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理 由

「ああ……またあの女性(ひと)が来てる」


地面に正座をし、手を合わせて一心不乱に祈るその女性の姿を沙緒里は何度か見かけていた。


足音に気づいた女性は、沙緒里の方を見た。

ハッとした顔をして女性は急いで立ち上がった。

「ご無沙汰してます。またいらしてくれたのですね岡元さん。何回かお見掛けしていました」


岡元という女性は、落ち着きを失い、

沙緒里と目を合わせていいものかどうか思案しているように、その視線の先が定まらない様子だ。

「ご迷惑なのは承知しております。

ただ、お母様が急に亡くなられたと知り、

勝手なことをしました。申し訳ありません」


「何故、謝るのですか?それに迷惑だなんて思っていません。ただ……今後は結構です」

沙緒里の言葉に女性は俯くと、地面にぽたぽたと涙を落とした。


「それから、毎月お金を送ってくださるのも、もうやめてください。持ち家ですし母の生命保険と私の障害年金で、暮らしていけますので」

女性は絶望した眼差しで沙緒里を見ている。


沙緒里は岡元が出来ることを、二つとも

ばっさりと断ち切ったのだ。


ただそれは虐めているわけではなかった。

「引っ越されたのですね」

岡元は黙っていた。

「私も今度のことでは胸の痛くなる体験したので判るんです。岡元さんは今までの住まいには居られなくなっているだろうと」

岡元は、複雑な面持ちで沙緒里のことを見ていた。


沙緒里は続けた。

「人間は天使ではありませんから。人の苦しみを蜜のように感じ、嬉しそうに舐める悪魔が何人もいるものですね」


空気が急に冷たくなった。

まだ昼間なのに、辺りは日暮れのような色に変貌している。

厚い雲が太陽を覆ってしまったから。

もうすぐ10月も終わる。


「キャア!」

沙緒里も岡元も、声がした方を見た。

女子高生が怯えた目で沙緒里を見ていた。

そしていきなり走り出し、去っていった。


岡元は両手で顔を覆った。

そして沙緒里に訴えるかのようにこう云った。

「沙緒里さん、お願いです。お墓参りを続けさせてください、お願いします」


沙緒里はゆっくり首を横に振った。

岡元の目から涙がまた溢れ始めた。

「岡元さん、今度は私の家に来ませんか」

その言葉を聴いた岡元は、信じられないといった様子で沙緒里を見た。


「父ならずっと入院しています。もう家に戻ることは無いでしょう。それに……

家には仏壇もありますし、外でこうして立ち話しをするのと違ってゆっくり出来ます」

岡元はそれには答えず沙緒里にお辞儀をすると勾配のキツい坂道を、降りて行く。

「岡元さん、ぜひお越しください。お電話を待ちしています」


沙緒里は岡元の背中にそう声をかけた。

黙って坂を歩いて行く岡元の姿は小さくなっていた。


 【山口家乃墓】

綺麗な花が供えられている。

「無理して高い花を買って……」

そう呟くと、沙緒里はバックから鏡を取り出した。


さっきの女子高生の悲鳴が残る。

「やっぱり傷付くものね、10ヶ月経ってもまだ」

鏡の中の沙緒里の顔は左側の上の部分だけ皮膚の色が違っている。

ところどころ皮膚が攣ってる箇所もあった。

一番目立つのは左の瞼だ。怪談のお岩さんのように垂れて目を半分以上覆っている。


一度だけ、関係を持った人がいた。


もう会わなければ良かったのに……。

それなのに会ってしまった。

何故、会いに行ったのか自分でも判らない。

どちらかと言えば、一緒にいて気分がいい相手ではなかったはずだ。


そして彼は沙緒里の顔に強力な液体洗剤を浴びせかけた。


余りの痛みと熱さで沙緒里は悲鳴を上げながら、のたうち回った。

沙緒里に洗剤をかけた彼が、さっきの女性、岡元の、今は刑務所の中にいる息子だ。


