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塞がる穴 塞がらない穴

「あんまりこっちを見てると、キスしちゃうぞ。わたし女が好きだから」


入社して間もない頃、隣りの席の先輩に、こう云われた。
それも女性の先輩から。

  えっ

心の中で私は小さく叫んだ。

先輩は私を見ずに、仕事を続けている。

  ふふ

そんな声が訊こえて来そうな笑みを浮かべて。


次の瞬間、私の口から出た言葉は

「いいですよ。キスしても」
だった。


何故なら、私はその先輩のことが好きだったから。

女の人とキスしてみたいかも。
そうも思ったから。


私は同性愛者では無い。

恋愛の対象は、男性である。
けれどこの時は何故か、嫌な気持ちにならなかった。

先に云ったように、その先輩のことが好きだから。
ただし、それは憧れであって、恋ではない。


しかし、ここは会社である。

つまり、たくさんの人が居る部屋なわけで。

結局、キスはしなかった。


先輩の名前は、「洋子」さんという。

「みんな“ようこ”だと思ってるみたい。“ひろこ”なんだけどな」

洋子さんは、そう云っていた。


彼女は40代半ばの女性だ。

しかし、どう見ても30代に見える。

肩に付くくらいの長さの髪は、ふんわりとして、彼女に似合っている。

スタイルもよかった。

スリムだし、何より脚が綺麗なのだ。

脚線美を間近で見たのは、生まれた初めてだ。

洋子さんは結婚してるし、高校生の息子さんも居る。

息子さんの写真を見せてもらったことがあるけれど、驚くほど端正な顔立ちの青年だった。

これはかなり、モテるだろうな。
そう思った。

高校3年なら受験生ですねと私が云うと、本人は大学には行かず、専門学校に行きたいそうだ。

知らなかったのだが、専門学校にも試験はあるらしい。


洋子さんは、仕事ができる人で、私もよく、教えてもらった。

ある時、仕事が終えたら飲みに行かない?
と誘ってくれたことがあり、2人で居酒屋に行くことになった。

その頃の私もお酒は強かったが、洋子さんも、見かけと違い、驚くほどの酒豪だった。

会社の人や食べ物の話しを肴に私達は、たくさん食べては飲み、お店を出たのは閉店近くになっていた。


外に出て、駅に向かい歩いていると、洋子さんは私の腕に自分の腕を絡めて来た。

かなり酔いが回っている様子で足元は、おぼつかない。

「楽しかった〜。また行きましょうね聡美ちゃん」
本当に嬉しそうな洋子さんと、同じく楽しかった私は、この後も、ちょくちょく飲みに行った。


可愛い人だなぁと思った。
歳の差なんて、全然感じない。

先輩、後輩も無い不思議な関係。


ある日のこと。

「良かったら、家に来ない?」

洋子さんの住まいは、会社から近かった。

「行ってもいいんですか?是非お邪魔させてください」

そしてこの日の仕事を終えると、私達は洋子さんの家に向かった。


途中で「ちょっと寄り道したいの」

彼女の後を着いていくと、お肉屋さんだった。

「ささみを2㌔ください」

に、2㌔!

