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才能



スタンディングオーベーション

鳴り止まない拍手。

ブラボー!ブラボー!ブラボー!
狂気すら覚える歓声の渦。

アンコールは3回目を終えた。

それでも観客は、誰一人席を立たとうとはしない。


歓喜の余り、泣き叫ぶ母。


花束を受け取り、ピアニストは深々とお辞儀をする。
何度も何度もーー。


とある国のコンサートホール。

夢のコンサートホールの夜……。


柚月ゆずきキャッチボールしようぜ」


「やるー!」

私は兄の純と、キャッチボールをするのが大好きだった。

2歳上の兄は小学3年生、私は入学したばかりの1年生。

兄の投げるボールを、大きくて重いグローブで、キャッチ出来ることは、滅多にない。

兄は私の為に、かなり緩いボールを投げているのに。

それでもグローブに、かすりもしない。

私は負けん気が強く、泣きべそをかきながらボールを追った。


上手く出来なくても、兄とキャッチボールをすることは、楽しくて仕方ない。

「今日はここまで」

兄の言葉に落胆する私。

兄は私からグローブを受け取ると、「また明日やろう、な?」

いつもそう言って頭を撫でてくれる。

仕方なく私は諦めるのだった。

「柚月、僕は大きくなったら、プロ野球選手になるんだ」


「プロ野球選手?」

「うん。絶対になってみせるよ。柚月も応援してな」

「うん。お兄ちゃんの応援する」

私がそう言うと、兄は嬉しそうに笑った。


ある日の夕飯時ゆうはんどき父が兄に訊いた。

「純は習い事をしたいとは思わないのか」

「習い事?」

「そうだ。やってみたいこととか」


兄は直ぐに答えた。

「少年野球チームに入りたい」

そう云ってお味噌汁を啜った。

「ほう。野球がやりたいのか。そういえば柚月と遊んでくれてるものな」

兄は、お椀を口から離すと
「柚月とキャッチホールをするのは、楽しいからだよ」
そう言ってくれた。



「習い事ならピアノがいいわ」
いきなり母がそう言い出した。
「ピアノ?何でピアノなんだ」父も首を捻っている。

「野球なんて何の役にも立たないけど、ピアノなら音感も養えるし、絶対に成績も良くなる。
何よりハイソでしょう。
クラッシック以上の音楽なんて無いんだから」


父は呆れた顔で母を見てるし、兄は野球を馬鹿にされて、当然ながら怒っている。


「なによ、その顔。ね、一度ピアノの体験レッスンを受けてみない。お母さんの知り合いにピアノの先生をしている人がいるの」


「嫌だ」

「本人も、こう言ってるんだ。野球チームに入れてやろう、恵子」

「一度体験するのも、悪くないわよ。純、いいわね」


母は自分勝手なところがある。
そして言い出したら、引かない。


父も兄も、そのことを分かっていた。

そして兄は体験レッスンに
行くことになったのだ。


その日、母は大興奮だった。
ピアノの先生に、兄には才能がある。伸ばせばピアニストになれる可能性がある。

そう言われたそうだ。


「ほら、だから言ったじゃない。体験してみないと分からないって。あなた、純に本格的にピアノを習わせましょう。そして音大に進学させるの。構わないわよね」


父は最初、母の勢いに圧倒されていたが、
「恵子、先ずは落ち着こう」

「これが落ち着いていられますか。ピアニストよ、あなた」


私は兄の様子を見た。

まるで関心がないといった顔で、テレビを観ている。

そうだろうなぁと思った。
小さい私でも、兄がピアノを習うなんて、思えなかったもの。


「純はピアノをやりたいか」
父が問う。

「僕は野球以外したくない」

母の目が見る見る釣り上がる。

怖い。


「野球なんてさせません。純はピアノの道を進むのよ。
指を怪我でもしたらどうするの」


「お母さん、しつこいよ」

「俺も純と同意見だ。恵子、
お前なにか変だぞ」


母は鬼のような顔で、寝室に行ってしまった。

やれやれと、いった風に溜め息をつく父。
「本当にあいつは、どこかおかしい。お前達、何か知らないか」


う〜ん

何かあったっけ。


「お母さんと中学の時に、仲が良かった人の子供が、有名中学に受かったんだって言ってた。
悔しそうだったよ」

兄はアイスを食べながら、父に話した。

私もアイスを食べながら、訊いていた。


「う〜ん。動機としては弱いな」
結局、父にも思い当たらないようだった。



翌日、私は学校から帰ると、
兄が戻るのを待っていた。

苺のヨーグルトを食べ終えた時、ちょうど兄が玄関から入って来た。


「柚月、納屋に置いてある野球のボールやグローブ、それとバットを知らないか」

その顔は、青ざめている。

私が「知らない」と答えたら、兄は急いで、ゴミの収集場所に行くと言って、家を出て行った。


私は不安な気持ちで、いっぱいになっていた。


帰って来た兄の手には、ゴミ袋が。

そのまま兄は床に座り込んだ。


「お兄ちゃん、大丈夫?」

「ああ大丈夫だよ。心配させて、ごめんな柚月」


私は泣きべそをかきながら、 
兄の持ってきたゴミ袋を開けた。


全部、揃っていた。
グローブも。
野球の球も。
バットも。

みんなゴミ袋に入っていた。


私はとうとう泣き出してしまった。


その時、母が仕事から帰宅。

床に置いてある物たちを目にすると、眉間に皺をよせ、
何も言わず、隣りの部屋に消えた。


その夜、父は帰るなり母を呼んだ。

「恵子、話しがある。座ってくれ」

「お風呂に入るから」

「直ぐに済む。座りなさい」


珍しく父の目は鋭かった。

めんどくさそうに座った母に、父は週刊誌を開いて見せた。


「恵子。お前の様子が、おかしくなったのは、これが原因だろう。違うか」


目の前に記事を、突きつけられ、母は身動きが取れなくなっていた。


母のクラスメイトに、売れっ子のモデルになった女性がいる。

その彼女が今度、結婚した。

相手は大人気のシンガーソングライターで、母が大ファンの男性だったのだ。


「何で彼女ばかり、いい思いをするのよ。不公平だわ!」


父が母に手を挙げそうになるのを、兄が止めた。


「お前は、自分の嫉妬心の為に息子を利用しようとしたんだぞ!」


「だって純には才能があるって言ってたし。だったら」

「俺は素人だ。一回ピアノに触っただけで、何も弾けない子供に、ピアニストになれるほどの才能が有るのかが、分かること自体、理解するのは無理だ。それより熱中出来る物を持てた純が、親として嬉しいよ」


母はうつむいてしまった。

他人と比べていては、いつまでたっても自分の持つ幸せに
気付けないよ。恵子。


父は静かに母に、そう伝えた。


そして私と兄は、またキャッチボールが出来るようになった。


お母さんは、捨てたことを
謝ってくれた。

兄は来週から少年野球チームに入る。今までみたいに兄とキャッチボールをするのが難しくなるのは寂しい。だけどプロ野球の選手になりたいという、お兄ちゃんの夢を、私は応援するんだ。


柚月は応援団長なんだから。



      了
























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