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chi_bit_
底なし沼の底
昼間だろうが、夜中だろうが、お構い無しだ。
その音は好き勝手で自由奔放。
私に聴かせたいと思えば、それがどれほど滑稽な行為かなどと、微塵も考えずに振る舞う。
ズブズブ
ズブズブズブ
ズブズブズブ
「まただ〜。……ったく」
枕元のスマホを手に取ると、時刻は午前2時を廻ったところだ。
「いい加減にしてよ!こっちは今日もバイトで忙しいんだから、ゆっくり寝かせて!」
一ノ瀬花凛は、冷蔵庫から発泡酒を取り出し、プルトップを開けると、喉に流し込んだ。
「お酒、強くなったな。以前は下戸だったのに」
花凛は、不眠症であり、睡眠導入剤を飲まないと、朝まで眠気が来ない。
そして今夜みたいに中途覚醒してしまうと、もう眠れなくなる。
「やっぱり止めとくべきだった」
だけど浴室とトイレが別々の、ワンルームを探すと、家賃が高くて花凛には払えない物件ばかりだったのだ。
「8万出してくれたら、結構な数のワンルームを紹介出来るんだがなぁ」
不動産屋のおじさんは、困った顔をしてそう云うと、上目遣いで花凛の顔を見た。
そんなこと云われても、出したくても出せないのだ。
花凛の収入じゃ。
「5万じゃなぁ。風呂とトイレが一緒じゃだめなの?」
「ええ。そこは譲れないです。落ち着かないんですよ。一緒だと」
「煙草吸ってもいいかい」
「どうぞ」
一本、取り出し、おじさんは嬉しそうに加えて火をつけた。
そしてさっきから何度も見ている、物件情報が書かれたノートに目をやる。
花凛も、身を乗り出して覗き込む。
今時珍しく、手書きだ。
「う〜ん」
おじさんの煙草から、灰が落ちた。
それを払うおじさんの手を見ていた時だ。
「あっ!これ」
思わず花凛は声を上げた。
「このアパート、家賃が3万5千円ですよ。しかも共益費込み」
「どれどれ、そんなアパート有ったかなぁ。え〜と、アッ」
「もう誰かが住んでるとか」
「いや住んでる人は居ない。居るはずが無い」
「まだ空室なら、部屋を見せてもらえませんか」
何故かおじさんは、黙っている。
やっと口を開いたと思ったら、
こう云ったのだ。
「一ノ瀬さんは、幽霊を見たりする?」
はい?
なんなのそれ。
「霊感が強い人がいたりするだろう?」
嘘はーーつきたくない。
「見たことあります」
おじさんは、複雑な顔をした。
「あるんだな。怖かったろう?」
「それがあんまり。もう慣れましたし」
「そんなに何回も見たのか」
私は頷いた。
「始めて幽霊を見たのは、小学校の入学式の時でした。幼い男の子が壇上で話してる校長先生の服を引っ張っては、はしゃいでるんです。
それから」
「もういい。ワタシは苦手なんだよ。この手の話しは」
私は話すのをやめて、出されたお茶を啜った。
おじさんは、何か考え込んでるようだ。
「社長、お先に失礼します」
事務の女性が声をかけた。
「あゝ、もうそんな時間か。お疲れさん。気をつけてお帰り」
女性は、私に軽く会釈をすると、席を離れた。
カチッ
型の古い機械にタイムカードを入れると、帰って行った。
おじさんは、煙草を灰皿に押し当てて消すと、
「一ノ瀬さん。ハッキリ云うが、このアパートは止めた方がいい。
入居はしたものの直ぐに退去した人が何人いたことか」
だが不動産屋のおじさんが、止めるのを振り切り、花凛はここを借りた。
霊感が人よりは働くとはいえ、最近は幽霊そのものは、見なくなっていたし。
変わって音だけは、頻繁に聴くようになった。
怖いとは思わないが、鬱陶しい。
最初に、この部屋を見に来た時、
花凛には、窓の外に沼地が広がっていること以外は、文句の付けようが無かった。
理想的だったのだ。
良くて6畳。もしかすると4畳半かもしれないと、覚悟はしてた。
3万5千円だものね。
しかし違った。
良い意味で、想像を裏切っていた。
壁は真っ白で、部屋が明るく感じるし、とにかく広かった。
8畳はある。
以前は畳だったそうだが、今はフローリングで、その色も花凛の好きな濃いブラウンだ。
別々の浴室とトイレ。
ここも広々としていた。
天井が高いので圧迫感を感じない。
エアコン付きなのも助かる。
私は借りたい旨を、不動産屋のおじさんに伝えた。
おじさんは伏目がちになり、小さく首を振った。
やれやれという言葉が、訊こえて来そうだ。
あの時に感じた、沼が漂わせていた陰気さ。
花凛は自分の勘より、家賃の安さと、間取りを優先した。
空になった発泡酒の缶を、花凛はビン缶用の、ゴミ箱に入れる。
それから、窓を開けた。
広い沼なので、辺りに民家が無く、
夜の暗さというより、【闇】と呼ぶに相応しい。
墨色とは、このことだろうか。
暫くの間、花凛は闇を見つめていた。
