夕 凪
父は優しい面と冷淡な面の両方を持つ人だ。
厳しいとかではなく、[冷淡]。
私はずっと父のことをそう見ていた。
「どうしてあんなに冷たい言葉を、相手の人に云えるのだろう。しかも表情一つ変えずに」
我が家は、祖父の代で成功を収め、いわゆる“資産家”と呼ばれていた。
父の元には、切羽詰まった人たちが、資金を借りに来ることも、少なからずあった。
その度、父はお金を用立てていた。
しかし期限が来ても返済出来ない人には、相手が泣いて頼もうが容赦はしなかった。
父から借りて、夜逃げをした人は一人や二人ではなかった。
世間は父のことを、『牧野は血も涙もない』 そう呼んでいるのを私も知っていたし、娘の私ですら、否定をする気はなかった。
けれど、お金が絡まないことでは、父は優しい面をたくさん持つ、笑顔の暖かい人なのだ。
私にも優しいけれど、花や動物が大好きで私を連れて動物園や、植物園にも暇があると出かけた。
帰りには、高そうなお店で外食をして、「睦美、どうだ。上手いか?」と必ず訊いて来る。
「うん、美味しい」
そう答えると父は顔をくしゃくしゃにして何度もうなずいた。
どっちが本当の父だろう。
どっちも本当なのだろう。
私には母がいない。
まだ幼稚園に通っている時に、父と母は離婚した。
何故、父が私を引き取ったのか。
耳に入って来たことは、これも金銭がらみだったということだ。
母の両親が父に借金をしてしまい、約束した日に返済が出来なかった。
母も泣いて懇願したが、父は譲らなかったのだ。
母は私を置いて家を追い出される型となってしまった。
それ以来、私は一度も母と会っていない。
父が会わせなくしてしまった。
このことを知った時、私は父を責めた。
父は一言も話さないまま自分の部屋へと入ってしまった。
私は中学生になっていた。
このことが父と私の間に壁を造ることとなった。
おまけに反抗期、真っ只中の私。
父と顔を合わせることすら嫌で、同じ家にいても、顔を見ない日が何日も続くようになるまで時間はかからなかった。
父は祖父の立ち上げた会社の社長をしている。
「何が社長よ。ただの守銭奴じゃない!そんな人の子供だなんて自分が嫌いになりそうよ」
野良猫になりたい。
生きていくのは厳しいだろう。
寿命も短いと訊いた。
それでも私は野良猫になりたい。
例え雨の日にずぶ濡れになっても。
餌にありつけず、一日中鳴きながら彷徨うことになっても。
この家にいるより、よほどいい。
私は父と一緒に写ってる、写真を次々と破いていった。
水族館に行った時
動物園に行った時
一緒に外食をした時
泣きながらビリビリに破り捨てた。
母は今、どこでどんな生活を送っているのだろう。
会いたい……。
「睦美ちゃん、お帰り」
私は受験生になっていた。
ある時、学校帰りに声をかけられた。
加山さんというおじさんで、父と同郷の人だ。
父の飲み友達で、以前は家の方にも、たまに飲みに来ていた。
私は立ち止まり、小さくお辞儀を返した。
「睦美ちゃんも受験生か。早いものだな、月日が経つのは」
「……」
「お父さんと上手くいってないんだって?」
私は下を向いて、何も云わなかった。
「先日、居酒屋でお父さんに偶然会ってね。『娘に嫌われてしまったよ』
そう云ってたからさ」
「そんなの私には関係ありません」
「お父さんが、借金に厳しいのは、オヤジさん、睦美ちゃんのお爺さんが信頼していた人に会社を乗っ取られたからなんだ」
「え……」
「お父さんは、騙されたオヤジさんの姿を見て育った。それが人一倍、金に厳しくなった原因だとワシは思っている」
「でも、今も会社はあるじゃないですか」
「お爺さんは、そこで諦めなかった。奥さんと一緒に寝る間も惜しんで、がむしゃらに働いた。そしてもう一度、会社を立ち上げたんだよ」
