乗り越える時まで 12 紗希 2024年3月26日 04:46 学校に通っていた。簿記を習うために。社会人1年目の私は、会社の仕事が、右も左も判らない。新人の中でも、ダントツに覚えが悪いと自覚している。はっきり云って簿記は好きではない。と、云うよりかなり嫌いだ。それでも仕事をする上で、必要だから、私は書店で初心者向けの本を、5冊買った。でも、読んでる内に眠くなり、さっぱり進まないし、頭に入らない。ある日、上司が私のデスクに3冊の本を置いた。「これを読んでみなさい」そう云って。「これ以上の簡単な簿記の本は、無い(らしい)から、沖くんでも理解出来るはずだ。だが、万が一、判らないようなら学校に通いなさい」そして私は週2回、会社が終わると学校に通うことになってしまった。周りを見ると、私と同じに社会人が多い気がする。この日も授業が終わり、20時23分の電車に乗る為に、私は小走りで駅に急いでいた。なんとか間にあい、私は電車に乗ることが出来た。8月の暑さは、夜になっても熱気が凄くて、私の体はベタベタだ。冷えた車内は、まるで天国に思える。いつもなら、ラッシュで満員なのに、今夜は割と、空いていた。「25日の金曜日。だからか」運良く空席があったので、私は座ることが出来た。「あ〜疲れた。早く帰ってシャワーを浴びたい。こんな思いをするくらいなら、いっそのこと転職を考えた方が……ううん、絶対だめ!」そんなことを思っていたら、なんだか視線を感じる。隣りを見たら、中年の女性がニコニコと、笑顔で私を見ている。知り合いでもないし、関わらない方がいいだろうと思った私は、本を読むことにした。バックから、授業で使っている教材を取り出すと、ページを開く。「あなた、爽やかねぇ」そう声がして、私はさっきの女性のことを見た。その女性は、やっぱり笑顔で私を見ている。私は勇気を出して、訊いてみた。「爽やかって、私のことでしょうか」「そう、貴女のこと」爽やか……いったいどこが。そう思ったが、口には出さず、黙って本に目をやった。「学生さん?」「いえ、働いています。仕事に必要なので、帰りに学校で勉強しています」「偉いわねぇ」女性は頷きながら、感心している。私は思った。もしや、この人は、自分の息子さんの、嫁に来てくれないかしら。そう云いたいのでは、ないだろか。どうしよう。なんて断ろう。(次は月野〜月野〜。お忘れ物のございませんように)良かった、私の降りる駅だ。私は本をバックにしまうと、席を立った。「あら、降りる駅なの?」「はい。そうなんです」「そう。残念だわぁ。また会えたら話しましょうね」駅に着き、ドアが開いた。「お先に失礼します」私はお辞儀をすると、ホームに降りた。涼しくない夜風だったけど、今の私には気持ちいい。とにかくホッとした。本当なら、会社を辞めて、結婚するのもいいかもしれない。だけど私には好きな人がいる。片思いだけど。その人も、この服の私を見て、「その服装、沖に似合ってる。白いブラウスに、水色のジーンズ。なんていうか、爽やかな感じで、凄くいいよ」そう云ってくれた。「その人が、わたしの生きがいなんだ」途中でコンビニに寄る。外には、不安な表情をしたコーギーが繋がれていて、飼い主が出て来るのを、ドアを見つめて待っていた。「誰かに連れて行かれたら、とか考えないのかな。実際、そういう事件がおきてるのに」私はコーギーの傍で、飼い主が出て来るのを、一緒に待つことにした。不安な表情を、放っておけなかった。「心細いよね。私も同じだよ」最初は、私を怪しんでたコーギーだったが、人懐っこい犬種なので、嬉しそうな表情に変わってくれた。飼い主は、中々出て来ない。「大丈夫だよ」コーギーに声をかける。30分が経った頃、ようやく飼い主が出て来た。かなり派手な風貌の女の子。そして彼氏らしい男。女の子は、私を見て眉間に皺を寄せ、「アンタなんで、ここにいんの」と云った。(あなたがこの子を、放ったらかしにしてたからだよ)よっぽどそう云おうかと思ったが、たぶん話しの通じないタイプだと思った私は、「可愛いので」とだけ云った。彼氏(らしき)男は、ニヤニヤしながら、「あぶねーやつじゃん」そういうと、女の子とコーギーとでその場を離れた。酒とタバコ臭がひどく匂っていた。「あぶねーのは、どっちよ!」家に帰れば、夕飯があるのは判ってる。けれどこの時の私が求めているのは、気が狂いそうな甘さだった。店内に入り、スイーツのコーナーに直行した。どれも美味しそうだが、求めているのとは違う。考えた末に、私はシフォンケーキと、生クリーム、メイプルシロップを買うことに決めた。それとバニラアイス。レジを済ませて外に出る。相変わらずの、ムッとした熱気が私にまとわりつく。「ただいま」私は靴を脱ぎ、短い廊下を歩くと、居間に入る白い扉を開けた。「お帰り未菜。お腹空いたでしょう。今日は簡単に、そうめんにしたんだけど」「じゅうぶんよ。暑いものね。着替えてる来る」コンビニの袋をぶら下げて、私は自分の部屋に行った。ドアを閉めると、その場に座り込んだ。過呼吸が襲って来る。一人になると、いつもそうだ。(堤と連絡が取れません!)(あいつは無断欠勤をするようなヤツじゃない。今日で2日だ。仕方がない。不動産屋に話して、鍵を開けてもらおう。大野、小山、俺と一緒に来い)堤さんは、自分の部屋にいた。ビリビリに裂かれたカーテンが、いかに苦しかったかを語ったいた。作りかけの野菜炒め。飲みかけの炭酸水。健康で、どこも悪くなかったのに。心臓発作だった。(沖は、本当に簿記に弱いのな。でも頑張れ。必ず出来るようになるから。俺も協力する。判らなかったら訊いていいから)私は、いつになったら忘れられる?忘れることなんか無理だ。だって堤さんは、存在してた。確かにいたんだ。次に誰かを好きになれば、いいの?そんなに簡単に、人を好きになれたら苦労はしない。あのコーギーは可愛がってもらってるかな。不安そうな顔を、してないといいな。「そうめんが、延びちゃうわよ。早く食べなさい」「はーい、今行くから」私は鏡を見た。そして「よし!」そう云うと、部屋を出てドアを閉めた。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #コーギー #今回もありがとうございました #若かったな #少しだけノンフィクション 12