空気の温度 (2) 29 紗希 2024年2月3日 04:37 仕事からの帰り道、チラチラ雪が舞っていた。「ひょっとして初雪か?もうすぐ2月になる。今年の初雪は遅かったんだな」「おーい、理玖」豊が走って来た。「どうした。そんなに急いで」僕は立ち止まり、豊の顔を見た。「急なんだけど、明日、部署の皆んなで、飲みに行くことになったんだ。ほら先日、大きな契約が取れたろう?それもあってらしい。理玖はどうする。参加できる?」皆んなで飲みに、か。僕は考えた。飲みに行くのは嫌いじゃない。だけど、食べるのが、少しばかり厄介だから。「理玖が偏食なのは、皆んな知ってる。だから気にしないで、自分が好きな料理を注文したら、どうかな」 ガタン!音の方を見たら、速水さんが自販機で、ジュースを買っていた。身を屈めて、彼女が取り出したのは、“つめた〜い”方の缶コーヒー。雪が降る中、冷たい方を飲む人がいるんだ。僕が、そう思っていると、「速水さんて、一年中、暖かい飲み物は飲まないみたいだよ。コーヒーだろうが何だろうが」豊が、そう云った。「好き嫌いはあるからね。誰にでも。好みとかさ」咄嗟に出た言葉だった。豊は不思議そうな顔で、僕を見た。「ほら、僕も偏食だろう?側から見れば変わった人に映ると思うし」(なに無気になってるんだ僕は)「理玖の云う通りかもな。真夏に熱々のラーメンを食う人も、珍しくないし。人それぞれでいいってことだな。それで明日、どうする」飲み会ーー。「明日はパスするわ。豊が急いで教えてくれたのに。悪い」「判った。急だしな。それじゃ」豊はそう云うと、走って会社に戻って行った。僕は自販機を見た。けれど、もう速水さんの姿はなかった。僕に、初めて彼女が出来たのは、大学生になってからだ。同じサークルの女の子で、戸川華恵という。半分以上、遊びのサークルは名は、[歌唄い]といった。歌うことが好きな人間の集まりだ。ギターやキーボードが弾ける人もいたし、僕のように楽器は何もできない人もいる。上手いも下手も関係ない、サークルの居心地は、僕にとっては楽で好きだった。たまに、皆んなでカラオケに行くこともあった。「オレ、腹減った」「同じく!」「カラオケの食べ物って、侮れないよな」「とにかく何か注文しよう。俺はポテトの山盛り」「それ、鉄板!」瞬く間にテーブルは、食べ物に侵略された。僕が食べられるのは、僅かだったけど、そんなことより、歌を聴いたり歌ったりに気持ちが向いていた。延長した僕等は、カラオケに4時間立て篭もっていた。最初は同じ電車に5人乗っていた。今は僕と戸川さんの2人だけだ。「柳君って、少食なのね。いつも余り食べないでしょう」「少食なわけでもないんだ。それより戸川さんが、僕のことを、よく見てるんで、驚いてるよ」「華恵で、いいよ」「え」「戸川さんじゃなくて、華恵って呼んでも……いい」僕は戸惑っていた。これって。ようするに彼女は僕ーー「理玖が降りる駅よ」そう云うと、彼女から先に電車を降りた。僕の頭の中は、“理玖”と呼ばれたことよりも、アパートの自分の部屋の散らかり具合だった。(ちゃんと、掃除しとけば良かった)僕は華恵と、付き合い始めた。華恵は積極的で、世話焼きなタイプだと知った。「これも食べられないの?想像以上に理玖の好き嫌いは、酷いのね」酷いって云われてもなぁ。好き嫌いとは違うし。やっぱり同じに思うんだな。仕方ないか。「大丈夫よ。私が必ず理玖の好き嫌いを、治してあげる!」初めて出来きた彼女だけど、それは無謀だと云いたくなった。自分で云うなと思うけど、偏食を治すのは、かなり困難なんだ。この為に、お袋を泣かせたこともあって、自己嫌悪で苦しんだこともある。医師からは、摂食障害になりかけていたと訊いていた。華恵は、かなり料理に力を入れて、彼女なりに工夫をしたメニューを作ってくれた。