樹の海 34 紗希 2023年11月7日 00:36 私が自分の思い通りにならないと「生意気云うんじゃない!」と怒鳴る。理不尽なことを云われたから、反論すると ピシッ!云い返せないものだから、言葉じゃなく手が出る。「凪沙、今度の土曜か日曜に肉の食べ放題に行かないか。1980円で、焼き肉でもすき焼きでも、存分に食べれるぞ」「蓮、ごめん土曜は行く所があるから」「ふ〜ん。じゃあ日曜は?」「たぶん、そういう気分じゃないと思う」蓮は、真剣な顔で私を見てる。「だ、だいたい肉の食べ放題って。男同士で行くものでしょう、普通。彼女を誘うなら、もっと別の」「土曜日に、何処へ行くの」「スイーツやフルーツの食べ放題なら判るけど」「なぁ、何処に行く予定なのさ」私は思わず蓮を睨んだ。「蓮には関係ない」「さっきの云い方だと、楽しい場所じゃないよな」私は黙って歩き出した。蓮は私の隣りに来た。少しの間、会話もしないで黙ってただ歩いてた。最初に口を開いたのは蓮だった。「一緒に行ってもいいかな」「何で?楽しい所じゃないのを知ってて来るって、判んない」「翌日も、気が滅入るような場所に凪沙一人で、行かせたくないから。だから僕もついて行きたいんだ」私は歩く速度を早めた。蓮は食い下がる。「何時に、どこで待ち合わせすればいい?」私はますますスピードを上げた。「蓮は中学が違うから、知らないだけ。本当に来ない方がいいのよ」「河口湖なら、待ち合わせは八王子駅でいいよね」私は驚いて立ち止まった。そして蓮を見た。喉が支えて、言葉が出てこない。「訊いたよ。部活のやつから」私は蓮から視線を逸らした。「だったら“私が来ない方がいい”と云った意味も蓮なら理解出来るはずよ。もう着いて来ないで」「僕は凪沙が好きだ。大切なんだ。だから心配してる。今日はもう着いて行かないよ。でも、土曜日は必ず凪沙に着いて行くから」私は返事をしないまま、ただ駅に向かって走った。ポツン雨粒。あの日、街中で父の姿を偶然見つけた。大きな黒い傘を差した父は、信号待ちをしていた。普通の大きさの傘が、この時は凄く大きく見えて、父が傘に飲み込まれてしまうのではないか。そう思ったら、怖くて動けなくなった。何故、そんな風に感じたのだろう。信号が青になり、雑踏に紛れながら、父は横断歩道を渡って行った。私が見た父の最後の姿。次の土曜日は、ニ年前に警察から連絡があった日。父が見つかったという電話が、あった日ーー。翌日は私の高校の入学式だった。ザアアアアアアアアア「うわ!マジか。傘を持ってないのに」キャア! ワア!「雨宿りしないと」あちこちから、悲鳴が上がり、人々は一斉に走り出した。駅はすぐそこだ。私はびしょ濡れでも気にはならなかった。父が逝ったあとも、我が家は持ち家だし、母は仕事でいいお給料を貰っているし、兄の大学は国立な為、生活には大して支障はなかったと思う。亡くなった後に、父が借金をしていたことが判明したけど、それも母が何とか工面したようだった。短気で、プライドだけは人並み以上に高い父。お酒に呑まれる性格で、しょっちゅう家族に手を挙げた父。小心者の典型だった父。脱サラなんて、しなければ良かったのに。事業を起こす器なんて持ち合わせていない父は、まんまと騙され退職金を失った。ピノキオの鼻が折れた時から、父は病んで行った……。「明日は土曜日だ」蓮は、私の隣りに座るとそう云った。「だから」「待ち合わせのこと。明るい時間に歩きたいだろう?その方が安全だし。駅のホームに7時はどうだろう」「本当に着いて来るつもり?」「こんなこと冗談では云えないよ」「蓮って変わり者だね」私は帰り支度を終えて、席を離れた。「6時にする」それだけ云って、教室を出た。後ろから、蓮の大声が訊こえた。「了解です!」土曜日の早朝でも、中央本線はたくさんの人が乗っていた。私と蓮は、何とか座ることが出来た。「富士急に行く人も多そうだね。河口湖も観光地だし」蓮はそう云って、外の風景を見ていた。「この辺りは童謡に出てきそうな風景だな。夕焼け小焼けとかにさ」大月駅に着き、私達は富士急に乗り換えた。蓮も無口になり、ほとんど会話することも無く、私達は電車に揺られてた。河口湖駅で降りる人は多く、蓮も私もその中に混ざり、改札を抜けて、バス停に向かって歩く。時刻表を見て、バスの本数が少ないので一瞬、焦ってしまったが、運良く、バスはちょうど来てくれた。「30分くらいで着くみたいだよ」その言葉を訊いたとたん、私の体に、緊張が走るのが判った。自分で行くと決めたのに。いざとなると、不安に襲われそうになってる自分がいた。