#【レッサーパンダの涙】

「師走かぁ」

山口 美希はカレンダーを11月から12月に変えた。

あと1ヶ月で令和元年も過去になる。


美希には付き合って4年になる恋人がいる。

お互い社会人として働いている。

一緒に暮らしてはいないが、週末はどちらかの住まいに泊まる事が多い。

たまに彼はベロンベロンに酔っ払って、真夜中に美希のワンルームに来る事もある。

昨夜がそうだった。

高橋 悠太。

彼の名前だ。

「そんなに飲むと体を壊すよ」

美希はそう云いながら、水の入ったコップを悠太に渡す。

悠太は無言でコップを受け取ると、一気に水を流し込んでいる。

そんな時、美希は悠太の喉仏が脈打つのを、ジッと見つめる。

美希は、男達の喉仏が好きだ。

神様が不思議な物を男の喉に付けたのは何故だろうと思う。

「私も欲しかったなぁ」

見る度に羨ましく感じる。

悠太は水を飲み終え、美希にコップを渡し、

「営業マンは、接待が命なんだよ。特にこの時期は目白押しだ。しっかし今夜の取引先のヤツは酒豪だったな。参ったよ」

そう云って、ゴロンとベッドに大の字になった。

「泊まる?」そう聞くと、悠太は勢いよく起き上がり、

「明日は朝から大事な会議があるんだ。

資料を持っていかなきゃいけないから

帰るわ。今なら終電に間に合う」

そう聞くと美希は、タクシー会社に電話をかけた。

悠太は、乱れたスーツを整えている。

「すぐ来るって」

「何がよ」

「タクシーよ」

「なに勝手なことしてるんだよ。電車で帰るって云ったのに」

「だって、足元がフラフラだよ? 深夜料金でも1000円ちょっとだし、タクシー使った方がいいよ。明日は朝、早いんでしょう?」

「もったいないだろう? 電車でいいのに」

悠太は機嫌が悪くなった。

「帰るのなら最初から自分のマンションに直行すれば良かったのに」

「銀座からは美希の部屋の方が近いから、一休みしたかったんだよ」

美希は窓から下を見て、

「タクシーが来てるわ。早く早く」

「ホント、もったい」

悠太はブツブツ言いながら、おやすみも言わずに出て行った。



「4年も付き合ってるんだな、私と悠太」

昨夜のことを思い出しながら美希はそう呟いた。

同じ歳だから、もうすぐ三十路になる。

「疲れた」

自然に口から出た言葉。

1年前から悠太と居る時、必要以上に気を使うようになった。

常に悠太の機嫌を伺っている自分がいる。

そのくらい悠太は短気になった。

美希は、自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手だ。

子供の頃から、ずっとそうだ。

両親にさえ本音が言えない子だった。

「八方美人なのかもしれないな」

美希は自分のことを、そう思ったりする。

確かに嫌われることが、すごく怖くて仕方がない。

私さえ我慢すればいいんだ。

それで丸く収まるのなら、私は我慢できる。

そうやって生きて来たのだ。


そんな美希だったが、このところ、モヤモヤして仕方がない。

なんでこんなに苦しいのだろう。

理由が分からない。

今夜もモヤモヤが美希の胸いっぱいに、どんよりとした雨雲のように広がり始めた。

住み慣れた部屋が息苦しい。

たまらず美希は外に出た。

冬の夜の空気が気持ち良かった。

辺りには誰もいない。

イヤ、いた!

象が歩いている!

正確には象の被り物を付けた人が歩いてた。

象だけではない。

パンダにカンガルー、ライオンにシマウマ。

こんな夜中に動物の被り物を付けた人々が、街中を歩いている!

美希が呆然として立ち尽くしていると、肩を叩かれた。

ビクッとした美希は、ゆっくり振り向いた。

オオカミが立っていた。

「海までドライブしませんか」

喋った!

