氷花
このところ、雨の降る音が聴こえない日はない。
雨音は、ぐっすりと眠らせてくれた。
以前はーー。
最近何故だか眠れない。
疲れているのにな。
毎朝カーテンを開けると今にも降り出しそうな重く垂れ込めた雲の空。
自宅を出る頃には、降り始めている。
そんな朝の繰り返しが続く。
最初に外に出るのはいつも私だ。
「待たせて悪い!電車、間に合うかな」
「大丈夫。でも早脚で歩こう」
「よし!」
柊(しゅう)と私は傘をさすと駅に向かって歩き出す。
15分かかる道のりを、10分で着いた。
「やれやれ、まだ電車は着てないな。あ〜!」
「な、何?忘れ物?」
「違うよ、春香の脚、泥ハネが酷いことなってるぞ」
「なんだ。それならいつものことよ」
私はバックからティッシュを出してハネた
泥を拭く。
「歩き方が下手だな」
「これでも注意してるのよ。今朝は誰かの支度が遅くて、早脚になったからよ。分かる?」
「ごめん。あ、春香の方、電車が来たぞ」
「本当だ、じゃあ行くね。柊も行ってらっしゃい」
「おう、また今夜」
2番線ドアが閉まります。
駆け込み乗車はおやめください。
アナウンスが流れ、電車は動き出した。
一番ひどいラッシュアワーは過ぎたあとだから、車内は満員だが少しゆとりがある。
「なんだか最近、冴えないなぁ」
ぼんやりと、そう思いながら私は会社に向かった。
✳️✴️
「高城くん、これも頼むわ」
「はい、分かりました」
また仕事が増えてしまった。いつになったら終わるんだろう。
「春香、何でも引き受けちゃだめよ。既にたくさん抱えてるでしょう?仕事。断らないと」
隣の席の恵子に云われる。
「でも断れなくて。皆んなも大変だろうし」
「なに云ってるの。それじゃあ春香自身はどうなの?これ以上の仕事は無理なはずよ。次からは断ること。分かった」
「……」
「いい子ちゃんしても、誰も感謝なんかしないのよ」
「別にいい子ちゃんなんて」
「春香に自覚が無いだけ。利用されないように。心配してるんだから」
「うん。ありがとう」
✳️✴️
「ただいま〜。腹減った」
「ごめん柊、私もいま帰ったところなんだ」
「えっじゃあ夕飯は」
「まだ作ってない」
「そんなぁ。春香の手料理を楽しみに仕事を頑張って来たのに」
なんだろう ザワザワする
「仕方ない。宅配頼むしかないな」
なんでだろ すごく寒い
「なに黙ってるの?春香の食べたいのは決まった?俺ホントに腹ペコだからさ、ボリュームのある肉料理がいいんだけど」
「私は何も要らない。柊のだけ注文してくれる」
「要らないって、だって」
「食欲がないの。先にシャワーを浴びるね」
「分かった……」
「それから柊に伝えたいことがあるの」
「何?伝えたいことって」
「わ、私も残業でクタクタな時もあるの。それを分かって欲しい」
「分かってるよ、それくらい」
それなら“思いやり”は
柊の中にありますか。
シャワーを浴びた。
涙もたくさん流れた。
私は自分が、柊に本当の気持ちを云えずに過ごし、我慢してたことに、ようやく気付いた。
違う
気付かないふりをして来た。
嫌われることが怖くて
喧嘩になるのが嫌で
一人になることに怯えて
向き合って話したことが無かった
この日を境に、私は自分を押し殺してばかりの生き方を止めようと
例え嫌われても、本当の気持ちを話そうと決めた
もう限界だったから
自分を押し殺していることが
私が我慢すればいいんだ
そんな《我慢ぐせ》のために
自分自身が潰されていく
ーーーーーー半年後ーーーーーー
私は柊と、別れることになった。
同棲を始めて8年経っていたのに……。
「結婚するとばかり、思ってたんだけどな」
柊はそう云って背を向けると、ゆっくり歩いて行った。
私も同じだよ、柊。
貴方と一緒になるって信じてた。
そして、柊の大好きなところ、私はたくさん持ってるよ。
私が変わらなければ良かった?
自分でも、こんなに苦しくなるなんて
想像していなかった。
初めてだ。
こんなに胸が痛いのは……。
✴️✳️
「春香、おはよう!」
「おはよう」
「最近いいよ、うん」
恵子が満足そうに頷く。
「私が仕事を断れるようになったから?」
「そう。ずっとハラハラ見てたんだから」
「お陰で周りの評判は地に着いたけどね」
「わたしもだから同じだよ。いいじゃない別に。先ずは自分なんだから」
「そう思うことに慣れていかなきゃね」
恵子は真面目な顔で頷いた。
私はきっと、眠れるようになるだろう。
今は苦しくても。
きっと。
了
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