「知りませんでした……」
「ただ、そのせいで過労が祟って、お婆さんは旅立ってしまったがな」
「私、お婆ちゃんのことも、お爺ちゃんのことも、覚えていないんです」
「睦美ちゃんはまだ幼かった。当然だ。けれどお父さんにとっては母親の命を奪ったのは、お金がなかったからだと金銭への執着が益々強くなったのは事実だろう」
「降ってきたな。睦美ちゃんの気持ちも判るよ。たまにでいいから、お父さんと会話してやってな。呼び止めて悪かったね。余り濡れない内に帰りなね、じゃあな」
加山さんが帰った後も、私は立ったままでいた。
正直、何も考えられずにいた。
ただ判ったことは……
父の気持ちも祖父の気持ちも判ってしまったら、自分が苦しいということだ。
雨が激しくなってきた。
私は空を見上げた。
びしょ濡れになる為に。
そんなことしか思いつかなかった。
家に帰ると、父が縁側で一人、雨を見ていた。
丹精込めて育てた植木を見ていたのかもしれない。
「……ただいま」
「お、お帰り」
口を訊いたのは、いつぶりだろう。
「風邪引くから部屋に入ったほうがいいよ」
「あ、あゝそうだな。睦美こそずぶ濡れじゃないか」
「これからお風呂に入る」
そう云って私は浴室に向かった。
「よ〜く、暖まるんだぞ」
私はうなずいた。
雷の音が訊こえた。
「春雷か」父が呟いた。
私は浴室の窓が時折光るのを見て、不思議な感覚になっていた。
今の自分の気持ちと同じだ。
そう思った。
何がそう感じさせるのだろう。
怒りとも違う。
叫びとも違う。
エネルギーだ!
自分の中にある、エネルギーと共鳴したのかもしれない。
お風呂から上がったら、料理人の彦さんに母の実家の場所を訊いてみよう。
住んでいるかは判らないが。
近所の人で何か知ってるかもしれない。
「彦さん」
「はい、お嬢さま。どうかなさいましたか?」
「彦さんに、訊きたいことがあるのですが」
彦さんは私からの突然の質問に、
少しだけ焦った表情になった。
「わたしに訊きたいこと、なんでしょう」
「母のことなんですが、実家はどこなのか知りたいんです」
彦さんは、困った顔をした。
「父には内緒にします。だから教えてください」
彦さんは、腕組みをして迷っていたが、諦めたようだ。
「旦那様には絶対に内緒でお願いします」
「はい、絶対に話しません。約束します」
「睦美お嬢さんのお母様は静岡にご実家がございました。今は判りませんが」
「静岡。詳しい住所は判りますか」
「少しお待ちを」
そう云って彦さんは、ロッカールームに行き、何かを持って戻って来た。
それは厚みのある手帳だった。
開くと、彦さんは上から下まで指でなぞり、「あった!」と声を上げた。
「ご実家は静岡県熱海市田津町2丁目◯番地1号になりますね。電話番号も知ってれば良かったのですが住所だけで。メモして、お渡しします」
彦さんはサラサラとメモ帳に書くと、そのページを破り、私にくれた。
「ありがとう、彦さん」
「まだ住んでいるといいですね」
「ありがとうございます」
私が行きかけると後ろから
「それから住所は誰も知りません。わたし以外には」
彦さんは親指を立てて、にっこり笑った。
私は今週末にこの住所の場所に行こうと思った。
期待と諦めが半々だった。
いつの間にか雷は遠のき、雨音も消えていた。
夕食を父と一緒に食べてみようか。
もう何ヶ月もバラバラに食べている。
けれど……。
「やっぱり止めよう。会話をしただけで、今日は十分だよね」
そして土曜日。
朝から快晴の気持ちのいい、お天気だ。
「どうか見つかりますように。さぁ行こう」
私は出発した。
東京駅で新幹線の切符を買った。
自由席でも乗車券と合わせて一万円近くかかった。
「この出費は痛いけど仕方ないよね」