黙ったままの美希に、オオカミは、

「ステキな風景を見に行きましょう」

そう云うと、美希の返事も待たず、傍に止めてある赤い車に乗り込んだ。

オオカミは助手席側のドアを開け、

「どうぞ乗ってください」

何故だろうか。怖いという気持ちが全く湧いてこない。

美希はオオカミに言われた通り、助手席に座った。

「出発します」

「あ、でもその前に」

オオカミは後部座席から何かを取り出すと、

「どうぞこれを」 と、美希に渡した。

それはレッサーパンダの被り物だった。

「付けても、付けなくても構いません。でも付けた方が、気分が楽になると思いますよ」

美希はオオカミにそう云われ、レッサーパンダの被り物を頭からスッポリと被った。

被ったら、本当に気持ちが落ち着いたので、美希は驚いた。

すごく安心する……。

「では、今度こそ出発します」

オオカミは、アクセルを踏むと、車は夜の街から海の方角へと走り出した。

少しだけ開けた窓からの風が心地いい。

被り物をしているためか、寒さはあまり感じなかった。



明かりの点いたビルがたくさんあるので夜景が綺麗だ。

たくさんの人が残業している証しだ。

それを思うと、美希は複雑な気持ちになる。

日本人は働き過ぎだよ……。

死んだら、元も子もないのに。



オオカミは安全運転だった。

街の夜景が少しずつ遠ざかっていく。

その代わりに巨大な工場群が迫ってきた。

要塞のような夜の工場は、不思議に魅力的だ。

堂々たる佇まい、数え切れない灯り、もくもくと煙を吐き続ける煙突たち。

何機ものキリンを美希は見上げた。

「本当に生き物みたいだ」

そう思った。

しばらく工場夜景が続いたが、それも後方に流れて行った。

徐々に光が少なくなり、車が海に近づいているのを感じさせる。



その時、美希の目に、ある物が飛び込んできた。

それは、ここにあるはずのない物。

「嘘でしょう? 」

そして車は停車した。

「さあ、海に着きましたよ」

オオカミがそう教えてくれても、美希は座席から立ち上がる事が出来ないでいる。

オオカミは、車から降りると助手席側に周り、ドアを開けた。

「海ですよ、レッサーパンダさん」

美希はふらふらと立ち上がり、半ば無意識のうちに車から降りた。

砂浜にあるはずのない物、それは観覧車だ。


どうして観覧車があるんだろうか。

第一、どうやって砂浜に創れたんだろう。

「行きましょう」

そう云うとオオカミは砂浜へと歩き出した。

美希も後ろから着いていった。

波の音が聞こえてくる。

砂浜に近づいていくと、そこには結構な数の動物達がいた。

手に飲み物を持ち、会話をするカバとオラウータン。

フラミンゴと話しているのはチーターのようだ。

笑い声が聞こえ、女性であるのが分かる。

「なにか飲みますか? お酒もあるし、ノンアルコールの飲み物もありますよ」

オオカミが美希に教えてくれる。

「それとも……乗ってみます?」

そう云って、観覧車を見た。

こじんまりとした観覧車だが、ライトの光で照らされて、美しい。

グループで乗っている動物も、一人で座っている動物もいた。

「乗って……みたいです」

美希は、そう答えた。

オオカミは、頷くと観覧車のところまで案内してくれた。

「何回でも乗っていられます。お好きなだけどうぞ、レッサーパンダさん」

美希は乗り場に行き、ちょうど降りてきた藤色の箱に乗り込んだ。

ゆっくり、ゆっくり、観覧車は周る。

美希は夜の海を眺めた。

遠くの対岸には、小さく東京タワーが見える。

しばらく景色に集中しようと美希は思った。

そうしている内に、色々な感情が混ざり合って、美希は飲み込まれそうになった。

何周しただろう。

美希は、モヤモヤの理由に気づいた。

いや、本当は知っていたことだ。

ただ、美希は認めることが怖くて、気づかないふりをしてきた。



《私はもう、悠太のことが 好きではない》



観覧車を降りたそこには、オオカミが立っていた。

美希のアゴから、いくつも雫が滴っている。

「どうぞ、オレンジジュースです」

オオカミからコップを受け取った美希は、レッサーパンダの被り物を取った。

涙で、ぐしょぐしょの顔で、美希はジュースをゴクゴク飲んだ。

「そろそろ帰りましょうか」

オオカミに云われ、美希は「はい」とだけ返事をした。

車は、少しだけ行きよりスピードが出ている。

また、工場群が見えてきた。

美希はオオカミに尋ねた。

「これは『夢』、ですよね?」

「はい、夢です」

オオカミは、まっすぐ前を見ながら答えた。

街に帰ってきたことをビルの夜景が告げている。

車は程なくして美希のマンションに到着した。

美希は車から降りる前に、レッサーパンダの被り物をオオカミに渡した。

オオカミは、それを受け取ると、美希に

「もうこれは、貴女には必要ありませんね」

そう云った。

「まだ……自信はありませんが」

そう答える美希に、オオカミは、

「ゆっくりでいいんです。無理しなくても」

優しい声だった。

やっぱり喉仏が上下に動くのが、美希は嬉しかった。

「では、僕はこれで」

「ありがとうございました」

赤い車はビルの夜景に向かって走って行った。



「春になったら、引っ越そうかな。もっと暖かい海の近くの街に」

美希はそう思った。



翌朝、部屋の中を探してみたが、レッサーパンダはどこにもなかった。

テレビをつけても、観覧車の話題など放送していない。

「夢だものね」



美希はまだ知らない。

観覧車から撮った、小さな東京タワーがスマホに保存されてることを。


                       (完)


























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