アイビーを買いました 25 紗希 2024年3月21日 07:34 目が覚めて、窓を開けた。そして直ぐにベットに戻った。布団を被りながら、外の景色を、ボケーっと見る。快晴だった空に、雲が増えた。無風に近いのに、何故か窓辺の観葉植物が小さく揺れている。渋谷を歩いていた時に、デパートのウィンドウに飾ってあったアイビーと、目があった。私は何かに引っ張られるように、店内に入ると、アイビーの鉢植えを買った。500円。お財布に、お金を入れ忘れたから、千円札、一枚だけしか、持ち合わせがなかった。これくらいの値段なら、私にも買える。葉っぱの形が可愛くて、日に何度も眺める毎日。それが3ヶ月前までのわたし。お腹が空いたような、そうでもないような。時刻は世間でいう、お昼。起きてから、何も食べてないことに気づく。そういえば、昨日は何か食べたっけ。気付いたせいか、自分は空腹なのかもしれないと、そう思った。単純だ。だが問題は、布団から出ることが出来るかだ。ダルい。めんどくさい。だから料理をする気なんて、あるはずない。もっとも材料なんて、何にも無い。買い物に行かないのだから、当然だ。インスタント食品、あったっけ。そんなことを考えていたら、食べた方がいいかもと、思い始めた。お陰で布団から、出ることになってしまった。キッチンに行き、食べ物を探す。体がふわふわする。貧血前の、あの感じ。ガサガサと探したら、パンを見つけた。ミニクロワッサンが入った袋。お隣さんからの、頂き物だ。たぶん賞味期限は過ぎてる。消費期限も。だが見たところ、カビは無い。たくさんの添加物のおかげだろう。今の私は、健康に関心などなかった。冷蔵庫から、飲むヨーグルトを取り出して、ついでに玄関ポストを覗いた。ロビーのポストはきっと、DMや広告で、大変なことになってるだろう。玄関ポストには切手の貼ってない、封筒が一通入ってた。クロワッサンと、飲むヨーグルトと、封筒を持って、私は布団に戻った。先ずはクロワッサンを食べてみたが、中にもカビは無かった。同時に、パリパリも、もちもち感も無かった。かぴかぴの食感の、クロワッサンをヨーグルトで流し込むと、視線を封筒に移す。「叶恵からだ」山里叶恵は、私の唯一の友人だ。切手が無いのは、わざわざ届けに来てくれたからだと判った。読まなくても、内容は察しがつく。けれど、書いてくれた叶恵の気持ちが嬉しかったし、ありがたかった。「手紙を貰うなんて、いつ以来だろう。何でもスマホで済ませるようになったものね」ハサミで封を開けて、便箋を取り出す。「相変わらず、きれな字」ーー詩帆、その後どうですか?たぶん今の詩帆は、スマホを開く気分では無いだろうと、そう思って、手紙を書くことにしました。ちゃんと食べてる?食べてないでしょ。思い出すなというのは、無理なことだと判ってるよ。まだ2ヶ月しか経ってないのだから。ただ、その時間が、ちょっとずつでも短くなることを、祈ってる。電話でも、ラインでも、メールでも、何でもいいから、詩帆がその気になれた時にでも、連絡してくれたら嬉しい。でも急ぐことは無いよ。食べること、寝ることは、出来る範囲でいいから、やって欲しいんだ。病院へは、通院できてるのかな。医師との相性もあるから、合わないようなら、別の病院へに行ってみてね。セカンドオピニオンだよ。じゃあまたね。 山里叶恵「ありがとね、叶恵」私は便箋を畳むと、封筒に戻した。空はすっかり雲に覆われ、青空は隠されてしまった。「雨雲みたいだから、もうすぐ降り出すかもしれないな」私は袋から、ミニクロワッサンを、もう一つ取り出すと、小さく齧った。手や服に着いたクロワッサンのくずを、私はその場でパンパンと払った。フローリングの上に、ぱらぱら落ちて、散らばった。「こんな横着も、一人になったから出来るんだろうな」2ヶ月前、私は離婚した。夫は、『ごめんな』と云った。翌日、私が仕事から帰ると、夫の私物は、全て無くなっていた。この日に出て行くことを、前々から決めていたのだろう。会社を休み、引っ越し業者と段ボールに詰めて、出て行くことを。