品物を受け取ると、歩きながら洋子さんは「旦那用なの。お肉はささみしか食べないのよ」

うんざりした顔でそう云った。

「量が多いから、お店に買いに行くのも恥ずかしくて」
ため息混じりに云う。

でも気持ちは判る。

「ささみばかり食べて、ご主人は飽きないんですか」

「飽きないみたいよ」
半分、怒ったように洋子さんは話す。

こじんまりしたマンションに着く。

「家は一階なの」

バックから鍵を取り出しドアを開けた。

「どうぞ」

私は「お邪魔します」と云って玄関に入らせてもらう。

「狭くて恥ずかしいけど、上がってね。コーヒーを淹れるから、その椅子に座って待ってて」

「失礼します」
私は云われた椅子に座った。

目の前のテーブルを見て、あれ?と思った。


「はい、どうぞ」
コーヒーをテーブルに置くと私の顔を見て、

「この穴は息子がやったの」

「……?」
意味が判らない。

「反抗期の時にね」

そういうことか。

「拳骨でテーブルを殴った?」

「そう。これだけじゃなくて、壁のもね」

見ると確かに壁にも、大きな穴が開いていた。


「塞いでも、直ぐ剥がれちゃうのよ。
壁紙を全部貼り替えになるのかなぁ。困ってるの」

「男の子って力がありますね」

「全くね〜」

その壁には海外の風景が写っているカレンダーが、かかっていた。
「ステキなカレンダーですね」

「旦那の会社のよ。けっこうお金がかかったみたい」


「でしょうね〜。綺麗ですもの」

私がそう云っても洋子さんは、無反応だ。

それから二人で、コーヒーを飲みながら、他愛のない話しをした。


「旦那との馴れ初めが、訊きたいんでしょう?」
急に云われて私は慌てたけど、確かに訊いてみたいと思った。


「私が以前、働いてた会社にバイトで来てたの、彼が」

頷きながら私は訊いていた。

「その当時の会社で私には、6人の部下がいて、かなりの仕事量をこなしてた。
そこへ彼がバイトで入ったわけ」


「ご主人、歳下なんですか?」

「ううん。私と一緒よ」

「けれど洋子さんは既に、部下が6人いる立場だったんですよね」


クスリと笑い、洋子さんはコーヒーを含んだ。
それを流し込むと、洋子さんは話してくれた。

「聡美ちゃんの言いたいこと、判る。それなのに、彼がバイトなのは何故か、でしょう?」


「はい……まぁ。ご主人に失礼かなとも思いますが」

「全然、失礼なんかじゃないわ。彼は大学を3浪して入ったんだけど、
楽しくないからという理由で、退学して世界を旅してまわったの。何年かかけて。帰国後も、直ぐに正社員になることに、抵抗があったみたい。だからバイトなの」


