綿が弾けた日 28 紗希 2023年9月7日 18:02 「全部ここに出して」ごそごそと、スーパーのビニール袋から。それとスカートのポケットからも出す。「これで全部?」私はうなずく。「こっちはね、ちゃんと見てるんだよ。まだあるよね」「これだけです」 バン!!テーブルを思い切り叩くと店長は怒鳴った。「大人をバカにするのも、いい加減にしろよ!キミはブラウスの襟元からも品物を入れたよな」私は、ゆっくりブラウスの中に手を入れると、胸元にあった物を取り出した。それはベビーコーナーで万引きした、おしゃぶりや涎掛けなどであった。「ほらみろ!あるじゃないか。甘く見るんじゃないよ」誰かがノックして、店長室のドアが開いた。「この子の母親が来ました」エプロンをしたおじさんが、そう云った。惣菜コーナーの人だ。「失礼致します」お母さんは、私のところへ来ると、ピシャッと頬を叩いた。そして目の前に居る店長に、何度も何度も頭を下げた。「この度は、家の子が大変ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」そう云うと私を睨みつけた。「旭!椅子から立ちなさい!」と云い、私は仕方なく立つことにした。「何してるの、きちんと謝りなさい」そう云って無理やり私の頭を押さえて、下に向けさせた。私は黙って下を向いている。「ちゃんと口に出して謝りなさい。早く!」その様子を見た店長は、薄笑いを浮かべた。「お母さん、もういいですよ。こちらとしても、悪いと思ってないのに口先だけで謝られてもね」店長が話し終えると同時に、お母さんの体がよろけた。顔は真っ青だ。「お母さん大丈夫ですか?」さっきのエプロンのおじさんが心配そうにしている。「は……い、少し目眩がして」「とにかく椅子に座って。誰か、水を持って来てくれ」事務の女の人が急いで水の入ったコップを、お母さんに差し出した。「どうぞ、飲んでください」お母さんは小さな声で「すみません……」とだけ云うと、コップに口を付けて少しだけ水を飲んだ。店長は眉間にシワを寄せながら云った。「とにかく中学校には連絡させてもらいますよ。万引きした品数もかなり多いし、本人に反省の色が見られないんでね」お母さんは震えながら、はい、と応えた。数分後、全額支払うと、私たちは外に出た。真夏の熱気が身体中にまとわり付く。だから、私は夏が嫌いだ。汗でベトついた服も気持ちが悪かった。「あの、おじさんも暑いだろうな」毎週、月曜日に店を出し、傘や靴などの修理をするおじさんがいる。植物が好きで、自分でも育てていると云っていた。毎回、鉢植えを一つ、持参して来る。今日は白っぽい花の鉢植えだ。市役所から時刻を告げる音楽が、流れてる。もうそんな時間なんだ。どうりで、お腹が空くわけだ。でも、お母さんは夕食を作ってくれるのだろうか。私もお母さんも、さっきからずっと、黙ったままだ。暫く経った頃、お母さんがポツリと云った。「旭、あなたはいつから、そんな風になってしまったの」お母さんは、私を見ずに、独り言のように呟いた。“そんな風”って、どんな風のことを云ってるの?万引きなら、とっくにやってるよ。小学4年の時から何回も。見つからなかっただけだよ。勿論こんなこと、お母さんに、話せっこない。辺りが段々と、薄暗くなっていく。その時、何かの気配を感じて、私は空を見上げた。そこには在ったのは、大きな満月。でも、それはまるで、夏祭りの夜店で売ってるビー玉のようで、どこか偽物のように私には映った。本当に本物なの?あの満月。見れば見るほど、偽物に見えてくる。「はぁ〜」お母さんがため息をつく。私が万引きしたことを、お父さんに話さなければいけないからだ。そのことが、お母さんの気持ちを重くしている。私だって嫌だ。お父さんは話しが長いのだ。ずっと叱り続けるのを、訊いてるふりをするのは、とても苦痛だ。いっそのことあの黄色いビー玉が私を吸い込んでくれればいいのに。そしたら流れて来た雲を捕まえて、私はその中に、潜って隠れてしまいたい。しかしビー玉は、私を吸い込んではくれないのだ。偽物のクセに。役に立たない黄色いビー玉。誰か私に“役立たず”って云った?空耳。でも……当たってるよ。その日は宅配を注文した。いつもは、いい顔をしないファストフードを注文しても、お母さんは何もいわなかった。そしてお父さんのお説教は、やっぱり長かった。翌日、学校からお母さんが呼び出され、職員室で私と並んで立つと、コアラ顔の担任の先生から、かなり厳しく注意をされた。私が教室に戻ると昼休みも終わり、授業が始まるところだった。お母さんは、きっとうつむきながら、青白い顔で正門を出て行ったのだろう。