話し合いも、私の云いたいことも、話せないまま、20年の結婚生活は、呆気なく終わった。ローンの返済を終えたこのマンションは、慰謝料として私に。数百万の現金も振り込んだと書かれた手紙。そして離婚届の紙を残して、夫は居なくなった。「2年前から、不倫していたなんて、微塵も気づかなかった。どこまで鈍感なんだろ、私は」それを知った時、私は弁護士に相談することも、何もかもに、やる気が失せた。長引かせるのも嫌だった。やり直せる可能性の無い、このことを、早く忘れたい気持ちしか残っていなかった。そして会社を退職。働く気力など残っていなかった。暫くは、貯金で食べて行こう。それが可能な私は、たぶん恵まれているのだろう。夫が出て行ってから、私は全く眠れなくなった。叶恵に勧められて、心療内科に行くことにした私は、睡眠薬を処方して貰い、そのおかげで少しは眠れるようになったけど、2時間経たない内に、目が覚めてしまう。継ぎはぎ睡眠だが、足せば4時間は寝ていることになる。「早起きするわけじゃないから、今はこれいい。昼寝がしたかったら、出来るんだし」両親からは、子供が居たら違ったかもしれないのに。そう云われた。だけど結婚当初から、子供は作らないと二人で決めたのだ。単純に、子供が好きではないからだった。「世の中、子供が好きじゃないと訊くと、途端に見る目が変わる人が多いけど、そうなんだから仕方ないでしょう」ベットの下に埃が溜まってる。ずっと掃除をしていない。それもだけど、自分がシャワーを浴びたのは、いつだっけ。多分、離婚する前だ。不潔だし、不衛生なこと極まり無い。「死ぬわけじゃなし、出掛ける予定も無い。別にいいや」私は布団に横になって、天井をぼんやりと見ていることにした。何もやりたいことがなかった。けれどこれが、曲者だった。彼との楽しかった思い出ばかりが、幾つも浮かんでくる。嫌な出来事だってあったのに、幸せなことしか浮かばない。私はギュッと瞼を閉じた。遠くから、雷鳴が聴こえる。何故だかワクワクして来た。早く近くに来て、早く。すると願いが通じたのか、雷の音が大きくなった。風が強いのかもしれない。私はベットから出て、窓辺のアイビーを、飛ばされないよう、場所を移した。すると突然、嵐のような大雨が、滝のように降り出したのだ。「この雲のスピードだと、直ぐに止んでしまうかもしれない」私は部屋着のままで、外に飛び出した。突然の夕立に人々は、どこかに避難したらしい。人の姿は見当たらない。私は激しい滝に、自ら飛び込んで、顔を洗い、髪も洗った。シャンプーは無くても、気分は爽快になれるものだ。服はグショグショになり、肌に張り付いていた。雨が小降りになったので、部屋に戻ることにした。ロビーには、数名の人が私を見て、何やら話している。好きに噂話しでも、何でもしたらいい。そう思いながら、私は部屋に戻った。「それで風邪引いたって?」布団の中で、私は頷く。「熱が出て、辛いから私に電話をしたわけね」「そうです。叶恵さま、すみません」叶恵は笑い出した。「理由は何であれ、連絡をくれて嬉しかった。詩帆の顔が見たかったし、来て良かった。食べてないでしょう。痩せたもの」「空腹を感じなくなった。それに食べるのが面倒なのもあって」叶恵は黙って、キッチンに行った。「なによこれ。冷蔵庫の中、空っぽ。マヨネーズとバターしか入ってないよ」「だって買い物してないもの」「この辺りに何かないか、探してもいい?」溜め息混じりて、叶恵が云う。「いいけど、何もないと思うよ」「とにかく探してみる」食器棚の引き出しから、100均で買った透明タッパーの中と、叶恵は探し始めた。10分もしない内に、叶恵は笑顔で、「やる前から、諦めちゃだめよ。探したらレトルトのお粥があったよ。それから鯖の水煮缶とコーンスープ」「へえ、あるもんだね」「へえって、ここは詩帆の家でしょうが。来る時スーパーで、食材を調達したのよ。詩帆が食べられるか、判らなかったから少しだけど。何か作るけど、食べたいものはある?」「ホントに。それならお粥がいいな。