なんて自由な人なんだろう。
そう思った。

こういったタイプの人でも結婚するんだと、私は些か驚いていた。


「私からなの」

「え?」

「私が先に彼を好きになったの。

あんなナルシスト。

見る目がなかったと思う」


私は何て言えばいいのか……。

「私は旦那の給料が幾らなのかを、今も知らないのよ。黙って生活費を渡すから、それで暮らしてるけど」


こういった夫婦もいるんだ。

「貯金がいくら有るのかも知らない。

教えないし、私も訊かないし。ただね、これから息子にお金がかかるようになるので、心配してるの。

ちゃんと貯金してくれてるのかが。
だから私のお給料は、ほとんどが貯金なのよ」


「そうなんですか」

「そうなの。本当は家を買いたい。
息子の友達は、皆さん持ち家だけど、ここは賃貸マンションだから、
何だか肩身が狭くて」


独身の私には判らないことだ。

持ち家かぁ。
40代で購入する人が多いのね。

「それに、もうずっとレスだし。寝室も別。同じ部屋で寝るなんて、絶対に嫌だもの」

険しい顔で、話す洋子さんは、幸せなのだろうか。

正直、そうは思えなかった。


   ガチャッ

「お帰り、和馬」

息子さんが帰宅した。

「お母さんの同僚なの。聡美さん」

「お邪魔しています。水谷聡美といいます」

息子さん、チラッとこっちを見て、
小さな声で「どうも」
と云い、自分の部屋に入っていった。


そうか、もう夕食を作る時間だ。

「今日はありがとうございました。
遅くまで、お邪魔してしまって。
帰ります」

私は椅子から立ち上がった。

「なんのお構いも出来なくて。
愚痴を訊いてくれて、ありがとう。
駅までの道は判る?」


「はい。たぶん大丈夫です。迷ったらバスも通っているようなので乗りますから」


私は外に出た。

初夏の今は、6時でもまだ明るかった。

歩きながら、考えてしまった。
洋子さんの気持ちを。

考えても判ることではないのに。


翌日、出社すると、洋子さんは、同年代の女性と話していた。

「うちも遂に云ったわよ。『誰が食わせてると思ってるんだ』って!」

「とうとう出ちゃったか。男ってこういう部分は最低よね」


確かに、そう思う。
絶対に云って欲しくない。

私の父も、母にこのセリフを云ってるのを、何度も訊いた。


母もパートで働いていたのに。
その上、家事と子供だった私の世話もある。

ある時、またこの言葉を母に云ったので、私は父に自分の気持ちを口に出した。

「お母さんだって働いてるじゃない。家のことも、私を育てることも、やって来たわ。お父さんは仕事以外、何もしなかったじゃない!」

父は私を睨み、いきなり頬をひっぱだかれた。
……ショックだった。


「聡美ちゃんおはよう。どうかしたの?ぼんやりして」

「いえ、おはようございます。畑野さん」

「おはよう。聡美ちゃんも結婚する時には、相手をよく観察した方がいいからね」


「はい。そうします」

畑野さんは、洋子さんと同世代の先輩だ。
かなりの気の強さを持ち合わせていて、男女問わず、畑野さんと話す時は、警戒しながらがになる。


デスクで仕事を始めようとした時、

何気なく隣の洋子さんを見た。

すると顔色がよくないし、緊張しているのか、表情が強張って見えた。

「洋子さん、体調がよくないんじゃないですか?」

私が話しかけると、洋子さんは

私のほうを向いた。

「今日は和馬が初めて車を運転をして、友達と出かけてるの。だから心配で」


「そうなんですか。和馬さんは大丈夫ですよ。友達も一緒なら尚更です」

「そうであって欲しい。免許を取ったら直ぐに車を買うんだもの」

「でも、その方がいいらしいですよ。

直ぐに運転する方が、習ったことを覚えているし、運転への恐怖心が無くなり、上手くなるのも早いと訊きます」


私が話しても、洋子さんの気持ちは晴れないのが伝わる。

一人息子だから余計に心配なのかもしれない。


「旦那がいけないのよ。さっさと車を買ってあげたりするから」

「……」

「和馬に何かあったら、ただじゃおかないから」

結局、この日は退社の時間まで、洋子さんの緊張は続いた。


翌日、先輩は穏やかな顔になっていた。
無事に和馬さんは帰宅したのが判る。

けど……。

和馬さんが、運転するようになってからの洋子さんは、どこか今までの彼女と違っていた。


「今日も和馬は友達と、ドライブに行ってる。私は和馬が運転する日は、下着も服も、持ち物も[黒]は絶対に身につけないし、バックとか持ち物も[黒]は避けてるの」

「あゝ、何となく判ります」

「でしょう?縁起が悪い気がするから怖いのよ」


和馬さんは、無事に行きたい専門学校へ通うことになった。

半年経たない頃、同じ学校の女の子を自宅に連れて来るようになったと、洋子さんから訊いた。


彼女では無いと和馬さんは云ってるらしい。
その女の子は、親と上手く行かず、
家に帰りたく無いという。

それで和馬さんが自分の自宅に連れて来たのだ。

ただ……女の子は和馬さんの部屋で過ごしているのだ。
何より、夜も同じ部屋で寝ているそうだ。

和馬さんのベットは、組み立て式の2段ベットなので、上と下で寝ているのだろう。
だからって……。


洋子さんは、女の子の家に電話をして、娘さんは無事ですから。暫く家で、お預かりします。

そう伝えたらしい。

“彼女では無い”と云われても、
19歳の男女が同じ部屋で過ごし、寝る時もそう。

私ですら、やきもきするのだから、
洋子さんの気持ちは、計り知れない。


ご主人はどう思っているのだろうか。

夫婦で、同じ部屋を寝室に使えば、一部屋空く。
そしたら和馬さんの部屋に居る、
女の子は、その部屋に移れるのだけど。


「旦那と同じ部屋で寝るなんて、絶対に嫌。無理よ。だって匂いに耐えられないもの」

「匂い、ですか」

「そう、男の匂いじゃないの。おじさんの匂いがして、それが耐えられないもの」


ご主人も、随分と洋子さんに嫌われたものだ。

でも、それだけが理由なんだろうか。
私は漠然と思った。


洋子さんの話しを聞いていると、
もはや嫌いという言葉では、足りない感じで。

拒絶反応を起こしているように、見て取れた。

何かあったのだろうか。

例えば、ご主人の浮気とか。

なんて考えたところで、訊けるわけじゃないし。
夫婦のことは、2人にしか判らないのだから、余計な詮索は止めよう。


それにしても、和馬さんの部屋に住むようになってた彼女は、幾らかでも、洋子さんに、渡しているのかな。


もうかなりの日数になる。食費だってかかるだろうし。

一体、いつまでこのマンションに居るつもりなんだろうか。
彼女の親も、随分だと思う。


洋子さんが可哀想だ。

ほとんど会話のない夫。
女の子と居る息子さん。

私が怒りを感じたところで、何の解決にもならないのは、判ってるけど。



ある日、いつもより早く出社した私は、まだ誰もいないだろうと思っていた。

けれど違った。

やはり早く出社した洋子さんと、
課長が話していた。

ただの会話ではない。
洋子さんを課長が、口説いているところに来てしまった!


