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アイビーを買いました

目が覚めて、窓を開けた。
そして直ぐにベットに戻った。

布団を被りながら、外の景色を、ボケーっと見る。

快晴だった空に、雲が増えた。

無風に近いのに、何故か窓辺の観葉植物が小さく揺れている。


渋谷を歩いていた時に、デパートのウィンドウに飾ってあったアイビーと、目があった。


私は何かに引っ張られるように、店内に入ると、アイビーの鉢植えを買った。

500円。

お財布に、お金を入れ忘れたから、

千円札、一枚だけしか、持ち合わせがなかった。

これくらいの値段なら、私にも買える。

葉っぱの形が可愛くて、日に何度も眺める毎日。
それが3ヶ月前までのわたし。


お腹が空いたような、そうでもないような。

時刻は世間でいう、お昼。

起きてから、何も食べてないことに気づく。
そういえば、昨日は何か食べたっけ。

気付いたせいか、自分は空腹なのかもしれないと、そう思った。
単純だ。

だが問題は、布団から出ることが出来るかだ。

ダルい。
めんどくさい。

だから料理をする気なんて、あるはずない。
もっとも材料なんて、何にも無い。
買い物に行かないのだから、当然だ。


インスタント食品、あったっけ。

そんなことを考えていたら、食べた方がいいかもと、思い始めた。

お陰で布団から、出ることになってしまった。


キッチンに行き、食べ物を探す。
体がふわふわする。

貧血前の、あの感じ。


ガサガサと探したら、パンを見つけた。
ミニクロワッサンが入った袋。

お隣さんからの、頂き物だ。


たぶん賞味期限は過ぎてる。
消費期限も。


だが見たところ、カビは無い。

たくさんの添加物のおかげだろう。

今の私は、健康に関心などなかった。

冷蔵庫から、飲むヨーグルトを取り出して、ついでに玄関ポストを覗いた。

ロビーのポストはきっと、DMや広告で、大変なことになってるだろう。

玄関ポストには切手の貼ってない、封筒が一通入ってた。

クロワッサンと、飲むヨーグルトと、封筒を持って、私は布団に戻った。


先ずはクロワッサンを食べてみたが、中にもカビは無かった。
同時に、パリパリも、もちもち感も無かった。

かぴかぴの食感の、クロワッサンを
ヨーグルトで流し込むと、視線を封筒に移す。


「叶恵からだ」

山里叶恵は、私の唯一の友人だ。
切手が無いのは、わざわざ届けに来てくれたからだと判った。


読まなくても、内容は察しがつく。
けれど、書いてくれた叶恵の気持ちが嬉しかったし、ありがたかった。


「手紙を貰うなんて、いつ以来だろう。何でもスマホで済ませるようになったものね」


ハサミで封を開けて、便箋を取り出す。

「相変わらず、きれな字」


ーー詩帆、その後どうですか?たぶん今の詩帆は、スマホを開く気分では無いだろうと、そう思って、手紙を書くことにしました。

ちゃんと食べてる?
食べてないでしょ。

思い出すなというのは、無理なことだと判ってるよ。

まだ2ヶ月しか経ってないのだから。
ただ、その時間が、ちょっとずつでも短くなることを、祈ってる。

電話でも、ラインでも、メールでも、何でもいいから、詩帆がその気になれた時にでも、連絡してくれたら嬉しい。
でも急ぐことは無いよ。

食べること、寝ることは、出来る範囲でいいから、やって欲しいんだ。

病院へは、通院できてるのかな。
医師との相性もあるから、合わないようなら、別の病院へに行ってみてね。
セカンドオピニオンだよ。

じゃあまたね。

         山里叶恵



「ありがとね、叶恵」

私は便箋を畳むと、封筒に戻した。


空はすっかり雲に覆われ、青空は隠されてしまった。

「雨雲みたいだから、もうすぐ降り出すかもしれないな」


私は袋から、ミニクロワッサンを、もう一つ取り出すと、小さく齧った。

手や服に着いたクロワッサンのくずを、私はその場でパンパンと払った。

フローリングの上に、ぱらぱら落ちて、散らばった。


「こんな横着も、一人になったから出来るんだろうな」


2ヶ月前、私は離婚した。

夫は、『ごめんな』と云った。


翌日、私が仕事から帰ると、夫の私物は、全て無くなっていた。

この日に出て行くことを、前々から決めていたのだろう。

会社を休み、引っ越し業者と段ボールに詰めて、出て行くことを。


話し合いも、私の云いたいことも、話せないまま、20年の結婚生活は、呆気なく終わった。