ご飯は炊いて無いから、さっき見つけてくれたレトルトのお粥でいいから」「じゃあそれに、ササミと野菜、それと卵を足して、作るから、ちゃんと食べなさいね」「はい、ありがたく頂きます」出来上がるまで、少しウトウトしよう。熱が下がりますように。ところが私は熟睡したらしい。起きたら叶恵は、テレビを観ていた。この番組って、確か8時からの……2時間も寝てたの私!「叶恵、ごめん。寝ちゃった」「起きたのね。謝ることないわよ。風邪の時は寝るのが一番なんだから。食べられそうなら、お粥を温めるけど」「食べたい。久しぶりに食欲が湧いたみたい」叶恵はキッチンに行き、温めたお粥を持って来てくれた。「美味しそう。これ、卵が二つ入ってるでしょう」「うん。栄養を取って欲しいからね」「ありがとう。では頂きます」私はスプーンですくうと、口に運んだ。それは、大袈裟ではなく、今まで食べた、どの料理より、美味しかった。私は黙ったまま食べ続けた。「詩帆」「とっても美味しいよ。最高の食事。ありがとう、叶恵」涙がポタポタお粥に入ったけど、美味しさは、変わらなかった。叶恵はこの日、泊まってくれた。私はお酒は飲めないけど、叶恵は好きなので、コンビニで缶ビールを買ってきて、飲みながら私達は話をした。「去年の12月なんて、土日もアルバイトをしたのよ私。会社の業績が悪かったから、ボーナスが出なかったのよ。彼の誕生日にプレゼントしたい物があったから、トナカイの着ぐるみを着て、ベルを持ってクリスマスケーキの予約を取る為に。そのころ彼は不倫をしてるのも知らずに。惨めだよね」「中々出来ない体験をしたのね。トナカイの着ぐるみにベル」叶恵はビールを飲みながら、笑っている。「人の気も知らないで」「惨めって誰が云ったの」「別に人に云われた訳じゃないけど。でも誰が訊いても惨めでしょう」「誰にも訊かなきゃいいじゃない。結局は惨めだと思ってるのは、詩帆一人だけよ」「叶恵は、そう思わないの?」「全然。さっきも云ったけど、滅多に無い貴重な経験だと思うし。何年か経ってみたら、詩帆も笑えてるかもしれないでしょう」「2年も不倫してることに、気づかなかったのだって、惨めだよ私は。こんなこと、人に知られたら馬鹿にされるよね」叶恵は飲み終えたビールの缶を、コンビニのビニール袋にいれた。そして、云った。「だから、いったい誰に話すつもりなのよ。話さないでしょう?だったら詩帆のことを、馬鹿だと云う人なんて居ないのと一緒。惨めだとか馬鹿だとか、そんな風に思ってるのは、自分だけってこと」「……」「過去は変えられないけど、自分の過去の捉え方は、変えられるのよ。詩帆が自分らしく、生きていれば、惨めで馬鹿だと思ってた過去は、宝物にだってなるかもしれない」「宝物」「今はそんな風に思えなくても、詩帆の生きる活力にはなってるはず。私はそう確信してる」「ありがとう。そうなれてたら、いいな」叶恵は、にっこり微笑みながら頷いた。「アイビーだ。強い植物だよね。このグリーンも好きだな」「それなら叶恵用に、挿し木をしよう。時期を調べてするから、出来たら取りに来て」「ワッ!嬉しい。連絡くれたら飛んで来るわ」「喜んでもらえて良かった。ところでお粥のお代わりってある?またお腹が空いたんだけど」「あるよ。作り過ぎちゃったの。温めて、持って来るから、少し待ってて」叶恵、本当にありがとう。人付き合いが、苦手な私だけど、叶恵となら何故か力を抜いて、話すことができるんだ。私の宝物は、叶恵のことよ。そうそう、アイビーの花言葉を叶恵は知ってるかな。花が咲く品種も、あるんですって。私、調べたことがあるの。花言葉。そしたら、「永遠の愛」「誠実」ですって。笑えるよね。だけど、まだあるの。「友情」「不滅」もそうなんだって。こっちは、当たるといいなって、こっそり思ってる。照れくさいから、叶恵には教えないよ。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #いつも本当にありがとうございます #久しぶりに書いてみました #読んでくれたら幸いです 25