「あ、聡美ちゃん、おはよ〜」

「おはようございます。課長、おはようございます」

課長はムスッとして席から離れた。

完全に怒らせてしまった。やれやれ

「聡美ちゃん、ありがとう。助かったわ。しつこいから困ってたとこ」

「洋子さんは可愛いですからね」

「私が可愛い?それは聡美ちゃんの誤解よ。ただ童顔で少し若く見えるだけで、可愛くないわよ。性格悪いし」


私はニコニコしながら、バックから
必要なものを出し、デスクに置いた

「そうだ。随分と早く出社したんですね。私は溜まっている仕事を少しでも片付けようと、いつもの電車より40分早いので来たんですが」


洋子さんはとても嬉しそうな顔を
して座っている。

「何かいいことでもあったんですか?」

私が質問すると、洋子さんの目は
ますます細くなって、満面の笑顔になった。


「えっ本当に?なんだろ。う〜ん。
あ、もしかして女の子が出て行きましたか?」

「聡美ちゃん、さすがね〜。そうなの。やっと帰ってくれたの」

そう云いながら、洋子さんは、私に抱きついた。


「随分と長いこと居ましたね〜
お疲れ様でした洋子さん」

「ありがとう聡美ちゃん。本当に疲れたよ〜」

私はヨシヨシと云いながら、洋子さんの頭を撫でた。

「昨日の夜に帰ったの。ホッとしたら何故か目が冴えてしまって。
何とか寝たけれど、早朝に目が覚めちゃった。それでここに居るわけ」


「余りの嬉しさに興奮したのかもしれませんね。あっそうだ」

私のお腹に、顔を埋めていた洋子さんは、私のことを見上げた。

「今日、飲みませんか。洋子さんを労って、私がご馳走します」


彼女は笑顔で私を見ると
「ありがとう、聡美ちゃん。
そうね、久しぶりに飲みに行きましょうか。ただし割り勘よ」

「でも」

「一応、私の方がお給料がいいんだから、聡美ちゃんに、ご馳走になる訳にはいかないわ。割り勘なら行く」


私は頷くと、「はい、判りました」
と答えた。


退社時間になり、私たちは会社を出ると歩道を歩いて、お店に向かう。

会話しながら歩いていた洋子さんの脚が止まった。

そして、ビルを見ている。

それは産婦人科の建物で、なぜ彼女がそのビルを見ているのか、判らず、私も黙って立っていた。


「よし、行きましょうか」
そう云うと、洋子さんは歩き始めた。

並んで歩く私達の先には、いつもより大きな月があった。

そういえば、今日はストロベリームーンだと、会社の女の子たちが話していたっけ。

私の目には、ピンク色には見えず、
いつもと同じ白っぽい月だ。


私のような女は、男の人から見たら、可愛げがないと思われるんだろうな。

そうこうしてたら、お店に到着した。


地下へと階段を降りる。

店内に入ると、私たちが1番目のお客のようだ。

いつものテーブルに着き、店員さんが渡してくれた、温かいおしぼりで、手を拭きながらメニューに目をやった。


「よし!今日は始めからジントニックにしよっと。聡美ちゃんは決まった?」

「いつもの梅サワーにします」

そして食べる物。

洋子さんは、アルコールの前には、たくさん食べる。そうしないと飲めないそうだ。
それなのに、スリムで羨ましい。

とりあえず、3品注文した。

早速、乾杯をする。

「さぁて、食べるわよ〜」
サラダを小皿に乗せると、シャクシャクと、いい音を立てて、洋子さんは食べ始めた。

見ている私までテンションが上がる食べっぷりだなと、いつも思う。
微笑ましい。

「ほら、聡美ちゃんも、どんどん食べなきゃ」

それでは、揚げたての串カツから。

大好きな、蓮をいただきます!


