手を離さないでね 85 紗希 2020年11月15日 20:54 海が近い街に住みたい。そう云ったのは私の方だ。家から海は見えないが、ほんのりと潮の香りがする。家は小高いところにある。坂が急なので、私は下の街、もっと海の近くがいい。そう云った。が、夫の洋に大反対された。「水穂は『塩害』の怖さを分かってないから、そんな呑気なことを云えるんだよ」「知ってるわよ。潮で物が錆びやすいんでしょう?だから、そこまで近くなくてもいいよ」「なら、どれくらい距離?」「距離?え〜と、海から1kmくらい、かな」洋はため息をついた。「やっぱり分かってないよ水穂は」「1㎞でもダメなの?」「俺はちゃんと調べたの。高い買い物なんだから。そしたら2㎞離れた家でも洗濯物は早めに取り込むそうだ。潮でベタベタになるんだって」「それって風向きによるんじゃない?」「じゃあ水穂は一日中、風向きを観測してるつもり?考えたら分かるだろ?」「う〜ん」「う〜んじゃなくて、無理だろう?その点、高台の方がいいと訊いたから、あの場所にしたの。坂なら電動自転車を買えばいいよ」「……」「なに急に黙って。もしかして怒ってるの?」「ううん、その逆よ。海の近くは反対してたのに私の願いを訊いてくれて、この街に住むことに、洋は決めてくれたんだものね」「う、うんまぁね。お互いもう若くない齢で結婚したからさ、家なんて何回も買える物じゃないし、だから水穂が海の近くに住みたいなら、叶えてあげたかったんだ」私は洋に抱きついた。「わがまま云ってごめんなさい。ありがとう洋」「分かってくれて、良かったよ」洋は力を入れてぎゅっと抱きしめてくれた。「それでさ、腹が減ったんだけど」時計を見たら、もう8時を廻っていた。「ごめん、お腹空くわよね。この時間じゃ」「それで今から作るのも大変だし、ラーメン食べに行かないか」「この辺にラーメン屋さん有るの?」「それはしっかりチェックしておいた。昔からやってそうな店だったよ」「流石だね、食べ物に関することは、抜かりはないね」「まあな、じゃあ直ぐ出掛けよう」私たちはコートを羽織ると外に出た。冷たい風が吹いている。ほのかに潮の匂いがした。海は見えないが、灯台の灯りが少しだけわかる。それを見ていたら、なんだか切なくなった。「おーい水穂、早く来いよ」「はーい」私は急いで洋のところまで走った。10分歩かない内にラーメン屋さんに着いた。確かに昔から地元の人たちに愛されてきた感じのお店だった。「いらっしゃい」笑顔で初老の男性が迎えてくれた。たぶん店主だろう。「いらっしゃいませ」おっとりとした女性が水の入ったコップをテーブルに置いた。「うちはメニューがないの。壁に貼ってあるから、それから決めてくださいな」そう云って、店主の奥さんらしい女性は、レジのところに行った。「たくさんあるね」「俺はもう決めたよ」「えっ何にするの?」「チャーシュー麺の大盛りにライスに餃子」「食べ過ぎじゃない?私たち、もう40半ばだよ。健康には気を配らないと」「いいじゃないの。たまの外食の時くらいは。すいませ〜ん、注文お願いします」「なに、私はまだ、え〜と」先程の、おっとりした女性がやって来た。洋はサッサと自分の分を注文した。「水穂は?」「では、ワンタン麺をお願いします」女性はにっこりして、店主のところへ行った。「ワンタン麺かぁ。懐かしい感じがするよ。お袋がたまにワンタンスープを作ってくれてたからね」「あ、家も同じ。最近ではラーメン屋さんにも無いところがあるね。たまに食べたくなるのにな」洋は「ちょっとごめん」そう云って、スマホを弄り始めた。私は何故か遠い記憶を思い出していた。母の実家は海が割合近い街にあった。その家には、母の兄、つまり私の叔父と、祖父祖母、叔父の奥さん、従姉妹が男女一人ずつが暮らしていた。祖父は高血圧なのに大酒飲みで、半身不随になり、いつも寝ていた記憶しかない。祖母は優しい人で、常に笑顔の人だった。叔父は口下手だが人のいい性格だったと思う。お嫁さんのことは、正直あまり記憶に無い。従姉妹の二人はまだ幼い私とよく遊んでくれた覚えがある。それくらい、昔の記憶だった。ある日の早朝、寝ている私を呼ぶ声がした。「水穂ちゃん、水穂ちゃん」寝ぼけまなこで見ると、それは祖母だった。「今からお婆ちゃんと二人で海を見に行かないかい」「でもみんな寝てるよ」「大丈夫。こっそり行って直ぐに帰るから」「うん、行く」祖母に連れられて、私は朝早くに表に出て、海へと歩いた。季節はいつだったろう。寒いとか暑いとかの記憶が残っていない。春か秋だったのかもしれない。少し歩くと、波の音が聴こえてくる。砂浜だ。