新幹線は思った以上に混んでいた。
けれど一番前に並んでいた私は運良く座ることが出来た。
隣には、スーツを着たサラリーマンらしき男性がパソコンを見事なタイピングで叩いてる。
私は発車して、幾らもたたない内に眠りそうになっていた。
ここで寝てしまったら、駅に到着しても気付かずに、そのまま乗って行きそうで。
スマホにイヤホンをつけて、なるべくうるさい音楽を聴くしかないと、睡魔に云い訊かせた。
彦さんにもらったメモ。
昨夜は何度、見たことだろう。
[必ず母の居場所は判る。だから大丈夫]
心の中で自分に云い訊かせた。
そうして私は無事に静岡駅に到着できた。
全く知識の無い私は、駅前がかなり開けているのが以外に思った。
失礼な話しだけど。
かなりのビルが立ち並び、更に新しいビルを建設中だ。
これから行く場所まではタクシーで行く。
地図で見たけど初めての土地で自力で辿り着く自信がない。
タクシーに乗って、運転手さんに住所が書かれたメモを見せた。
「住宅街の方ですね。判りました。10分ほどで着きますよ」
私はその言葉にホッとした。
ビル群の真ん中の道路を、タクシーは走る。
そして運転手さんの云った通りに、
10分で到着。
駅前とはガラリと変わり、静かなところだ。
母の実家は一軒家のはずだ。
ドキドキしながら歩いたが、残念ながら、もうなかった。
この住所には、小ぢんまりしたマンションが建っている。
向こうから女の人が歩いて来た。
私は尋ねようと決めた。
「あの、すみません」
女性は優しい顔を見せた。
「ここに以前、大野という家があったはずですが、ご存じですか」
女性は少し驚いた顔に変わった。
「あの……私は大野多恵の娘です」
「多恵さんの、娘さん」
「はい。初めて来たら、家がなくなっていたので、困ってしまって。どこへ引っ越したのか、判りませんか」
「そう、あなたが多恵さんの……」
その女性は質問には答えず、私を見つめている。
母と仲が良かったのだろうか。
「あの……」
「あ、ごめんなさい。多恵さんは、お母さんは遠くには行ってないわ。
ここからバスで20分行ったところに居ますよ。多恵さんのお姉さんのお宅だそうです。仕事もなさってるはずよ」
「母のお姉さんの家に」
「バス停まで案内します。喜びますよ、多恵さん」
その女性も涙ぐんでいた。
バス停に着くと、ちょうどバスが向かって来るところだった。
「ありがとうございました。その親戚の名前は何と……」
「あ、そうよね。確か園部さんだったと思います。“役場前”というバス停で降りたら目の前にご自宅があります。豪邸なので、直ぐ判るわ」
バスが止まった。
私はステップを上がりながら女性の名前を訊いた。
その女性は、畑野だと教えてくれた。
「母に伝えます。畑野さんのこと」
「お母さんに宜しくお伝えください」
畑野さんはバスが見えなくなるまで見送ってくれた。
私はこれから、母に会えるんだ。
今になって実感が湧いてきて急に鼓動が早くなった。
母は私が来て迷惑じゃないといいけど。
不安がよぎる。
「次は“役場前”“役場前”」
慌ててチャイムを押す。
バスが止まった。
バスを降りた私は目の前の家に驚いてしまった。
「畑野さんの云ってた通りだ。テレビでしか見たことのない、芸能人の家みたい」
この家で母は生活してるんだ。
門に着いた。
インターホンを押そうとして、やめた。
「私は自分のことをなんて云えばいいの」
また鼓動がドキドキするのが判って来た、でも。
「正直に云うだけだ!」
インターホンを押すと、
「はい、どちら様でしょうか」と声がした。
「あの……私は、お母さ……大野多恵の娘で、牧野睦美といいます」
「……睦美、ちゃん?」
「はい」
「いま門を開けますから!」
自動で少しずつ門が開いてきた。