ローンの返済を終えたこのマンションは、慰謝料として私に。数百万の現金も振り込んだと書かれた手紙。

そして離婚届の紙を残して、夫は居なくなった。


「2年前から、不倫していたなんて、微塵も気づかなかった。
どこまで鈍感なんだろ、私は」


それを知った時、私は弁護士に相談することも、何もかもに、やる気が失せた。
長引かせるのも嫌だった。


やり直せる可能性の無い、このことを、早く忘れたい気持ちしか残っていなかった。

そして会社を退職。

働く気力など残っていなかった。
暫くは、貯金で食べて行こう。それが可能な私は、たぶん恵まれているのだろう。


夫が出て行ってから、私は全く眠れなくなった。

叶恵に勧められて、心療内科に行くことにした私は、睡眠薬を処方して貰い、そのおかげで少しは眠れるようになったけど、2時間経たない内に、目が覚めてしまう。


継ぎはぎ睡眠だが、足せば4時間は寝ていることになる。

「早起きするわけじゃないから、今はこれいい。昼寝がしたかったら、出来るんだし」


両親からは、子供が居たら違ったかもしれないのに。

そう云われた。

だけど結婚当初から、子供は作らないと二人で決めたのだ。
単純に、子供が好きではないからだった。

「世の中、子供が好きじゃないと訊くと、途端に見る目が変わる人が多いけど、そうなんだから仕方ないでしょう」


ベットの下に埃が溜まってる。

ずっと掃除をしていない。

それもだけど、自分がシャワーを浴びたのは、いつだっけ。

多分、離婚する前だ。

不潔だし、不衛生なこと極まり無い。
「死ぬわけじゃなし、出掛ける予定も無い。別にいいや」


私は布団に横になって、天井をぼんやりと見ていることにした。
何もやりたいことがなかった。

けれどこれが、曲者だった。

彼との楽しかった思い出ばかりが、幾つも浮かんでくる。

嫌な出来事だってあったのに、幸せなことしか浮かばない。

私はギュッと瞼を閉じた。


遠くから、雷鳴が聴こえる。

何故だかワクワクして来た。

早く近くに来て、早く。


すると願いが通じたのか、雷の音が大きくなった。
風が強いのかもしれない。

私はベットから出て、窓辺のアイビーを、飛ばされないよう、場所を移した。


すると突然、嵐のような大雨が、滝のように降り出したのだ。

「この雲のスピードだと、直ぐに止んでしまうかもしれない」


私は部屋着のままで、外に飛び出した。

突然の夕立に人々は、どこかに避難したらしい。

人の姿は見当たらない。


私は激しい滝に、自ら飛び込んで、
顔を洗い、髪も洗った。

シャンプーは無くても、気分は爽快になれるものだ。

服はグショグショになり、肌に張り付いていた。


雨が小降りになったので、部屋に戻ることにした。

ロビーには、数名の人が私を見て、何やら話している。

好きに噂話しでも、何でもしたらいい。
そう思いながら、私は部屋に戻った。



「それで風邪引いたって?」

布団の中で、私は頷く。

「熱が出て、辛いから私に電話をしたわけね」

「そうです。叶恵さま、すみません」


叶恵は笑い出した。

「理由は何であれ、連絡をくれて嬉しかった。詩帆の顔が見たかったし、来て良かった。食べてないでしょう。痩せたもの」

「空腹を感じなくなった。それに食べるのが面倒なのもあって」


叶恵は黙って、キッチンに行った。

「なによこれ。冷蔵庫の中、空っぽ。
マヨネーズとバターしか入ってないよ」

「だって買い物してないもの」


「この辺りに何かないか、探してもいい?」

溜め息混じりて、叶恵が云う。

「いいけど、何もないと思うよ」

「とにかく探してみる」


食器棚の引き出しから、100均で買った透明タッパーの中と、叶恵は探し始めた。

10分もしない内に、叶恵は笑顔で、
「やる前から、諦めちゃだめよ。探したらレトルトのお粥があったよ。それから鯖の水煮缶とコーンスープ」


「へえ、あるもんだね」

「へえって、ここは詩帆の家でしょうが。来る時スーパーで、食材を調達したのよ。詩帆が食べられるか、判らなかったから少しだけど。
何か作るけど、食べたいものはある?」


「ホントに。それならお粥がいいな。ご飯は炊いて無いから、さっき見つけてくれたレトルトのお粥でいいから」

「じゃあそれに、ササミと野菜、それと卵を足して、作るから、ちゃんと食べなさいね」

「はい、ありがたく頂きます」

出来上がるまで、少しウトウトしよう。
熱が下がりますように。


ところが私は熟睡したらしい。

起きたら叶恵は、テレビを観ていた。
この番組って、確か8時からの……

2時間も寝てたの私!