私はお母さんに悪いことしたなって思ってる。嘘じゃない。その夜も、私はいつもの夢の中にいた。今夜の私は泣いている。あまりに痛くて泣いている。お母さんが私の足を踏んでいるのだ。かかとがピンヒールの靴を履いて、私に背を向けて、誰かと喋ってる。私は何故か裸足で、お母さんのハイヒールのかかとが皮膚に穴が開きそうに食い込んでる。お母さん痛いよ!そう云いたいのに声が出ない。仕方がないから、お母さんの背中に触ろうとしたけど、手も動かない。私の足は紫色になり、みるみるドス黒くなっていく。そしてとうとう血が吹き出した。立っていられなくなった私は、貧血になりかけて、地面に座り込んだ。まだ踏まれたままの私の足からお母さんの脚を両手で持ち上げて、その隙に自分の足を横に移動した。血が止まらない。私はランドセルから、ハンカチを出すと、血が溢れる穴を押さえた。二枚持ってたハンカチは、瞬く間に真っ赤に染まってしまう。急に激痛が走り、私は悲鳴をあげた。その時、お母さんはやっと私に気がついた。「どうしたの、その怪我は。血が流れてるじゃない。救急車を呼ばないと」そこで目が覚めた。枕は涙で冷たくなっていた。お母さんは、真剣に私の話しを訊いてくれたことが無い。悩みを相談しても、寂しくて泣きじゃくりながら話しても、耳を傾けてはくれない。風に任せて宙に浮かぶ赤トンボみたいに、何となく漂っている、それが私のお母さんだ。お父さんは、私が話そうとしても、同じことしか云わない。「お母さんに訊いてもらいなさい」[あの子が生きていれば、もっと]お父さんとお母さんが、そう話していたことを私は知っている。知りたくなんてなかったのに。トイレなんか我慢すればよかったんだ!私は部屋に戻ると、布団に潜ってただただ泣き続けた。こんな深夜に鳴いている、蝉の声が聴こえてた。私が万引きをするようになったのは、この時からだ。欲しくもない品物でも、とにかく私は、盗んでいた。何でなのか、自分でも判らない。私には、姉がいるはずだった。だけど赤ちゃんだった姉は、突然死してしまったのだ。ねえ、私一人じゃ駄目なの?穴が開いたのは、足ではなく、私の胸の真ん中だ。見えていないだけだ。あの夏の夜からずっと、血がとまることは無い。この家には、私一人じゃ駄目なんだ。姉がいないと、お父さんもお母さんも、幸せにはなれない。私だけでは……足りない。あの夜からずっと、そう思ってる。「全く迷惑な」お母さんがエコバックと近所にある靴屋さんの紙袋を下げて、買い物から帰って来た。「恩着せがましく靴をくれては、お返しを期待してるのよ。どうせ売れ残りの品物なのに」お母さんにしては珍しく、本気で怒っている。興味を持った私は、紙袋から靴の入った箱を出し、蓋を開けた。「な〜んだ。つまんないの」「どれどれ、今回はどんな靴」お母さんがエプロンを身に付けながら覗き込む。そこには、何の面白味もない、真っ黒な靴があった。確かに長いこと売れないまま、古くなった感じがする。「なぁにこれ。お葬式くらいにしか履いてくところが無いじゃない」お母さんは憤慨しながら、サイズを確認した。「22.5。お母さんには小さすぎるわ。旭なら履けそうだから、あげる」勝手に決めて、お母さんはキッチンへと戻って行った。そして今日も、ぼんやり窓から空を見上げるんだ。姉が死んで、お母さんは、虚な目をすることが多くなったと、以前にお婆ちゃんから訊いたことがある。何で私には無関心なの?私のお母さんでもあるんだよ?私は悔しくて、仏壇の姉の位牌を床に叩き付けた。「何やってるの!」お母さんは血相を変えて、床に転がっている位牌を胸に抱きしめた。「ごめんね、紗良ちゃん。ごめんなさい」そう云って、お母さんは涙を流した。その様子を見て私も涙が溢れた。そして私は火がついたように、姉が着ていた赤ちゃん用の服や靴下を、タンスの中から引っ張り出しては放り投げた。「旭、いい加減にしなさい!」その声に振り向くと、帰宅したお父さんが立っていた。身体を、小刻みに震わせながら。嫌だ!止めるもんか、こんな物、全部捨ててやる。私は続けた。ピシャ!私は、思わず頬に手をあてた。掌を、涙が伝わっては、赤ちゃんの服にポタポタ落ちる。ガーゼの服が吸い込んでいく。何故?私には全然、関心がないくせに、死んだ姉のことは大切にするのは何で?「あああああああああーーー!」「旭、大声を出すのはやめなさい」「あああああああああああーー!」「やめないか旭!」ハァハァハァ、ゲホッ、ハァハァハァ「いったいどうしちゃったの旭」リリーン リリーン「はい、もしもし。あ、どうもこんばんは。はい、はい、そうですか……。残念でしたね。