平成最後の冬 ハマの湾岸探訪① "子安浜哀歌"篇
<追記>
6月16日放送のNHK「小さな旅」でも子安浜を紹介するそうです。
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SUPで昭和が色濃く残る「子安浜漁港」へ。神奈川新町のあたりまでは、知人に船で連れて行ってもらったことがあるけれど、水路経由で(中心部から見て)奥に行くのは初めて。
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■大岡川からコットンハーバーへ
いつもの大岡川の桜桟橋からスタート。
低い雲の下、みなとみらいを通過し慣れたコースをたどった後、臨港パーク沖から帷子川の河口を通り、横浜中央卸売市場の脇を抜けコットンハーバーへ。
*コットンハーバー
1995年までは「浅野ドッグ」だった場所で、1970年代の航空写真を見てみると、その様子が良く分かる。ドッグ閉鎖後の再開発でこの名前がつけられた。
『横浜港から多くの綿花が輸出されていた』ことに因んでいる、と勝手に思っていたのでこのエントリのために調べてみたら『地区の名称は、自然の風合いや手触り感のある心地よさをイメージした「洗いざらしの綿」という街づくりのコンセプトと、この地区より少し内陸側にかつてあった綿花町という町名に由来する』とのこと。『棉花町』という地名があったのは初めて知った。再開発で発生したゴタゴタを見ると、とても「洗いざらしの綿」のようには思えないけれど、新しい元号となり、またここから変わっていくかもしれない。
中央卸売市場近くを流れる滝の川には、今も『棉花橋』があり、わずかながらも名を残している。
コットンハーバーの向かいは、 在日アメリカ陸軍及び在日アメリカ海軍の港湾施設である横浜ノース・ドック(瑞穂埠頭)。
■入江川小派台川へ
瑞穂埠頭を右手に見ながら、入江川の支流である「入江川小派台川」へ。
*三井倉庫
千若町にある「三井倉庫横浜支店千若事務所」は昭和28年に建てられたココアとコーヒー豆専用の倉庫。
『たばこのむな』の看板が良い味だしている。失火したら、出荷前にコーヒー豆がローストされてしまうしね。
*会社道踏切
ファミリーマート横浜コットンハーバー店の横にある「会社道踏切」。とても気になる名前だが、どのような経緯でこの名前になったかは分からないとのこと。こういう新しい土地の「やっつけ」の命名の仕方は結構好きだ。
*廃線の鉄橋
ゴルフ練習場の横には、1959(昭和34)年まで、東神奈川駅へ向かう貨物支線として稼働していた貨物線の橋梁が残っている。
半世紀以上経っても撤去されず残っており廃墟・廃線ファンの間では有名な場所。
*東高島駅前の輸送船溜まり
東高島駅横の船溜まり。
かつては水路を経由してここまで荷物を運び、ここで貨物列車に移し替えた場所の名残りの場所。今はカオスな舟置き場になっているが、JR貨物と三井不動産レジデンシャルがタワーマンション3棟を建設する予定なので、近々埋め立てられそう。多少不便な場所ではあるけれど、みなとみらい地区にはもう新築のマンションは建てられないことから人気を博すのかもしれない。写真左奥にはランドマークタワーが見える。
*龍宮伝説の残るヨコハマ
船溜まりに入る場所には「龍宮橋」がある。国内に多くある浦島太郎伝承地、その中の一つがこのあたり。
ヨコハマの浦島物語はこちらの記事に詳しい。一部を引用。