その時、蓮は私の手をぎゅっと握ると、そのままずっと繋いでくれた。蓮がいてくれて、良かった。一人じゃなくて……良かった。樹海の入り口のバス停に到着。ハイキングに来た人も、意外に多くて、驚いた。私と蓮は、手を繋いだまま、森に入った。昼間のせいか、思っていたイメージとは違い、明るい森といった感じだ。「へぇ、苔が綺麗だな」 チチチ チチ野鳥の声が樹海に響いている。「なんだ、この虫。見たことないな」蓮の言葉に私は顔を背けて、見ないようにする。「脚がすごーく長くて細い。それが何本もあってさ」「だめだめだめ!虫は苦手なんだから、実況しなくていいから」「凪沙って、そんなに虫が嫌いなんだ。知らなかった。でも本当に珍しい虫だよ」「珍しくても何でも、とにかく嫌いなんだから」蓮のクスクスといった笑い声が訊こえる。笑えばいいわよ。だって、本当に苦手なんだから。随分、歩いた頃、看板があちこちに立て掛けてあるのが目立つようになってきた。 【早まるな】こう書いてある看板は、入り口にもあったけど、奥に進むにつれて数が増えてきた。実際、地面には、生々しい物も落ちている。土で汚れた、ペチャンコのカバン。いつの物か判らない、潰れたビールの缶。何年もの月日によって、ボロボロになり、やっとのこと靴だと判る物等。「凪沙、どのくらい進むつもりなの」心配そうな顔をした蓮に訊かれて、そういえば決めてなかったことに気づく。木漏れ日が綺麗だ。お父さんも見ただろうか。そんな余裕、あるわけないよね。「蓮、ここまででいいよ」「ちょうど芝生みたいになってるな。座ろうか」私と蓮は、並んて草の上に座ることにした。「凪沙、ここから僕は何も話さないから。凪沙だけの時間にしよう」「うん……」私は父が最後に居た場所に来たかった。父は、どんなことを考えていたのか、少しでも知りたいと、そう思った。知ることなんて、出来ないことは判ってても……。そっと目を閉じた。そこに見えたのは、暴力を振う父の姿でも、怒鳴り散らす姿でもなかった。∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞「お父さんの、お見送りする」「お、嬉しいな。じゃあ途中まで凪沙と一緒だな。行ってきます」「行ってらっしゃい。凪沙、あの小川にかかる橋のところまでよ」「はーい。行ってきまーす」私は父が大好きだった。だから、よほど天気が悪い日以外は、仕事に行く父を途中まで一緒に着いて行くことが日課になっていた。まだ、自然が多く残る駅までの道。春は、れんげや白爪草、日本タンポポが野原一面に、咲いている。ちょろちょろと流れる細い小川。風に揺れる柳の木。私は父と、どんなことを話したのだろう。きっと話しらしいことは、しなかったんだ。それくらい私は幼かった。「はい、凪沙はここまでだよ」小川にかかる、小さな橋に今朝も着いてしまった。「ふくれないの。せっかく凪沙は可愛いんだから。じゃあ行ってくるね」「お父さん、行ってらっしゃーい」「気をつけて帰るんだよ」「はーい。バイバイお父さん」「バイバイ バイバーイ」∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ウッ ウッ……クッ……ウウッどれくらいの時間、そこに居ただろう。私は蓮の、背中をポンポンと叩いた。「ん?」「もういいよ。帰ろう蓮」「凪沙」「なに」「来て良かったか」私は頷くと、そっと蓮を抱きしめた。「来て良かった。ありがとう蓮」「僕の大事な彼女ですから凪沙は」蓮の顔を見た。そこにはしっかりと、涙の跡が残っている。蓮は、照れ笑いをしながら、手のひらで必死に拭いた。 チチチチチ「鳥たちも、巣に帰る頃かな」「そうかもな。僕らも帰る時間になったね」バスに乗り、駅から上りの電車に乗った。行きと、窓から見える景色が少しだけ変わって見えた。隣で寝ている蓮は、私の肩にもたれかかってきた。よほど疲れたんだね。「蓮、大好きだよ」「なに?もう一回云って」「何で起きてるのよ。なんにも云ってないよ」「変だなぁ、いま僕がだいす」「あーそうそう。食べ放題だったよね」「えっ!行けるの。明日だよ」「やっぱり無理かな」「無理は禁物。凪沙は何でも夢中になり過ぎるからね。明日はゆっくり休んだらいいよ」〔童謡に出て来そうな風景だな〕本当にそうだね。私と父は、〔春の小川〕を一緒に歌ったかな。そうならいいな。春の小川はさらさらいくよ……そんな風に、歌ってたら、いいな。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 34