今夜も呑みますか 71 紗希 2020年4月29日 08:01 「おっちゃん、がんもとコンニャク」「はいよ」「あ、あと卵な」「卵ね」この店に通うようになって、何年になるだろう。自宅から近いから呑みたくなったら、自然と足が向く。「がんもとコンニャク、それと卵、お待ち」「熱そうだな」「そりゃ熱いさ、おでんだからな」俺は目の前にある、辛子の入った小ぶりの瓶の蓋を開け、中から多目に辛子を取ると、おでんの皿の付ける。「相変わらずたくさん取るな、涼は」店主は笑顔でそう話す。「辛いの好きだからね。特に和辛子は、そんなに辛くないから量を多く付けるんだ」先ずは卵が無難かな。俺は猫舌だから、がんもは危険だ。噛むとじゅわ〜熱々の汁が出る。卵、コンニャク、がんもの順番に決める。「なぁ涼」おっちゃんが話しかけてくる。「なに?美味いな卵。味が染みてて」「春ちゃんと別居して何年になる?」「いきなりだな、おっちゃん。そうだなぁ3年は経つかな」「もう3年か、早いな」おっちゃんはしみじみ云う。「やり直す気はあるんだろう?」「あるよ、俺はね。家内の気持ちは知らないけれど」俺と妻は別居している。いま云った通り、3年経つ。別居の原因、それは妻の春陽(はるひ)の浮気だった。俺が妻に男の影を感じて、問い詰めたんだ。彼女は、あっさり認めた。でも……それはただの浮気じゃなかったことを俺は、まだ知らずにいた。卵を食べ終えたところで梅サワーを注文した。『おでんには、日本酒だろ』よくそう云われる。でも俺は日本酒は呑めない。というか、呑まないことに決めてる。亡くなったオヤジがアル中だった。朝から一升瓶を抱えて呑んだくれていた。当然、仕事など行くはずもない。生活費はお袋が懸命に働いて、やっとカツカツの生活を送っていた。そんな毎日を過ごしていたら、日本酒を浴びるように呑むオヤジとは、同じことをしたくない。そう思うようになった。別居の話しに戻ると、俺は春陽に出ていけとは云ってはいない。妻は泣いて謝ったし、浮気のきっかけは、俺にあるようなものだから。謝るのは俺の方だったのだ。それに、あれは浮気なんて呼べない。俺の給料が少ないから、妻は昼間の仕事を辞めて、スナックで働くようになっていた。その仕事が悪いわけじゃない。ただ、客の中に春陽に、目を付けた奴がいたんだ。「おっちゃん、やっぱり大卒と違って、高卒は不利なんだな」おっちゃんは最初は黙っていたが、「そうさなぁ、サラリーマンの世界は知らないが、そうかも知れないな。おっちゃんは中学を出て直ぐに、親父の居酒屋で働いたからな」借金をしてでも大学は出ておくべきだったと思うことがある。日本という国は、やっぱり学歴が付いて回る。お袋の収入と俺のバイト代では大学には進めなかった。だからといって、『奨学金』という借金は作りたくはなかった。だから高校を出て直ぐに社会人として働くようにしたんだ。悪い会社では、なかった。そう……思っていた……。高校では勉強を頑張ったので、俺は名前の知られた会社に入ることが出来た。でも、仕事は良かったが、対人関係でつまずいた。毎日、かなりのパワハラを受けて、それでも俺は、仕事をこなしていた。グッタリして帰宅すると、会社から仕事のメールがバンバン届く。午前3時になっても、それは治らなかった。俺は徐々に精神を蝕まれていき、遂には倒れた。医師からは絶対に働いてはいけない。そう強く云われてしまい、半年以上、自宅療養するはめになった。ただ実家で暮らしていたので衣食住には困らずに済んだ。オヤジは既に、この世には居なかった。酒の呑み過ぎで肝臓をやられ、1年入院した後、旅だって逝った。俺は、まだ現役で仕事をしているお袋と二人暮らしをしていた。 俺は、会社を退職した。 そんな俺に、なんと恋人が出来たのだ。自宅療養するようになって、5ヶ月が過ぎた頃、気分のいい日には、散歩を兼ねて図書館まで歩くことにした。その図書館で、春陽は働いていた。大人しい読書好きな女性だった。俺が病院の診察を終えて帰宅する途中で閉館した図書館から、彼女が出てきたところに、ぶつかることがあった。帰り道が途中まで同じだったので、俺と春陽は、一緒に歩いた。お互いに読書好きだったので、本や作家の話しをしながら歩いていると、アッという間に別れ道に着いた。俺はどんどん春陽に惹かれていった。でも、俺は無職の病人なのだ。