目の前では洋子さんが、ニンニクの芽と豚肉を炒めた物をパクパク食べては、ジントニックを飲んでいる。


「すいませ〜ん。ジントニックをおかわり」

今夜はピッチが早いけど大丈夫かな。

店員さんを、呼び止めて洋子さんは新たに料理を2品頼んだ。


私はマドラーで、梅干しを潰し、よく混ぜてサワーを飲む。

そしてサラダを小皿によそうって食べることにした。

口に運ぼうとしながら、洋子さんを見たら、ジッと一点を見詰めてる。そんな顔をしていた。
さっきまでの洋子さんとは、別人のようだ。

どうしたのかな。
何か考えてるみたいだけど。

洋子さんは、私に気付くと、急いで笑顔を作った。


「……洋子さん、私でも良ければ何でも訊きますよ。無理してるでしょう」     

洋子さんは、驚いた目で私を見た。

そして少し考えているようだった。


「和馬に弟や妹を作ってあげたかったなって。時々そう思うの」

「でも、こればかりは洋子さんの責任ではないですし」


すると洋子さんは、私を見ると怒ったように云ったのだ。
「私のせいなのよ。判ったようなことを云わないで!」


私の知ってる洋子さんではなかった。

「生意気云いました。まだ独身の私には判らないことなのに。
本当に、すみませんでした」

私は謝罪して、洋子さんに頭を下げた。


そんな私を見て、洋子さんは我に返ったみたいになった。

「聡美ちゃん、私の方こそ酷いことを云って……本当にごめんなさい」


私は不覚にも涙が流れてしまった。

「聡美ちゃん……」

「洋子さん、わたし今日は帰ることにします」

「うん、また別の日にしましょう」


こうして私と洋子さんは、賑わい始めた夜の街に出た。

今日は木曜日で、25日だ。

昔は“花金”と云ってたが、昨今は
“花木”に変わった。

しかも、かなりの会社ではお給料日だろう。

いつもより、人が多い。


雑踏の中、私たちは、黙って歩いていた。

駅に着くと、改札口で別れた。
「おやすみなさい」
そう云って。


電車に乗り、私はドアに寄りかかると、夏の20時過ぎの街を見ていた。

つい今しがた、太陽が沈んだような空、そして家々が流れてくいく。


私はバカだなぁ。

妊娠すら経験の無い人間が、口を挟むことではなかったのに。

洋子さんは、産婦人科のビルを、真剣な顔で見ていた。

[W産婦人科]

あそこで和馬さんを出産したのかな。

あゝ!もう考えるのはやめよう。

少し、疲れた。

  
   ガタン ガタン ガタン


電車の揺れが、眠気を誘う。




翌朝、駅であの畑野さんに会ってしまった。

「聡美ちゃん、おはよ!」

「畑野さん、おはようございます」


「昨日、洋子さんと歩いてたでしょう」

ワッ!見られてたんだ。

「は、はい。街で買い物をしようと」

「そう。ちょっと気になって」


思わず、畑野さんのことを見た。
気になること?


