過ごせるように後悔のないよう楽しむっきゃないのだ。


it's only Rock'n Roll

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