『父母恋しさに暇を告げたところ、乙姫様は別れを惜しんで、玉手箱と聖観世音菩薩を太郎に与えました。故郷の土を踏んだ太郎には、見るもの聞くものすべて見知らぬものばかりでした。ついにこの玉手箱を開きますと、中から白い煙が出てきて白髪の老人になりました。3年と思ったのが実は300年、すでに父母はこの世の人ではなく、武蔵の国白幡の峰に葬られてあると聞いて尋ねてみると、二つの墓石が淋しそうに並んでおりました。
太郎は墓の傍らに庵を結んで菩薩像を安置し、父母の菩提を弔いましたが、この庵がのちの観福寿寺で、通称「うらしま寺」と呼ばれました。 』
この竜宮橋は関東大震災にも耐え、現在も使われている(後述)。
■入江川第二派川へ
国道15線(第一京浜)にぶつかると『入江川第二派川』に入る。
*村雨橋
スシロー東神奈川店の脇、瑞穂埠頭入口にある「村雨橋」は反ベトナム戦争の『村雨橋事件』の舞台。事件のことはなんとなくは知っていたが、ここだったか。こうやってのんびりと水上を楽しむことが出来ていることは有り難いこと。
*横羽線の下を進む
ここからは、首都高神奈川一号線横羽線の下を進んで行く。マリーナもあり、陸と水との接点を感じられるエリア。
ボートサイドスタジオの犬も、見慣れない乗り物を見てふしぎそうな顔をしている。
運河沿いには建物がぎっしりと並んでいる。多くの建物では、陸側が「玄関」で運河側が「ベランダ」になっているが、新しく出来たマンションだけこの構図が逆だったのが興味深い。水辺の価値観が変わってきているのかもしれない。
新浦島橋を超えると、一気に景色が変わる。
右手には18階建ての大きなオフィスビル『テクノウェイブ100』がそびえるが、その麓には屋形船をはじめ、大小の船がぎっしりと係留されていて、いよいよ『子安浜漁港』エリアに入る。
*子安浜漁港
水面から見る水上集落はまるでアジアのよう。放置されている船や、崩れかけた家屋など、このまま朽ちていくのか、自治により再開発がされるのか。行政の手が入りにくい場所だから、このあとはどうなるのだろう?
アナゴ漁が盛んな土地柄。近くには「横浜東漁業組合」がある。
漁船の上には、アナゴ漁用のパイプがたくさん積まれている。
常盤橋を挟み、コンクリート製の建物と、ゲリラ的に作られたと思しき建物とに別れている。一説によると別の漁協が管理していたからというが、資料が見つからなかったので、定かではない。
何か所でレース鳩を飼っているのが水上から見えた。どういう経緯でここで飼われているのは分からないが、都市部だと近所迷惑になるからだろうか?レース鳩はお金がかかるらしいから、補償金で始めたのか?ナゾは残る。
■子安ヒストリー
第一京浜、JR・京急で頻繁に通過するけれど、実際にこのあたりのことはあまり知らない。折角の機会なのでちょっと調べてみた。二つの資料を引用して歴史を振り返る。
①写真が語る沿線
『明治以降の国の工業化推進施策により昭和2年には浅野セメント工業の450ヘクタールに及ぶ埋め立て造成の完成など京浜工業地帯の臨海部への大企業進出が加速します。子安浜の漁場は縮小され、加えて昭和30年代の海水汚染の公害から魚類が減少し極度の不漁に陥ります。 さらに大型コンテナ船入港に対応する港湾施設建設のため大規模埋め立て計画が持ち上がったのです。
弘安6年(1284)には日釣り・夜釣りの漁業が沿岸で行なわれたとされる子安浜。その後徳川幕府お抱え漁場として「御菜7カ浦」の一つと呼ばれた伝統ある子安浜が、ここでついに,687年続いた漁業を継続か終止符か、二者択一を迫られることになったのです。
歴代組合長が額の中から見守るなか、死んだ海での漁業存続か、完全転業の全面補償か、二者択一の苦渋の選択を迫られました。
悩みに悩んだ末、全員で決議したのは全面補償、完全転職の道でした。687年続いた子安浜漁業の灯を消す心の痛みと将来への不安、漁民の足取りも心なしか重く感じられます。』
