日暮らし 29 紗希 2024年9月11日 13:12 いたっ!痛った〜い。ひょっとして歯が割れた?嫌だそんなの。「詩うた、歯がどうかしたの?さっきも氷をガリガリ噛んでたでしょう」お母さんって、どうして分かるんだろ。「ちょっと見せて。口を開けて。はい、あ〜ん」 私は小さい子じゃないんだから、もっと違う云い方をして欲しいな。「ぶつぶつ云わないで早く」私は渋々、口を開けた。「ほら〜。歯に詰めてたものが取れちゃってる。だから氷を噛む癖を直しなさいって、お母さん、いつも云ってるでしょう?」癖なんだから、簡単には直らないんだもの。「家に帰ったら、歯医者に行きなさいね。それまで我慢するしかないわ」お母さんは、サッサと行ってしまった。「ズキズキする。お婆ちゃんちに、痛み止めの薬はあるのかなぁ」「詩うたちゃん、叔父さん達は、先に帰るよ。またな」「詩ちゃんが美人さんになってて、叔母さん驚いちゃった。もう中学生なのねぇ。先が楽しみだわ。たまには叔母さんの家にも遊びに来て。元気でね」これで、この家には私と両親だけになった。うちも明日には帰るらしい。この夏、祖母が亡くなった。お父さんの方のお母さんだ。89歳で元気に1人で暮らしていたのに。転んで脚を痛めてから、すっかり塞ぎ込んでしまったらしい。近所の人たちが、入れ替わり様子を見に来てくれていた。お婆ちゃんの、ご飯も持って。けれど食欲も落ちて、あまり食べなかったみたいだ。お婆ちゃんの名前は麦むぎと云う。私は麦お婆ちゃんが、大好きだった。小さい頃から、たくさん可愛がってもらった。何より明るいお婆ちゃんが本当に好きで、毎年お盆に来るのが待ち遠しくて。お爺ちゃんが先に逝ってからも、陽気なお婆ちゃんのままで、私は嬉しかった。お盆にお婆ちゃんは亡くなった。私はもう、この家に来ることも無いんだろうな……。「詩、救急箱があったわよ。痛み止めも入ってた。これを2錠飲めば、何とか凌しのげると思うわよ」私は、お母さんから貰った薬を、飲みかけの氷水で飲み込んだ。ズキッとする。「ばかねぇ。そんなに冷たい水で飲んだら、沁みるに決まってるでしょう」ふ〜んだ。どうせバカですよ。私は縁側に座った。目の前に広がる水田がきれいだ。ちょうど夕焼けが映る、この時間が私もお婆ちゃんも、1番好きで、並んで座り、夕涼みしたっけ。「わたしは日暮らしの鳴く声が好きなのよ」麦お婆ちゃんは、よくそう云っていた。私の目は、自然と小さな仏壇に向いた。お婆ちゃんの娘。お父さんの妹。けれどこの世に生きて産まれることは、なかったのだ。女の子だったら、佳那かなという名前にすると、お爺ちゃんと決めていたそうだ。カナカナカナカナ「日暮らしは、たくさん佳那の名前を呼んでくれるでしょう。嬉しくてね」水田に映っているのは、夕焼けだけではなかった。お婆ちゃんにとっては、自分の娘もそこにあった。生きていれば、私の叔母になってた佳那さん。もう、この縁側で、並んで日暮らしの鳴く声を聴くこともないんだ。お婆ちゃんは、いなくなった。会えないところへ、行ってしまったから。 カナカナカナカナ娘さんに会えた?お婆ちゃん。「どうした詩。泣いてるのか」お父さんが声をかけてきた。そして私の隣に座った。「詩は、お袋と仲が良かったからな」ポツリと呟く。「この家は、残すことにしたよ」「え、どうして?」「空き家になるが、俺や姉貴、弟が交代で、たまに泊まりに来れるようにってね。ご近所の方々も様子を見に来てくれるそうだ」良かった。「あ、トンボ」「もう、そんな季節になるんだな」夕焼け色の水田を、トンボが、かすめ飛ぶ。「それから詩。親父とお袋、妹の佳那の位牌と仏壇は、家に連れて帰るからな」「ずっと一緒だね」「そうだな」「そろそろ夕飯にしようと思うんだけど」「そういえば腹が空いたな」「今夜は、お婆ちゃんが好きだった冷や汁で、いいかしら」「私も冷や汁、好き」「俺も好物だ」お父さんは、縁側から立ち上がり、お母さんのところへ、ゆっくり歩いて行った。薬が効いてる。歯が痛くない。「詩、手伝って」「は〜い」私も縁側を後にした。 カナカナカナカナ 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #ありがとうございました #日暮らし 29