#【レッサーパンダの涙】 7 紗希 2019年12月1日 21:33 「師走かぁ」山口 美希はカレンダーを11月から12月に変えた。あと1ヶ月で令和元年も過去になる。美希には付き合って4年になる恋人がいる。お互い社会人として働いている。一緒に暮らしてはいないが、週末はどちらかの住まいに泊まる事が多い。たまに彼はベロンベロンに酔っ払って、真夜中に美希のワンルームに来る事もある。昨夜がそうだった。高橋 悠太。彼の名前だ。「そんなに飲むと体を壊すよ」美希はそう云いながら、水の入ったコップを悠太に渡す。悠太は無言でコップを受け取ると、一気に水を流し込んでいる。そんな時、美希は悠太の喉仏が脈打つのを、ジッと見つめる。美希は、男達の喉仏が好きだ。神様が不思議な物を男の喉に付けたのは何故だろうと思う。「私も欲しかったなぁ」見る度に羨ましく感じる。悠太は水を飲み終え、美希にコップを渡し、「営業マンは、接待が命なんだよ。特にこの時期は目白押しだ。しっかし今夜の取引先のヤツは酒豪だったな。参ったよ」そう云って、ゴロンとベッドに大の字になった。「泊まる?」そう聞くと、悠太は勢いよく起き上がり、「明日は朝から大事な会議があるんだ。資料を持っていかなきゃいけないから帰るわ。今なら終電に間に合う」そう聞くと美希は、タクシー会社に電話をかけた。悠太は、乱れたスーツを整えている。「すぐ来るって」「何がよ」「タクシーよ」「なに勝手なことしてるんだよ。電車で帰るって云ったのに」「だって、足元がフラフラだよ? 深夜料金でも1000円ちょっとだし、タクシー使った方がいいよ。明日は朝、早いんでしょう?」「もったいないだろう? 電車でいいのに」悠太は機嫌が悪くなった。「帰るのなら最初から自分のマンションに直行すれば良かったのに」「銀座からは美希の部屋の方が近いから、一休みしたかったんだよ」美希は窓から下を見て、「タクシーが来てるわ。早く早く」「ホント、もったい」悠太はブツブツ言いながら、おやすみも言わずに出て行った。「4年も付き合ってるんだな、私と悠太」昨夜のことを思い出しながら美希はそう呟いた。同じ歳だから、もうすぐ三十路になる。「疲れた」自然に口から出た言葉。1年前から悠太と居る時、必要以上に気を使うようになった。常に悠太の機嫌を伺っている自分がいる。そのくらい悠太は短気になった。美希は、自分の気持ちを相手に伝えるのが苦手だ。子供の頃から、ずっとそうだ。両親にさえ本音が言えない子だった。「八方美人なのかもしれないな」美希は自分のことを、そう思ったりする。確かに嫌われることが、すごく怖くて仕方がない。私さえ我慢すればいいんだ。それで丸く収まるのなら、私は我慢できる。そうやって生きて来たのだ。そんな美希だったが、このところ、モヤモヤして仕方がない。なんでこんなに苦しいのだろう。理由が分からない。今夜もモヤモヤが美希の胸いっぱいに、どんよりとした雨雲のように広がり始めた。住み慣れた部屋が息苦しい。たまらず美希は外に出た。冬の夜の空気が気持ち良かった。辺りには誰もいない。イヤ、いた!象が歩いている!正確には象の被り物を付けた人が歩いてた。象だけではない。パンダにカンガルー、ライオンにシマウマ。こんな夜中に動物の被り物を付けた人々が、街中を歩いている!美希が呆然として立ち尽くしていると、肩を叩かれた。ビクッとした美希は、ゆっくり振り向いた。オオカミが立っていた。「海までドライブしませんか」喋った!黙ったままの美希に、オオカミは、「ステキな風景を見に行きましょう」そう云うと、美希の返事も待たず、傍に止めてある赤い車に乗り込んだ。オオカミは助手席側のドアを開け、「どうぞ乗ってください」何故だろうか。怖いという気持ちが全く湧いてこない。美希はオオカミに言われた通り、助手席に座った。「出発します」「あ、でもその前に」オオカミは後部座席から何かを取り出すと、「どうぞこれを」 と、美希に渡した。それはレッサーパンダの被り物だった。「付けても、付けなくても構いません。でも付けた方が、気分が楽になると思いますよ」美希はオオカミにそう云われ、レッサーパンダの被り物を頭からスッポリと被った。被ったら、本当に気持ちが落ち着いたので、美希は驚いた。すごく安心する……。「では、今度こそ出発します」オオカミは、アクセルを踏むと、車は夜の街から海の方角へと走り出した。少しだけ開けた窓からの風が心地いい。被り物をしているためか、寒さはあまり感じなかった。