とても彼女に告白出来る身分ではない。そう思って何も云えずに時間は過ぎていった。ある日、春陽から、図書館の仕事が休みの日に一緒に出かけませんか?と声をかけられた。俺はびっくりしたが、嬉しくてたまらなかった。季節は春で、花見の時期だからと、春陽は、「私のお弁当で良かったら、お花見しましょう」そう云ってくれた。もちろん俺には断る理由はなかった。働いていた頃に貯めた、貯金を切り崩して使っている身分の俺には、安く済む花見のデートは助かった。約束した日は真っ青な快晴だった。八分咲きの桜の下で、俺と春陽は広げたシートに座り、食べて話して一日を過ごした。その時、俺は初めて自分の病気のことを詳しく春陽に話しをした。春陽は熱心に耳を傾けていた。花見から2ヶ月後、俺はやっと医師から仕事をしてもいいでしょう、と云って貰えるまでに回復した。春陽も、とても喜んでくれた。新しく入った会社は、上司の人柄も気さくで、社内の雰囲気は、活気がある中にもピリピリとした感じはなく、居心地の良い職場だった。ただし給料は、かなり少なかった。けれど給料のいい会社は、俺みたいな中途採用になると、固定給がバカみたいに安い。だから残業をかなり多くすることになり、また病気を再発しかねない。だから諦めるしかなかった。しかし、この収入では、春陽と結婚するのは、ほぼ無理だ。春陽の図書館の仕事もアルバイトだから、やはり少ない。悩んでいる俺のことを、春陽は分かっていたのだ。彼女はスナックの仕事を見付けて来た。本が大好きで、図書館の仕事も春陽は好きだったのに。収入の為に大好きな仕事も辞めて、春陽はスナックで働くことを選んだ。自分はダメな男だと、俺はつくづくそう思った。情けなかった……。けれど、春陽の決断のお陰で、俺たちは結婚することが出来た。春陽の浮気。それはカネの為のものだった。春陽に惚れた男がカネをチラつかせ、そのカネの為に、妻は浮気をしたのだ。妻は嘘が顔に出る。その時も、罪悪感が滲み出ていた。だから俺は春陽に詰め寄ってしまった。家計の為に、イヤイヤ浮気をした自分の妻を、何も考えず俺は問い詰めた。翌日、仕事から帰ると、春陽の持ち物が無くなっていることに気が付いた。テーブルの上には、真っ白な便箋に 《ごめんなさい》そう書いてあった。春陽は家を出て行ったのだ。「何か作ろうか?」おっちゃんがそう声をかけて来た。俺は半分、寝かかっていたらしい。「涼の好きな厚焼き卵でも焼くか」「ああ、もらうよ。それにしても、客が来ないな。大丈夫なの?」「大丈夫って何が」「潰れたりしない?外の赤提灯も、何だか形が悪いし」「失礼な、あれがいい味出してるのさ」そう云っておっちゃんは、奥に消えた。「味ねえ、頼むから潰れないでくれよ。家から一番近くで便利なんだから」「厚焼き卵、出来たよ」奥から、皿を持ちながら、おっちゃんが出て来た。「いつもながら、旨そうだな」「旨そう、じゃなくて、旨いだろうが。早く食べなよ焼きたてなんだから」「はいはい、ではいただきます」湯気の立つ、厚焼きを一口食べる。「うん、相変わらず旨い、え?」俺は二口目を食べた。「おっちゃん、この味」見ると、おっちゃんがニヤニヤしている。それを見た俺の目から、一気に涙が溢れた。ウッウッ……「泣くのは後にして、早く呼んであげなよ」「う、うん、そうだね、おっちゃん」おっちゃんは、涙が流れないように、天井を見上げている。「お、かえ、り、春陽。ウッウッ……」奥から、泣き顔の妻が、春陽が出て来た。「涼が、お帰りだって。返事をしてあげな、春ちゃん」「た、だい、ま帰り、ました。涼ちゃん。ごめん、なさい」「謝らなくていいんだ。俺の方こそ、悪かったな」「夫婦なんだから、並んで座りなよ。春ちゃん早く早く」春陽は頷くと、遠慮がちに俺の横の椅子に座った。「いいねえ、夫婦ってのは。春ちゃんも何か呑むかい」「は、はい。じゃあ、レモンサワーを下さい」「はいよ、レモンサワーね。おっちゃんも呑むかな。誰も来るはず無いし」「来るはず無いって」「涼ちゃん、外に出てみて」春陽が云う。そと?俺は立て付けのよくないガラス戸を開けて、表に出た。おっちゃん……。ありがとう。ガラス戸にかかっていたのは、【本日 貸し切り】 の札だった。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 71