同時に玄関から飛び出して来た人がいる。
「ハアハア、む、睦美ちゃん、一人で来たの?お父さんは何て。
よくこの家が判ったわね」
「ごめんなさいね、質問ばかり。ビックリしちゃって!私は多恵の姉で幸恵です。睦美ちゃんにとって、伯母さんになるわね」
「突然きてすみません」
「なに云ってるの。睦美ちゃんにだって色々あるものね。家に入って。多恵はもうすぐ仕事から帰るわ」
「はい、あ、桜」
「そうなの。例年なら散ってる時期なのに今年はまだ咲いてくれてるのよ。さぁどうぞ」
私は今まで、こんなに広い玄関を見たことがない。
一部屋になるくらい広い。
後から知ったが、伯母さんの旦那様が芸能事務所の社長さんとのことだった。
「睦美ちゃん、どうぞ上がってくださいね」
「はい、お邪魔します」
「家は二階にもリビングがあるんだけど、睦美ちゃん行ってみる?」
私は頷いた。
伯母さんはニコニコして階段を登っている。
何でだろう。
その訳は登って直ぐに判った。
窓の外には海が広がっていた。
「きれい。叔母さん、バルコニーに出てもいいですか?」
「もちろん!」
「多恵と同じね。来て直ぐに多恵もバルコニーに出てもいいかと訊いたっけ」
「ただいま〜」
「多恵が帰って来たわ。睦美ちゃん、そこに居てね。多恵を連れて来る」
お母さんに会える。
どんな顔をするだろう。
迷惑だと思われないかな……。
「なぁに、姉さん変よ」
「変でもいいから、とにかく二階に行って」
「二階に何かあるの?」
「行けばわかるわ」
「来たけど、別に何もないじゃない」
「え?ウソ」
「ウソなんか……あ」
私は隠れていた。
覚悟を決めて出て来たのだった。
「……」
「多恵、誰だか判る?」
「判らないわけないじゃない」
「お母さん」
「睦美、よく来てくれたわね。
奇跡のよう」
私はバルコニーから部屋に入って、母のことを抱きしめた。
「お母さんが元気そうで良かった」
「元気よ、ありがとう」
暫く、二人で色んなことを話した。
話すことが多過ぎる。
その内に話しは父のことになった。
私は加山さんから訊いたことなどを、お母さんに話した。
「睦美は、お父さんと暮らすのは嫌?」
「前はそうだったけど、今は平気になった」
「そう、それなら安心した」
そうは云っても母は寂しそうに見える。
「お母さん、仕事は何をしているの」
「中学校の用務員さん」
「それと、お爺ちゃん、お婆ちゃんは?」
「二人で質素に暮らしてるわ。元気だから心配しないでね」
「良かった。それと畑野さんという女の人がここを教えてくれたの。
お母さんに宜しくって」
「畑野さん……あの人は優しいの。
そう、良かったね睦美。畑野さんと会えて」
私の携帯が鳴った。
出ると父だった。
「睦美、お前は今どこにいるんだ?」
「お母さんのところに来てるの」
「お母さん!静岡県まで行ったのか。まぁ無事で良かったよ」
「心配かけてごめん」
幸恵さんがゼスチャーを睦美に見せている。
「お父さん、お父さんも来ませんか?って。お母さんのお姉さんが云ってます。どうですか?」
「えっ」
【3時間後】
父は来ていた。
母と目を合わせようとしない。
母もまた同じ。
二人並んでバルコニーから海を見ているだけだ。
「綺麗ですね、夕焼け」
「そうだな、日が沈む前に来れて良かったよ」
「牧野さん、多恵、睦美ちゃん、お寿司の出前を頼んだからもう少し待ってくださいね」
「気を使わせてしまって申し訳ない」
「姉さん、ありがとう」
私は両親だけを残して部屋に入った。
「多恵、帰って来ないか、いや
帰って来て欲しい」
母は目を閉じて、黙って頷いた。
太陽が、ゆっくりと水平線に吸い込まれて行った。
了
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