明かりの点いたビルがたくさんあるので夜景が綺麗だ。たくさんの人が残業している証しだ。それを思うと、美希は複雑な気持ちになる。日本人は働き過ぎだよ……。死んだら、元も子もないのに。オオカミは安全運転だった。街の夜景が少しずつ遠ざかっていく。その代わりに巨大な工場群が迫ってきた。要塞のような夜の工場は、不思議に魅力的だ。堂々たる佇まい、数え切れない灯り、もくもくと煙を吐き続ける煙突たち。何機ものキリンを美希は見上げた。「本当に生き物みたいだ」そう思った。しばらく工場夜景が続いたが、それも後方に流れて行った。徐々に光が少なくなり、車が海に近づいているのを感じさせる。その時、美希の目に、ある物が飛び込んできた。それは、ここにあるはずのない物。「嘘でしょう? 」そして車は停車した。「さあ、海に着きましたよ」オオカミがそう教えてくれても、美希は座席から立ち上がる事が出来ないでいる。オオカミは、車から降りると助手席側に周り、ドアを開けた。「海ですよ、レッサーパンダさん」美希はふらふらと立ち上がり、半ば無意識のうちに車から降りた。砂浜にあるはずのない物、それは観覧車だ。どうして観覧車があるんだろうか。第一、どうやって砂浜に創れたんだろう。「行きましょう」そう云うとオオカミは砂浜へと歩き出した。美希も後ろから着いていった。波の音が聞こえてくる。砂浜に近づいていくと、そこには結構な数の動物達がいた。手に飲み物を持ち、会話をするカバとオラウータン。フラミンゴと話しているのはチーターのようだ。笑い声が聞こえ、女性であるのが分かる。「なにか飲みますか? お酒もあるし、ノンアルコールの飲み物もありますよ」オオカミが美希に教えてくれる。「それとも……乗ってみます?」そう云って、観覧車を見た。こじんまりとした観覧車だが、ライトの光で照らされて、美しい。グループで乗っている動物も、一人で座っている動物もいた。「乗って……みたいです」美希は、そう答えた。オオカミは、頷くと観覧車のところまで案内してくれた。「何回でも乗っていられます。お好きなだけどうぞ、レッサーパンダさん」美希は乗り場に行き、ちょうど降りてきた藤色の箱に乗り込んだ。ゆっくり、ゆっくり、観覧車は周る。美希は夜の海を眺めた。遠くの対岸には、小さく東京タワーが見える。しばらく景色に集中しようと美希は思った。そうしている内に、色々な感情が混ざり合って、美希は飲み込まれそうになった。何周しただろう。美希は、モヤモヤの理由に気づいた。いや、本当は知っていたことだ。ただ、美希は認めることが怖くて、気づかないふりをしてきた。《私はもう、悠太のことが 好きではない》観覧車を降りたそこには、オオカミが立っていた。美希のアゴから、いくつも雫が滴っている。「どうぞ、オレンジジュースです」オオカミからコップを受け取った美希は、レッサーパンダの被り物を取った。涙で、ぐしょぐしょの顔で、美希はジュースをゴクゴク飲んだ。「そろそろ帰りましょうか」オオカミに云われ、美希は「はい」とだけ返事をした。車は、少しだけ行きよりスピードが出ている。また、工場群が見えてきた。美希はオオカミに尋ねた。「これは『夢』、ですよね?」「はい、夢です」オオカミは、まっすぐ前を見ながら答えた。街に帰ってきたことをビルの夜景が告げている。車は程なくして美希のマンションに到着した。美希は車から降りる前に、レッサーパンダの被り物をオオカミに渡した。オオカミは、それを受け取ると、美希に「もうこれは、貴女には必要ありませんね」そう云った。「まだ……自信はありませんが」そう答える美希に、オオカミは、「ゆっくりでいいんです。無理しなくても」優しい声だった。やっぱり喉仏が上下に動くのが、美希は嬉しかった。「では、僕はこれで」「ありがとうございました」赤い車はビルの夜景に向かって走って行った。「春になったら、引っ越そうかな。もっと暖かい海の近くの街に」美希はそう思った。翌朝、部屋の中を探してみたが、レッサーパンダはどこにもなかった。テレビをつけても、観覧車の話題など放送していない。「夢だものね」美希はまだ知らない。観覧車から撮った、小さな東京タワーがスマホに保存されてることを。 (完) ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #小説 #工場夜景 #動物キャラクター #恋の終わり #夜の観覧車 #本当の気持ちを大事に 7