海にも浜にも誰もいない。祖母と私の二人だけだった。この頃はまだ、早朝サーファーも居ない時代だ。祖母と手を繋いで、砂浜を歩いた。ただ黙って二人で歩いた。今でも思う。何故、祖母は私と早朝の海に行ったのだろう。ただの散歩だったのだろうか。どれくらいの時間、砂浜に居たのか、帰宅しても、まだ誰も起きていなかった。祖母は、いたずらっ子のような笑顔で、そっと、布団に入った。私もそうした。それから何年かして祖母は入院した。病名は悪性腫瘍が胃に出来たと訊いた。病室から出ると、母は怒ったような顔で、目に涙を浮かべている。何を怒っているのだろう。私は不思議だった。かなり経ってから、その時のことを母に訊いてみた。お嫁さんと祖母は、上手くいっていなかったらしい。ベットに寝た切りになっている祖母に、お嫁さんは、さんざん不満を祖母にぶつけたのだった。「あの時、アナタに酷いことを、云われたわ」「わたしはアナタに傷つけられた」等……身体も弱って寝ているだけの祖母は、ひたすら、手を合わせてお嫁さんに謝り続けたそうだ。母はそのことを祖母から訊いたのだった。「何も余命僅かな人に、無抵抗な母に、そんなことを云わなくてもいいじゃない。自分だって、母をいじめてたくせに」私に話しをしながら、母は涙を流していた。訊かないほうが、良かったのかもしれない。私は後悔した。それとも、お母さんは、このことを誰かに訊いて欲しかったのだろうか、今までずっと。嫁姑の問題は、永遠に続くの?叔母さんにも、云いたいことがあるだろう。こればかりは私には口を挟めないと思った。その時、私は早朝の祖母との海への散歩を何故だか思い出した。祖母にも、誰にも云えない想いというものが、心の奥に閉まっている何が、あったのかもしれない。まだ、誰もいない海で、その想いを心の中で波に託していたのだろう。「はい、チャーシュー麺の大盛りとライスに餃子。そしてお姉さんにはワンタン麺。ごゆっくり」運んで来たのは店主さんだった。重いものね。優しいな。「水穂、割り箸取って」「あ、ごめん。はい」「サンキュー。では頂きまーす」勢いよく麺をすすり、チャーシューを食べて洋は、「旨い!」「ちょっと声が大きいよ」見ると厨房から出ていた店主さんと、奥さんがニコニコしている。「ホント、旨いから水穂も早く食べなよ」「うん、頂きます」スープを一口飲んだ。「な?旨いだろう?」「ちょっと待って。まだ食べてないよ」大好きなワンタンを食べる。これ……母が作るワンタンに似ている味だ!麺をすする。「どう?」「旨い!」「だろう?店構えからして、旨いのが分かるよな」20分後。私たちは満腹になっていた。私はいいけど洋が苦しそうだ。「やっぱ、食い過ぎたわ、ズボンがキツイ」私は思わず笑ってしまった。「笑うけど、本気で苦しいんだからな」「だから注文し過ぎなのよ。云ったでしょう?もう中年になったのよ、私も洋も」帰り道、お腹が苦しい洋と二人で家に向かってゆっくり歩いた。「すっかり寒くなったな」「そうね。来月は師走だものね」「そうかぁ師走かぁ。早いな一年が」「そうだね。あっという間にお爺ちゃん、お婆ちゃんになりそう」「それは勘弁して欲しいな。40過ぎて、ようやく結婚出来たんだ。もし少しゆっくり齢を取りたいよ」「同じく」夜の住宅街は静かだ。一人で歩くのは、怖かったかもしれない。「なぁ、水穂」「なに?」「墓参りに行こうか」「え……」「水穂の家の墓は、ここからは結構な距離があるから、なかなか行けなかったけど、行きたいだろう?水穂も」「でも、お金がかかるよ。日帰りだと無理だから宿泊しないと。交通費だってかかるし」「それくらい俺が出すさ。義母さん方のほうも行こうな」「でも家を買ったからローンも……」「行くと云ったら行く。任せなさい、貴女の旦那さんに」「あれ?水穂?」私は道にしゃがみこんでいた。「大丈夫?水穂ってば」「大丈夫だよ。嬉しくて、つい」洋は泣いてる私の肩を抱いた。「ありがとう、洋。嬉しい」「いやぁ。ウッ」「洋、どうしたの、ねえ洋」「さっき食い過ぎたから、ト、トイレ!先に行くわ、ごめん!」そう云って洋は走って行く。私は一人で泣き笑い顔だ。あ、海の匂いが風に乗ってきた。懐かしい潮の、あの匂いが。今度、朝早くに海に行ってみよう、洋も誘って、二人で。もちろん手を繋いで。これからもずっと、手を繋いで生きて行くのだから。 了 ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #短編小説 #創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 85