この「写真が語る沿線」はよくまとめられてい、コチラのページには戦後すぐの子安の様子が分かる写真がある。
②子安 わが心の故郷(ふるさと)
おじいさまが子安で商売をされていた方のエッセイ。
『浜の歴史は古く、江戸前から続く広大な漁場に、ハマを挟んで北側には生麦・子安、南側には本牧から金沢八景へと続く漁港が豊かな海の恵みを享受していた。特に子安は遠浅の砂浜に貝類やシャコが豊富で、江戸幕府から“御菜浦”の指定を受けていた。祖父はここで貝類の佃煮を扱う問屋として手広く商売を営んでいたとのこと。
そんな豊饒の海も大正末期から昭和にかけ本格的な京浜工業地帯の埋め立て工事により、かつての輝きを失う。祖父はこの時点で商売をたたんだらしい。あとは戦後亡くなるまで楽隠居を決め込んでいたというので、相応の余裕があったものと思われる。漁港は戦後の高度経済成長期に漁業権も手放し、名実ともに子安浜の歴史に幕を閉じた。』
調べてみると、漁業権を放棄したのは1971年(昭和46年)のこと。現在ではアナゴを中心とした漁が続けられている。
■本来の「入江川」を少しだけ
今まで通ってきた派川が以前の「海岸線」だった場所。ここから本流の入江川をほんの少しだけ上ってみる。
本来の入江川は「鶴見区東寺尾付近を源として西に流れ、神奈川区西寺尾付近でJR横浜線と平行して南に流れを変え、大口商店街横を通って神奈川区子安通りで6派川の運河に分かれ、横浜港に注いで」いる。
入江川の河口には、今は使われていなさそうな漁船向けの「ドッグ」がある。このあたりもなかなかカオスな感じが漂っている。後ろには京急とJRが。
※別件で用事があって、後日この場所を訪れた。後述。
*2つの震災復興橋
第一京浜に架かっている「入江橋」。震災復興橋の特徴とも言える意匠に「昭和二年五月 復興局建造の文字」がある。
少し上流にあるのが震災復興橋の特徴で有る親柱を持つ「宮前橋(みやさきはし)」。
橋の名前は、近くにある横浜一之宮神社に因む。神社の鳥居は子安浜漁業組合の奉納によるものらしい。
こちらの資料によると、前述の「綿花橋」も震災復興橋。東高島駅の船溜まりにかかる「竜宮橋」は、関東大震災による災害を乗り越えた橋のようだ。
年末の東京の水路SUP巡りでも震災復興橋が多く出てきたけれど、関東大震災での復興事業が平成が終わる現在まで残っているのがとても興味深い。
宮前橋の下には無許可の係留船。丁度よい隠し場所になっているのだろう。
■後日談と更なる後日談
すぐ後に、別件で新子安近くに行く機会があったので、時間を作り陸上から震災復興橋と朽ち果てるドッグを眺めてみる。SUPで訪問した日は冷たい雨がパラつく低い雲だったが、再訪の日はうってかわって突き抜けるような冬空だったので大分雰囲気は違う。
歩いている中で何匹かのネコとすれ違う。やはり魚の匂いがする漁港街なのだろう。
運河沿いの「浜通り」を歩いてみる。漁協先導で作られたと聞いているコンクリート製の作業場には、周囲の住居とは不似合いの高級車の駐車場となっていた。このあたりはあまり触れない方が良いのかもしれない(笑)。
そして更なる後日談はコチラ。
■今日のコース
片道7km、全行程約14km。京急で言うと「黄金町と日ノ出町の間」から「子安と京急新子安」の間まで行ったことになるので、なかなかタフではあったけれど、大正・昭和・平成と3つの時代を感じることができた。この日の灰色の空が哀しげな感じを醸し出していて、これがこの時代感をより深くしていた気がする。
色々調べていたら、訪問してから大分時間が経ってしまったけれど、季節が変わる前に公開出来てホッとしているのは、ココだけの話。