「叶恵、ごめん。寝ちゃった」

「起きたのね。謝ることないわよ。風邪の時は寝るのが一番なんだから。食べられそうなら、お粥を温めるけど」

「食べたい。久しぶりに食欲が湧いたみたい」


叶恵はキッチンに行き、温めたお粥を持って来てくれた。

「美味しそう。これ、卵が二つ入ってるでしょう」

「うん。栄養を取って欲しいからね」


「ありがとう。では頂きます」

私はスプーンですくうと、口に運んだ。

それは、大袈裟ではなく、今まで食べた、どの料理より、美味しかった。

私は黙ったまま食べ続けた。


「詩帆」

「とっても美味しいよ。最高の食事。ありがとう、叶恵」

涙がポタポタお粥に入ったけど、美味しさは、変わらなかった。


叶恵はこの日、泊まってくれた。

私はお酒は飲めないけど、叶恵は
好きなので、コンビニで缶ビールを買ってきて、飲みながら私達は話をした。


「去年の12月なんて、土日もアルバイトをしたのよ私。

会社の業績が悪かったから、ボーナスが出なかったのよ。
彼の誕生日にプレゼントしたい物があったから、トナカイの着ぐるみを着て、ベルを持ってクリスマスケーキの予約を取る為に。そのころ彼は不倫をしてるのも知らずに。
惨めだよね」


「中々出来ない体験をしたのね。
トナカイの着ぐるみにベル」

叶恵はビールを飲みながら、笑っている。

「人の気も知らないで」


「惨めって誰が云ったの」

「別に人に云われた訳じゃないけど。でも誰が訊いても惨めでしょう」


「誰にも訊かなきゃいいじゃない。
結局は惨めだと思ってるのは、
詩帆一人だけよ」

「叶恵は、そう思わないの?」


「全然。さっきも云ったけど、滅多に無い貴重な経験だと思うし。何年か経ってみたら、詩帆も笑えてるかもしれないでしょう」


「2年も不倫してることに、気づかなかったのだって、惨めだよ私は。
こんなこと、人に知られたら馬鹿にされるよね」


叶恵は飲み終えたビールの缶を、
コンビニのビニール袋にいれた。

そして、云った。

「だから、いったい誰に話すつもりなのよ。話さないでしょう?

だったら詩帆のことを、馬鹿だと云う人なんて居ないのと一緒。惨めだとか馬鹿だとか、そんな風に思ってるのは、自分だけってこと」


「……」


「過去は変えられないけど、自分の過去の捉え方は、変えられるのよ。
詩帆が自分らしく、生きていれば、
惨めで馬鹿だと思ってた過去は、
宝物にだってなるかもしれない」

「宝物」

「今はそんな風に思えなくても、詩帆の生きる活力にはなってるはず。私はそう確信してる」


「ありがとう。そうなれてたら、いいな」

叶恵は、にっこり微笑みながら頷いた。


「アイビーだ。強い植物だよね。このグリーンも好きだな」

「それなら叶恵用に、挿し木をしよう。時期を調べてするから、出来たら取りに来て」

「ワッ!嬉しい。連絡くれたら飛んで来るわ」

「喜んでもらえて良かった。ところでお粥のお代わりってある?また
お腹が空いたんだけど」


「あるよ。作り過ぎちゃったの。温めて、持って来るから、少し待ってて」


叶恵、本当にありがとう。

人付き合いが、苦手な私だけど、
叶恵となら何故か力を抜いて、話すことができるんだ。

私の宝物は、叶恵のことよ。


そうそう、アイビーの花言葉を叶恵は知ってるかな。

花が咲く品種も、あるんですって。

私、調べたことがあるの。花言葉。

そしたら、「永遠の愛」「誠実」

ですって。

笑えるよね。


だけど、まだあるの。

「友情」「不滅」もそうなんだって。


こっちは、当たるといいなって、

こっそり思ってる。

照れくさいから、叶恵には教えないよ。


      了






































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