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  日暮らし


いたっ!

痛った〜い。


ひょっとして歯が割れた?
嫌だそんなの。


うた、歯がどうかしたの?さっきも氷をガリガリ噛んでたでしょう」

お母さんって、どうして分かるんだろ。


「ちょっと見せて。口を開けて。はい、あ〜ん」 

私は小さい子じゃないんだから、もっと違う云い方をして欲しいな。


「ぶつぶつ云わないで早く」

私は渋々、口を開けた。


「ほら〜。歯に詰めてたものが取れちゃってる。だから氷を噛む癖を直しなさいって、お母さん、いつも云ってるでしょう?」


癖なんだから、簡単には直らないんだもの。


「家に帰ったら、歯医者に行きなさいね。それまで我慢するしかないわ」


お母さんは、サッサと行ってしまった。


「ズキズキする。お婆ちゃんちに、痛み止めの薬はあるのかなぁ」


うたちゃん、叔父さん達は、先に帰るよ。またな」

「詩ちゃんが美人さんになってて、叔母さん驚いちゃった。
もう中学生なのねぇ。先が楽しみだわ。たまには叔母さんの家にも遊びに来て。元気でね」


これで、この家には私と両親だけになった。
うちも明日には帰るらしい。


この夏、祖母が亡くなった。
お父さんの方のお母さんだ。

89歳で元気に1人で暮らしていたのに。
転んで脚を痛めてから、すっかり塞ぎ込んでしまったらしい。


近所の人たちが、入れ替わり様子を見に来てくれていた。

お婆ちゃんの、ご飯も持って。


けれど食欲も落ちて、あまり
食べなかったみたいだ。


お婆ちゃんの名前はむぎと云う。
私は麦お婆ちゃんが、大好きだった。

小さい頃から、たくさん可愛がってもらった。何より明るいお婆ちゃんが本当に好きで、毎年お盆に来るのが待ち遠しくて。


お爺ちゃんが先に逝ってからも、陽気なお婆ちゃんのままで、私は嬉しかった。


お盆にお婆ちゃんは亡くなった。


私はもう、この家に来ることも無いんだろうな……。


「詩、救急箱があったわよ。痛み止めも入ってた。これを
2錠飲めば、何とかしのげると思うわよ」


私は、お母さんから貰った薬を、飲みかけの氷水で飲み込んだ。


ズキッとする。


「ばかねぇ。そんなに冷たい水で飲んだら、沁みるに決まってるでしょう」


ふ〜んだ。
どうせバカですよ。


私は縁側に座った。
目の前に広がる水田がきれいだ。

ちょうど夕焼けが映る、この時間が私もお婆ちゃんも、1番好きで、並んで座り、夕涼みしたっけ。

「わたしは日暮らしの鳴く声が好きなのよ」

麦お婆ちゃんは、よくそう云っていた。

私の目は、自然と小さな仏壇に向いた。


お婆ちゃんの娘。
お父さんの妹。


けれどこの世に生きて産まれることは、なかったのだ。


女の子だったら、佳那かなという名前にすると、お爺ちゃんと決めていたそうだ。


カナカナカナカナ


「日暮らしは、たくさん佳那の名前を呼んでくれるでしょう。嬉しくてね」


水田に映っているのは、夕焼けだけではなかった。
お婆ちゃんにとっては、自分の娘もそこにあった。


生きていれば、私の叔母になってた佳那さん。


もう、この縁側で、並んで日暮らしの鳴く声を聴くこともないんだ。


お婆ちゃんは、いなくなった。

会えないところへ、行ってしまったから。


   カナカナカナカナ


娘さんに会えた?
お婆ちゃん。


「どうした詩。泣いてるのか」

お父さんが声をかけてきた。


そして私の隣に座った。

「詩は、お袋と仲が良かったからな」

ポツリと呟く。


「この家は、残すことにしたよ」

「え、どうして?」


「空き家になるが、俺や姉貴、弟が交代で、たまに泊まりに来れるようにってね。ご近所の方々も様子を見に来てくれるそうだ」


良かった。


「あ、トンボ」

「もう、そんな季節になるんだな」


夕焼け色の水田を、トンボが、かすめ飛ぶ。


「それから詩。親父とお袋、妹の佳那の位牌と仏壇は、家に連れて帰るからな」


「ずっと一緒だね」


「そうだな」



「そろそろ夕飯にしようと思うんだけど」


「そういえば腹が空いたな」


「今夜は、お婆ちゃんが好きだった冷や汁で、いいかしら」


「私も冷や汁、好き」

「俺も好物だ」


お父さんは、縁側から立ち上がり、お母さんのところへ、ゆっくり歩いて行った。


薬が効いてる。
歯が痛くない。


「詩、手伝って」

「は〜い」


私も縁側を後にした。


        カナカナカナカナ


      了




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