「小林雅人君。まだ私に付きまとうつもり?さっきの音も、あなただよね」
静まり返った闇に向かって、花凛は話しかけた。
何の反応も無い。
そんなことは、お構い無しに花凛は続ける。
「小林君に、自分と付き合って欲しい。そう云われた時、私はお断りしました」
静寂と、深い闇が広がっているだけ。
その世界に、花凛の声が響き渡る。
「私には叶えたい目標があるの。
かなり難しい資格を取らなきゃならない。だから恋愛をする暇はなかったし今もそう。それは小林君に限らず誰とも」
チカッ
何かが光った。
その光が花凛に近づいて来た。
「蛍?でも綺麗な水のところにしか、生息しないんじゃなかったっけ。まぁいい」
「私に断られたことで、小林君は生きることを放棄したの?それが原因なの?教えて欲しい」
チカッ
チカッ
「ごめん、なさい……」
「よく聞き取れないよ。もう少し大きな声で話して」
「僕はまだ、生きてる」
「知ってるわ。でも意識が戻らない状態が、かなり続いてる。ご両親の気持ち、考えたことある?」
「両親には申し訳ないと思ってる。だけど僕はもう、だめだ……」
「だめって何がよ。私が断ったからなの?そうなの?」
「違う。そうじゃない。会社に行きたくない。毎日上司に罵倒されるんだ。苦しくて夜も眠れない。朝が来るのも怖いんだ」
チカッ
チカッ チカッ
「仕事に出かける支度も済んでるのに、靴も履いたのに……外に出ることが、出来なくて。大の大人の男が声を上げて泣くんだよ。みっともないヤツなんだ、僕は」
「みっともなくないよ。医師に診てもらった?」
「そんなこと出来ない。必ず会社に知られてしまう。そうなったら僕はクビにされる」
「今の世の中で、そんな会社がまだあるんだ。大事な社員が病気になってるのに」
チカッ
「小林君、さっきから蛍が飛んでいるんだけど、なんでだか判る?」
「僕みたいな人が、この沼には何人もいる。一ノ瀬さんが僕と会話出来るのを知って、羨ましいから蛍になって一ノ瀬さんの傍を飛んでるんだ」
花凛はため息をついた。
「蛍の皆さん。私は小林雅人君と話したいの。訊いて欲しいことがあるかもしれませんが、出来ませんので」
それでも、蛍たちは光ながら浮遊し続けた。
花凛は、放っておくことに決めた。
「一ノ瀬さんには、本当に迷惑をかけてしまったと思ってる。好きな気持ちは本当なんだ。中学の時からずっと。けど、伝えるべきじゃなかった」
気付くと、風が強くなっていた。
沼を囲むように生い茂る葦の群れが、大きく揺れている。
「小林君。最後に訊くけど、後悔はないの?本当に目覚める気持ちは」
小林君は黙っていた。
ザワザワと、葦が揺れる音が闇から訊こえ、数の減った蛍が時折、光っていた。
「目覚めると云っても、僕は、底無し沼に入ってしまった。抜けることは無理だ。ただ沈んでいくだけだよ」
「一ノ瀬さんにつきまとったこと、申し訳ありませんでした」
「……小林君は、そこから抜けられるよ」
「だって底無し沼だよ?いまさら無理だ」
「小林君の考え一つで、この沼は、
ただの沼になる。
底無し沼ではなく」
「そんなバカな」
「小林君がもう一度、生きることを選んだらいいだけ。そうすれば、沼に【底】が有るのに気付ける」
「この沼に、底がある……」
「有る。嘘なんか云わないわ。それに、本当に底無し沼に沈むのは、小林君じゃない。貴方の上司の方」
「!!」
「自分の好き勝手にマウントをとり、パワハラ、モラハラという虐めを繰り返した、貴方の上司こそ、
沈むのが正しいと私は思うけどな」
「あ、もちろん犯罪を犯しては駄目よ。そんな奴の為に小林君が犯罪者になる必要も、価値もないでしょう」
雨が降って来た。
嵐が来るのだろうか。
「一ノ瀬さん、僕が生きることを選択したら、本当にここから抜けられるの」
花凛は大きく頷いた。
「僕は戻る。もう一度この世界に」
「良かった」
花凛は微笑んだ。
「雨が入ってくるから、窓を閉めないと。小林君、会える日を楽しみにしてるからね」
「一ノ瀬さん、ありがとう。僕も楽しみにしてるよ。先ずは両親を安心させてあげないとね。“生きることを選択する” 」
「うん。それでOK。眠れるか判らないけど、ベットに入るね。おやすみ」
「おやすみなさい。一ノ瀬さん、うわぁ!脚の下で何が動いてる。なんだこれ」
「小林君の選んだ通り、地面が出来たのよ。じゃあまた」
花凛は窓を閉めた。
時刻はもうすぐ4時になる。
「たぶん、眠れないけど横になろう」
そして花凛は部屋の電気を消した。
やっぱり借りて正解だったな。
3万5千円だよ〜
その日のお昼過ぎに、小林君の意識が戻ったと、連絡があった。
了
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