「これならどうかな。理玖の嫌いな食材も入ってるけど、ペースト状にしてみたの」毎回、華恵は僕の部屋に来ると、料理を作るようになっていた。それが僕にとって、段々と苦痛になってしまった。僕も正直に話せば良かったんだ。それも出来ないまま、彼女が作ってくれた料理を、僕は食べた。食べたというより、噛まずに飲み込んでいた。「食べられたのね!やった〜」華恵は、まるで跳ねてるように喜んだ。けれど、この日とうとう我慢が出来ずに、僕は口を押さえて台所へ行くと、シンクで嘔吐してしまった。彼女のことを、僕は見れなかった。数分後、何も云わずに華恵は僕の部屋から出て行った。ドアが閉まる音と共に、幕は降りた……。 昼だ。僕はいつもの海苔文字を見ると、箸で文字の部分を口に入れた。今日のミッションは何だ。どうやら、この可愛くならんでるミニトマトのようだ。別に生のトマトが食えなくても、トマトジュースは飲めるんだし、ミートソースも食べてるんだ。それでいいじゃいか。今夜、帰ったらお袋に話そう。そういえば、今日はラーメンの匂いがしない。隣りを見てみた。戸川さんは、サンドイッチをほうばっている。珍しいとなと思った。サンドイッチは買うと、結構高いから。僕が勝手に、速水さんは節約してると思い込んでいただけか。それに、どうやら手作りみたいだ。速水さんが、こっちを向いた。「ごめん。じろじろ見てしまった。美味しそうだなと思ってつい」速水さんは、にっこりして僕に「よかったら、どうぞ」と、ハムとチーズのサンドイッチを差し出した。「せっかくだけど、僕はーー」「あ、私こそ、ごめんなさい。柳さんの苦手な食材なんですね」「残念だけど、そうなんだ。でも気持ちだけでも嬉しいよ。ありがとう」速水さんは、少しの間、黙っていた。「柳さんは、いつから偏食になったんですか」「小学校の高学年の頃からなんだ」「それまでは、偏食ではなかったんですね。何かきっかけがあったのでしょうか」僕は、話そうか、迷った。「不躾なことを訊いて、申し訳ありませんでした。訊かなかったことにしてください」速水さんは、そう云うと、ペットボトルの冷えたミルクティーを、コクンと飲むと、サンドイッチを食べた。「こっちこそ、気を使わせて、すみません。僕が偏食になったのは、オヤジが原因なんです」「柳さんの、お父さんが、ですか?」僕は頷くと、話し始めた。「僕のオヤジは、かなりのスパルタな人間で、僕に嫌いな食べ物があるのが、許せないんです」速水さんは、真剣に訊いていた。「ある日、僕の大嫌いな魚を、無理矢理、口に押し込んだんです」「えーー」「口から出したら、許さんぞ!ちゃんと噛んで食え!」そう云われたんです。「そんな」「鬼の形相で睨まれて、僕は嫌いな味が口に広がって、気持ち悪いのと、詰め込まれて苦しくて、泣きながら食べました」ふぅ……。僕はカップのお茶を一口飲んだ。「けれど、このことは、お袋には話さなかった。ただでさえ仲がいいとは云えないオヤジとお袋なので、これ以上、関係を悪化させたくなかったから。そうなるのが、小学生の僕は……怖かった」気がつくと、速水さんは、泣いていた。「変なこと話してしまって」彼女は、首を振り、「違うんです。私も父によって、食べることに、関心が無くなってしまったので。何を食べても一緒で。大切なことを一つ、自分は失ってしまったんだなって……」彼女は、両手で顔を覆い、指の間から、涙が溢れていた。僕は、このとき、速水さんのことを、思い切り抱きしめたいと、そう思っていた。 続く ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #連載小説 #いつもありがとうございます #休み休み #今日は節分 #ゆっくりですが 29