さだ子さん 7話 55 紗希 2020年5月24日 06:52 一夜明けて、僕は出雲空港に向かうバスの中にいた。窓の外は低く雲が垂れ込めて、街は鉛色をしている。太陽の光を完全に絶たれた景色を見ていると、僕は大声で喚き散らし、脚で床をバンバン叩きたい衝動にかられた。ちきしょう! ちきしょう!怒りと悔しさ、ありとあらゆる荒ぶれた感情が湧き上がってくる。この行き場のない気持ちを、いったいどこにぶつければいいのか。息苦しさがピークに達した時バスは空港に着いた。昨日、図書館で飛行機のチケットは手配していたので、スムーズに搭乗できた。しかし当然のことながら、気分は重かった。さだ子さんはまだアパートに帰って居ない。気にはなるが、今は『たちばな惣菜店』のことで頭がいっぱいだった。横浜は、いつか訪れたい憧れの街だった。まさか、こんな形で行くことになるなんて……。頭が痛くなってきていた。少し目を瞑っていよう。羽田には昼前に着いた。全く土地勘がないが、目的地までの行き方は昨夜の内に調べて置いたので大丈夫だろう。それにしても人の多いことには驚かされる。駅の地下道は人波が凄く、真っ直ぐ歩くことが出来ない。冬場の日暮れは早い、急ごう。僕は電車を乗り継ぎ、『たちばな惣菜店』が有った場所に向かった。それは商店街の中にあったのだが、今は当然だけど、無くなっていた。30年経も経つ。当時とはだいぶ、様変わりしただろう。僕は歩きながら、古くから営業してそうな店を探した。すると一軒の店が目に入ってきた。『中村豆腐店』か。「よし!」僕は自分を鼓舞し、店先に行った。「いらっしゃい」70くらいの男性が、こちらを見た。たぶん店主だろう。「なんにしましょう」そう云われて僕は一瞬、言葉に詰まった。だが、ここまで来たんだと自分を奮い立たせた。「すいません、客じゃないんです。昔のことを訪ねに来ました」すると店主は訝しげな表情になった。「怪しい者ではありません」「怪しくないって云われてもな。最近じゃ詐欺まがいの奴もいるからな」「違います、違います。かなり年数が経つことなんですが、覚えていたら教えて頂きたいことがありまして」「教えて欲しいこと?なんだ、いったい」ガラス戸が開いて、奥さんらしき人が、心配そうに出て来た。僕は緊張しながら、訊いた。「たちばな惣菜店のことをご存知ですか」夫婦は顔を見合わせた。「忘れようにも忘れられないよ」店主が吐き捨てるように云った。「ご存知なんですね!」「あの店のオヤジと俺は、いい付き合いをしてたんだ。お互いの家で酒を飲んだりな。それがあんなことに」悔しそうに、そう話した。「あの店には女の子がいたと思うんですが」夫婦はかなり驚いた様子だ。「さだちゃん、さだ子ちゃんという可愛い子がいました。焼き鳥の美味しいお店でね、家もよく買ってたの。さだちゃんは、よくお店の手伝いをしてました。『おばちゃん、これわたしが、串を刺したんだよ』ってね」すると奥に向かって、「裕之、裕之ちょっと来て」と奥さんが声を掛けた。中からメガネをかけた背の高い男性が出て来た。「さだちゃんのこと、覚えてるでしょう?」「さだちゃん?あぁ、あの惣菜屋の子か」「そう、あなた確か小学校で同じクラスだったわよね」「そうだけど」裕之と呼ばれている男性は、僕のことをジロッと見ながら、「あんた誰?」眉間にしわを寄せて男性は云った。「僕は今さだ子さんと同じアパートに住んでいる林健太といいます」「同じアパート!じゃあさだちゃんは元気なのね」そう云って奥さんは、しゃがみ込んだ。「わたし、ずっと心配してました。さだちゃんのこと」奥さんは泣いていた。「確かになぁ、可哀想だったよ。皆んなから仲間外れにされて。人殺しの子って云われてさ」「そうでしたか」「休み時間も誰も一緒に遊ばないから、一人で遊んでたな。クルクル〜クルクル〜って云いながら、回ってね」我慢出来ずに僕は涙が流れた。 林健太さ〜ん クルクル〜クルクル〜僕は豆腐屋さんに教えてもらった、『たちばな惣菜店』があった場所へ行った。今は駐車場になっているらしい。「ここか」そこには【月極駐車場】の看板が建っていた。「ここに、さだ子さんも手伝っていた惣菜店があったんだ」僕は静かに手を合わせた。また涙が出そうになった。その日は横浜のビジネスホテルに泊まることにした。近くにある、有名な観光地の山下公園に行ってみた。日本海しか知らない僕には新鮮に感じた。あの氷川丸も碇泊していたし、遊覧船も出ていた。テレビや雑誌で見た通りに、洗練された公園だと思った。たくさんの花々が咲くんだろな。さだ子さんもここから海を見たのだろうか。憧れの横浜に僕はいま佇んでいるのに、豆腐屋の奥さんの言葉が忘れられずにいた。『親戚も、さだちゃんを引き取るのを嫌がってね、それで養護施設に入ったの』今夜も眠れないだろう。いつもの不眠症と違って、陰鬱で孤独な長い夜になるのは、分かりきっていた。「さだ子さん、大広間に、これを運んで」「分かりました」さだ子さんは、瓶ビールをたくさん乗せたワゴンを押して、長い廊下を急いでいた。「硫黄の匂いがする。仕事を終えたら、今夜も温泉に入れる。頑張ろ〜」心の中で、呟いていた。 つづく ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 55