「[W産婦人科]の前に、洋子さんが居るのを見たから、驚いたの」

何の話しをしているのだろう。

「ひょっとして聡美ちゃん、まだ洋子さんから何も訊いてなかった?」


私は頷いた。

「畑野さんが、何の話しをしているのか、判らなくて」

「そうだったの。あ〜私のバカ、アホ。洋子さん、すみません」

そんな畑野さんを、私はただ黙って見ているしかない。


「今から私が話すことを、、洋子さんには、絶対に内緒にして欲しいの」

「誰にも云いません。誓います」


その時、畑野さんから訊いたことは、この後の私の人生で忘れることは、なかった。

洋子さんは、子宮筋腫になったそうだ。

診てもらったのは、W産婦人科である。

そこの医師であり、病院の経営者が、洋子さんを検査し、子宮筋腫が見つかった。


そして告げられたのだ。

「子宮滴術をしなければ、悪性の筋腫になる恐れがあります」と。


子宮を取り出す手術。

そしたらもう、赤ちゃんを諦めるしかない。

洋子さんは、泣きながら、このことをご主人に話した。


「和馬は一人っ子になってしまう。

私はどうしたらいい?」

気が動転している洋子さんに、ご主人は優しく云ったそうだ。

「選ぶことじゃない。手術をしてもらおう。和馬が一人っ子でもいいじゃないか。洋子の命より優先することなんて、何も無いんだよ」


そして、洋子さんは手術をした。

これで2度と子宮筋腫になることはなくなった。
同時に、妊娠することも……。

ところが……。


「“W産婦人科”の評判は最悪なのを、越して来て間もない洋子さんは、知らなかったのね」
畑野さんは云った。

「最悪って。どういうことですか」


「歯科医でもいるって訊いたことあると思うんだけど。治療をしないで、すぐ歯を抜くことを患者に勧める医師がいるのと同じなのよ」


「それって、まさか」

神妙な表情で、畑野さんは続けた。

「洋子さん、別の病院に行ってたら、子宮全部を取らなくてもよかったかもしれない。筋腫だけを取ることで済んだかもしれない。そしたら、また妊娠する可能性も、あった」


そんな……。

「洋子さんにも、このことが伝わったと思う」
最後に、畑野さんはそう云った。



鏡の前に洋子は座っている。

会社に行くので、お化粧をしなければ。

鏡の中には、血色の悪い自分が居た。



「どうしてもっと調べなかったんだよ。母親だろう?洋子は」

「ご、ごめんなさい」

さっきから洋子は、泣きながら夫に謝っていた。

「泣かなくていいよ。何も変わらないんだから。遅かったんだ」


  ウッ ウッ ウゥ

「本当に、すみ……ま、せん」

「俺、女の子が欲しかったんだよなぁ」

夫は吐き捨てるように云い、外出した。


洋子は、鏡に向かって話しかけた。

「何故、あんな人に正直に話したんだろう。馬鹿じゃない私は」

そして、お化粧を始めた。


「おはようございます」

ロッカーで洋子さんに会った。

「おはようございます。今日も宜しくお願いします」

「任せといて」

洋子さんの言葉に、ロッカー室には、笑い声が響いた。


仕事が忙しいと時間が経つのが早い。

コンビニで買ってきた、サンドイッチと抹茶ラテをデスクで食べながら、私は洋子さんと世間話をした。

「例の壁の穴なんだけど」

「はい」

「お金がかかるけど、壁紙全部を張り替えることにしたの」

「遂に決めたんですね!洋子さんが自分でやるんですか?」


「まさか。無理無理。業者さんに頼むの」

「変わると思います。部屋の雰囲気も、なにか他のこととかも」


「なに?他のことって」

「判りません。ただなんとなく」

洋子さんは、朗らかに笑った。

私も笑った。


この半年後、私は入籍した。

会社の人ではない。

大学の同級生だ。

「おめでとう。結婚式場、よく押さえられたわね」

「式はまだ先の予定です。
彼の転勤が決まっているので、今は片付けに追われてます」

「聡美ちゃんも彼に着いて行くのね。寂しいなぁ。聡美ちゃんが居なくなると」

「ありがとう洋子さん。私も寂しい」

「ホントにぃ?愛する彼がいるでしょう」


「ホントです!」
思わず大きな声を出してしまった。

「とっても楽しかったんです。洋子さんと居るのが、とても嬉しかった。だから」


   ンッ!


洋子さんの唇で、私の唇が塞がれた。

ゆっくりと、唇を離すと彼女は云った。
「それ以上、話されると私は泣いちゃうから」

そして、洋子さんは背中を向けた。


「最後にまた生意気を云わせてください」

洋子さんは背中を向けたままで、頷いた。


私は深呼吸をしてから自分の気持ちを伝えた。

「“かも”に引っ張られない人生を、
私は生きていきたいです。
“たら、れば”も同じです。以上、私のラスト生意気でした」

そして、私は会社を辞めた。




私は新しい土地に行っても、洋子さんとは、頻繁に連絡を取った。

けれど、それも徐々に減り、お互い連絡しなくなっていった。

10年経った頃、私は洋子さんに電話をかけてみたが、その番号は使われていなかった。

他にも連絡を取る方法はあった。
だけどやめておいた。

どれも繋がらなくなっている気がした。


「おかあさん。喉が渇きました」

「はいはい。今日は暑いね菜々美」

少し凍らせてから、冷蔵庫に移して置いた水のペットボトルが、冷えてて気持ちがいい。

「はい、菜々美ちゃん」

「おかあさん、ありがとう」

奈々美は冷えたお水を、美味しそうに、ゴクゴク飲んでいる。


洋子さん、この私が母親になったんですよ。

菜々美といいます。3歳です。

いつの日か、洋子さんに会って貰いたいです。

「おかあさん。ちゅーして欲しいです」

「いいよお」

私は娘を抱き上げて、顔中にキスをした。

「あはは、おかあさん、くすぐったい。もういいです」

「え〜。やめな〜い」

   チュチュチュチュ

キャハッ!くすぐったいです
おかあさん。


      了




 


























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