手術はしたが、皮膚の色は完全には戻ることはなく、そして沙緒里は左眼を失明した。


「帰ろう」

沙緒里は岡元が歩いて行った坂道を降りることにした。

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彼の名前は岡元龍二という。

沙緒里が働く会社の取引先が龍二の職場だった。

沙緒里は仕事の関係で何度か龍二の職場を訪れていた。

龍二の方から沙緒里の会社に出向くこともあった。


齢も近く、沙緒里は27、龍二は29だった。

ある年の夏、二つの会社が合同で、デパートの屋上で暑気払いを開催することになった。

沙緒里はアルコールは飲めない体質だ。

驚いたことに龍二も全くの下戸だった。


二人はひたすら肉や野菜を焼くこととなった。

真夏の夜は、それでなくても蒸し蒸しして

体にまとわりつくような暑さの中、燃え盛る炎の上で食材を網に乗せて焼き続ける。


「俺たちババを引いちゃったかな」

龍二はトングで野菜を返しながら、そう云った。

「どうやら、そのようですね。過酷な罰ゲームのようにも感じます」

網にくっついてしまった肉を沙緒里は丁寧に剥がしにかかる。


その様子を龍二は感心して見ている。


ゴク ゴク ゴク ゴク

「ハーー!美味しい!」

「沙緒里ちゃん、いい飲みっぷりだねぇ」

上司の窪田がヘラヘラした笑い顔を作りながらそう云った。

「もう、喉がカラカラだったもので」


沙緒里が飲んでるのはグレープフルーツの生ジュースだ。

店員さんに頼んで、特別にビールジョッキに入れてもらった。

それでも一度で半分以上、沙緒里は飲んでいる。


一方、岡元龍二は同僚たちと、わいわい話しながらさっきまで自分で焼いていた肉を夢中で口に運んでいる。

どうやら空腹だったみたいだ。

時折、職場の人に、ハイボールやビールを飲め飲めと云われて、その度、龍二は肉を食べることを中断せざるをえなかった。


「ああいう人たちって本当に迷惑なのよね。

お酒が呑めない人のことを、理解する気など丸でないんだもの。

遠慮してるんじゃなくて、呑めないんだから」


「沙緒里ちゃん何か云ったか?」

眠気で目が半分になってる窪田に訊かれて、沙緒里は首を振ると、ジュースをビールジョッキから流し込んだ。


ようやく時間になり、暑気払いはお開きとなった。

沙緒里と龍二以外のほとんどの人が、

駅に向かって歩いて行く。

車は会社の駐車場に置いて来たらしい。


「やれやれ、帰りますか沙緒里さん」

「はい、お疲れ様でした龍二さん」

「あ、良ければ送りますよ。俺は車だから」

「いえ、私はそこからバスで」

「どうぞ、遠慮なく」

「じゃあ……お願いします」


沙緒里は正直、助かったと思った。

立ちっ放しで焼いてたから、脚がパンパンだった。

龍二の車はデパートの駐車場に停めてあった。

彼は鍵を開けると沙緒里に、

「ちょっと待っててください」そう云った。


沙緒里が頷くと彼は車内に散らかっている物を急いで片付けた。

「これでいいだろう。沙緒里さんお待たせしました。乗っていいですよ」

沙緒里が近づくと、龍二は助手席側のドアを開けた。


軽く会釈をして沙緒里は車に乗った。

龍二は運転席に座ると、

「では行きましょう」

そういい、車は駐車場から出て行った。


「そうだ、沙緒里さんの家はどこですか」

「世田谷なんです」

「そこは沙緒里さんの実家ですか?そこまで送ればいいのかな?」

「あ、はい。お願いします」

「判りました。道のナビ、お願いできますか?」

「はい、たぶん大丈夫だと思います」


けど、ナビゲーションなんて必要なかった。

その夜、二人はホテルに泊まったのだから。

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真夜中過ぎ、目が覚めてしまった沙緒里は窓の外に広がる夜景を眺めていた。