お悔やみ申し上げます」お母さんは、携帯を静かに切ると、お父さんを見た。「どうした。何かあったのか?」「入院していた鎌倉の澄子さんが亡くなったそうよ」澄子さんは、お父さんの一つ下の妹だ。お父さんが、とても可愛がっていた。お父さんは、うなだれている。「そうか……」「明日、お通夜だそうです」「判った。俺も有休を取る」私は黙って自分の部屋に戻った。明日は澄子叔母さんのお通夜。あんまり会うことはなかったけど、笑顔が印象的なのを覚えている。靴屋さんからもらった、あの黒い靴を履いて行こう。さっきまで気が狂いそうだった私は、履いてく靴のことを考えている。空にはあの黄色いビー玉が、少し痩せて、そこにいた。「偽物でも、きれいだよ」自然に言葉をかけていた。澄子叔母さんのお通夜は、叔母さんの兄の貴さんと、私の家族だけが、小さなセレモニーホールに集まっていた。澄子叔母さんが、生前に頼んでいたそうだ。お焼香の順番が回って来た。私が歩き始めたら、靴のかかとがいきなり割れて、中から白い綿がポンポンと、幾つも飛び出した。私はびっくりして立ち止まった。当然、他の人達も驚いている。お母さんが慌てて拾い始めたので、私も手伝おうと手を伸ばした。「旭はいいから、お焼香をしてきなさい」私は云われた通り、焼香台に向かった。澄子叔母さんは、生涯独身だった。長年、官庁で働き二年前に定年退職をしたばかりだ。色白で、ぽっちゃりした可愛い人という印象がある。着物が大好きで、海沿いにあるマンションには、着物専用の部屋があるらしかった。「旭ちゃんも遊びにいらっしゃいね。海が一望出来て、眺めも最高なのよ」そう云ってくれてたのに。「スニーカーを持って来て良かったわね」「うん」私は普段はスニーカーしか履かないので、他の靴だと直ぐに靴ずれが出来て痛いのだ。今日みたいな時は、必ずスニーカーを持参している。家族で電車に乗るのは、いつ以来だろう。少し眠たい目で私は外の景色を見ていた。どこの家も、夕食を終えた頃かな。街灯って、どうして寂しく見えるんだろう。そんなことを考えながら、私は眠りそうになっていた。目を瞑っていたら、誰が泣いてる声が訊こえる。その声は、紛れもなくお母さんだった。周りの人達に、判らないように、口元をハンカチで抑えながら、お母さんは、うっうっと声を漏らしていた。私が見ているのに気付くと、お母さんは自分の手を、私の手に重ねた。「旭、ごめんね」そう云って。街灯は、何故あんなに寂しく見えるのかな。夜にならないと、灯らないからかな。そして朝になったら、消えないといけないんだ。暗闇の中でしか、自分の出番がないことを、本当は寂しく思っているのかも知れない。黄色いビー玉のような月は私。本物の月は、死んだ姉。暗闇でしか自分でいることが、出来ないのは私。明るく眩しい太陽は姉。自分は死ぬまでそうなんだと思ってた。あの時、お母さんは、私が履いてた靴のかかとから、ぽんぽんぽんと、幾つもの綿が弾け飛ぶ光景に、何を見たんだろう。靴のかかとが割れたように、お母さんの中で、何かが割れたのかもしれない。卵の殻が破けるのと、同じように。「おじさん、この靴直せる?」「どれどれ、こりゃ見事に割れてるな」「あれ?白い花が変な形に変わってる」「それには綿の実が入ってるんだ」「綿の実って、綿が出来るの?見たい!いつ見れる?」「綿を摘むには、少しの間、辛抱が必要だ。九月には中から綿が、弾けるよ」「へえ〜、楽しみ!」私が万引きをしたスーパー。今日は二人で店長さんに、お詫びに来た。「どうも、すみませんでした」私は声に出して謝ることが出来た。店長さんは、驚いてたけど。自動ドアが開き、お母さんが出て来た。「旭、お待たせ。買い物、終えたわよ。あら、包丁や鋏も研いでくれるのね」「月曜日は、いつもここでやってますから良かったら。お嬢さんの靴も直しておくよ」「良かった」私はお母さんを見た。「宜しくお願いします」笑顔でお母さんは、そう云った。「はいよ、来週またおいで」おじさんは、にっこりして云った。「お母さん、私が持つよ」「重いわよ、ほら」渡されたビニール袋は、ずっしりして確かに重かった。「ふふ。大丈夫かな」「私は中ニだよ?お母さんより体力あるの」お母さんは、黙っている。そして私をじっと見つめた。「旭は中学生なのよね……私が、お母さんを怠けている間に、あなたは中学生になってた」ポンポンポンと綿が弾けた時、お母さんは、やっとお姉ちゃんだけでなく、私のお母さんにもなってくれた。私は偽物を卒業してもいいですか。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 28