「どうしたの?眠れない?」

ベッドから龍二の声が聴こえた。


「もしかしから私が龍二さんを起こしてしまったの?そうなら、ごめんなさい」

「違うよ、喉が渇いて目が覚めたんだ」

ベッドから降りた龍二は冷蔵庫を開けて、来る時にコンビニで買った氷の入った袋を取り出し、コップに氷を幾つか入れてミネラルウォーターを注いだ。


カラカラと、いい音を響かせて龍二はミネラルウォーターを飲んだ。

「はぁ、うまい。沙緒里さんも飲む?」

沙緒里は頷き、龍二からコップを受け取ると、同じようにカラカラカラの音と一緒に冷たい水で喉を潤した。


「沙緒里さんの実家には両親が住んでるの?」

沙緒里は首を振ると、

「住んでるのは私と母だけ。父はずっと入院してます」


「そう、じゃあお母さんは寂しいだろうな」

「どうだろう。母は父と違って社交的な人で、友達もたくさんいるんです。同じ趣味の人たちと、旅行に行ったりしてますよ」


「へえ、なんか楽しそうだな」

「龍二さんのご両親は仲がいいですか」

それを訊いたとたん、龍二はゲラゲラ笑い出した。

沙緒里は呆気にとられている。


「あ〜腹が痛い。笑い過ぎだ」

龍二は涙を拭きながら沙緒里を見た。

無表情の沙緒里がそこに居た。


「ごめん沙緒里さん、一人で馬鹿笑いして」

「いえ、別に私は、はい」

「やっぱ怒ってるでしょう、当然だよな」

龍二は沙緒里に近づくと、キスをした。それから、当然のように、ガウンの上から胸を掴んだ。


すると沙緒里はサッと身をかわした。

「どうしてさ」

龍二は本当に不思議そうに云った。

黙っている沙緒里を見ている内に彼はイライラし出し始めた。


「あのさぁ、ならなんで俺と泊まったの?

実際、君は俺に抱かれただろう?」

「それは……」

「それは、の続きをぜひ訊きたいね」

「疲れていたから」


「疲れていたから?えっ?」

龍二は意味不明だった。

沙緒里も段々とムカムカして来た。

「そうです、疲れてたから早くベッドで休みたかったんです。汗もかいたからシャワーも浴びたかったし」


龍二は全身の力が抜けていくのを感じていた。

「かしこまりました沙緒里さん」

そう云ってベッドに転がった龍二はまたも笑いが込み上げて来そうになっていた。


「そうだ。さっきの沙緒里さんの質問に答えないとね。俺の両親は仲がいいかだったね。正解は真逆だよ」

「それで、あんなに笑ったの?」

「そう。質問とは天と地ほど違う両親だから。馬鹿らしくなってね」


「私が変なことを訊いたのね」

「俺の両親が変なんだよ。特に母親が」

「龍二さんのお母さんが変?」

龍二は黙ったまま、窓の外に視線を向けた。


「俺がまだ、小学校の時だよ。あの女は信じられないことをしたんだ」

「信じられないこと……」

「そう。死のうとしたんだ、俺の目の前でたくさんの錠剤を酒で飲み込むんだよ、何回も」


「お母さん、病気だったの?」

「違う。あの女が愛したのはオヤジじゃなく別の男だった。それでソイツと心中を計ったんだよ」


「心中って、でもお母さん一人だったんでしょう?」

「同じ時間に別の場所で男の方も大量の薬を飲んだんだってさ」

「えっ、そんなこと……」

「助かったけどね、二人とも。しかし、そういうところは頭がいいんで感心したよ。それと」


ハ〜ッと、一つ息を吐くと、龍二は云った。

「沙緒里さんにも、俺の母親と同じ匂いを感じた」

そして、射るような視線で沙緒里を見た。

沙緒里は不快な気持ちになり、急いで服を着替えるとバックを掴み部屋を出た。


フロントにタクシー会社の電話番号が書かれた印刷物が置いてある。

沙緒里は直ぐに電話をした。

数分後、沙緒里はホテルからどんどん離れていった。


龍二は一人の部屋でつぶやいた。

「あの女が愛していなかったのはオヤジだけじゃない。俺のことも愛しちゃいなかった」


龍二はベッドの中に顔を埋めた。

「ま、そういうこっと」

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墓地で会ってから1ヶ月後、あの岡元さんから沙緒里に電話がかかってきた。

「……もしもし、岡元ですが。あの……本当に、御自宅に伺っても構わないのでしょうか」


そうして岡元龍二の母親が、いま沙緒里の実家に来ている。

沙緒里が紅茶とケーキをテーブルに並べている時、岡元さんは仏壇に線香を立て、手を合わせいる。


それが済むと、岡元さんは沙緒里の方を向いて、お辞儀をした。

「沙緒里さん、どうもありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました。

さぁ、紅茶でも飲みましょう。こちらへどうぞ」

岡元さんは頷くと、テーブルの椅子に座った。


「お土産まで頂いて、ありがとうございます。とっても美味しそうなケーキ」

「見た目ほど値段は高くないの。でも味はいいと評判なんですよ」

沙緒里はうなずいた。


「私はチーズケーキを頂きます。岡元さんは?」

「ではガトーショコラを」

沙緒里がお皿に取り分けた。

二人とも、紅茶をゆっくり飲んでいる。

チーズケーキを食べた沙緒里は、その美味しさに嬉しくなった。


「本当に美味しいです、このチーズケーキ」

「良かったわ。沙緒里さんのお口に合って」

「龍二さんと一緒にケーキを食べることもあったんでしょうね」


岡元さんは、急に強張った顔になった。

「親子ですもの、ありますよね」

沙緒里は微笑み、紅茶のカップに唇をつけた。


「……何故、急に、そんなこと」

「深い意味などありません。ただ訊いてみただけです」

岡元さんは椅子から立ち上がると

「やっぱり来るべきじゃなかった。お邪魔しました」


「待って、岡元さん」

帰ろうとしている岡元さんを、沙緒里は止めた。

「何でです。用なんて無いでしょう?だから帰るの」


「用ならあります」

「……あるですって?」

「岡元さんに訊いてみたいことがあるの」

岡元さんは、怪訝そうな顔になった。

「なんですか、訊いてみたいことって」


「私は何故、龍二さんに強い液体洗剤を浴びせられたのですか?」

「それは龍二が沙緒里さんのことが好きで、引き止めたかったから」

「いいえ、私はそうは思わない」

「それならどう思っているの、沙緒里さんは」


「それが判らないのよ!」

「……」

「さっき貴女は、龍二さんが私のことが好きだからと、そう云いました」

「本当のことでしょう?」


「違います。私のことが好きだなんて龍二さんは思っていなかったはずです。最初から私達はお互いのことを好きではなかったんです」

「それなら何故、付き合ったの?好きだからじゃないの?」


「そもそも私と龍二さんは付き合ってなんかいませんでした」

岡元さんは眉間に皺を寄せて目を閉じながら、振り絞るように云った。

「私には、どうなっているのか、さっぱりわからない」


「そんなこと云わないで岡元さん。私がこんな顔になった理由を教えて、お願い」

「理由を……」

「そうです、私は理由が知りたい。どうして好きでもない男にこんなことされたのか。それから龍二さんはどうして好きでもない女にこんなことをしたのか」


沙緒里は最初から泣きながら話していた。

そんな沙緒里を見ているのは岡元さんにも辛かったはずだった。


少し落ち着いた沙緒里は、最後に岡元さんに訊いた。

「貴女が龍二さんを愛さなかったことと、関係あるとは思いませんか」

岡元さんは、眼を見開いていた。

そしてガタガタ震え始めた。


「沙緒里……さ、ん、アナタいったい」

「違いますか?岡元さん、そう思っているから貴女は家のお墓参りに来てたんじゃないんですか?罪滅ぼしのために」

「違うに決まってるでしょう!アナタ変になってるわ、さよなら!」


岡元さんは外に飛び出して行った。


違うの

それなら誰か

教えてお願い


私がこうなった理由を……。

知りたいの……。

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        了




































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