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2階の窓際
以前、外出の帰りに思い立って誠二のマンションを訪ねたことがあった。
ドアには鍵がかかってなく、用心深い彼にしては珍しいなと思うと同時に、何かあったのではないかと気持ちがザワめいた。
音がしないようにゆっくりドアを開けると私は中を覗いた。
黄昏どきもとうに過ぎて、辺りは宵闇に包まれ始めていた。
けれど部屋には明かりがついていない。
ほぼ真っ暗な中、デジタル時計の数字だけが浮かび上がっている。
何も音がしない。
……いや。
微かだが訊こえる。
それは啜り泣く声だった。
私はよく目を凝らして誠二を探した。
ぼんやりと見えて来たのは床に座っている彼の後ろ姿だった。
ほとんど真っ暗な部屋で、黒いシルエットになった誠二がいた。
声をかけるのも躊躇われた私は、開けた時と同じく静かにドアを閉めた。
とたんに呼吸が苦しくなっている自分に気づく。
息を押し殺していたからだ。
誠二に何があったのか、私は心配と不安に襲われそうになっていた。
「話せるようなことなら必ず教えてくれる。だから今日は帰ろう」
自分に言い聞かせ私はその場から離れた。
お互いがまだ大学生で、付き合うようになって2年が経った頃だった。
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大学も無事卒業し、私も誠二も就職した。
私は大手化粧品会社での研究開発事業部に。
誠二は音楽業界でもトップクラスの会社に入社した。
仕事はハードで最初の研修期間で6kg痩せた。
誠二の仕事はそれ以上にキツいと思う。
そういう業界だと噂で訊いていた。
けれど少しの時間があれば、私と会うようにしてくれた。
「もう少し沙緒里との時間が作れたらいいんだけど」
「誠二の仕事がどれほど大変かは、私も少しは判るつもりよ。こうやって少しの時間でも2人の為に使ってくれるだけで、とても嬉しい」
とにかく今は仕事を優先しようとお互いに決めた。
丸2年が経った。
ある休日、緑が眩しい明治通りを私たちは歩いていた。
「そういえば誠二のお爺さまは元気?大学の時にお会いしたきりだけど」
何故だか誠二は少し驚いた顔で私を見た。
「お陰様で爺さんは元気にしてるよ。なにしろまだ現役だからね」
「え、まだお仕事しているの?」
「それがしてるんだよ、86だけど以前より元気になった気がする。今の仕事が生き甲斐なんだって」
「へえ、それはいいね」
「しかも社長を務めてる」
「社長!!どんなお仕事なの?」
「ジャズ喫茶のマスター」
「なんだかカッコいいな。誠二のお爺さまはお洒落な人だから、似合うね」
誠二はうなずいた。
「その店はジョージとヘレンというアメリカ人ご夫婦がやっててね。最初、爺さんは客として通ってたんだ」
私は誠二の話しを黙って訊いていた。
「昼間はジャズ喫茶で夜はジャズバーで、生演奏もやってたから繁盛してたんだよ、ところがある日、急にマスターの耳が聴こえなくなってしまったんだ」
「え……」
「ご夫婦はそれは落胆して、お店を閉めてアメリカに帰るといいだして、そこに俺の爺さんが、店は自分に継がせて欲しいとマスターに頼んだんだ」
「驚いたでしょう。ご夫婦」
「ところが喜んでくれたんだ。特にジョージは泣きながら爺さんをハグしたそうだ」
「……それだけお店を愛していたんでしょうね」
私はつぶやいた。
「それでご夫婦はアメリカへ帰ったの?」
「それが帰ったのはジョージだけでヘレンは日本に残ったんだよ」
「だって……」
「本当のところは俺には判らない。ただジョージの病いは耳だけでは無くて、深刻な病気も抱えてたんだそうだ。ヘレンには内緒にしていたようだが」
「女性って、奥さんって凄いと改めて、そう思ったよ。ヘレンはジョージの後を追ってアメリカに行ったんだ。それから僅か半年後にジョージは亡くなったそうだ」
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ジョージはヘレンを俺の爺さんに託したんだ。
自分にはもう妻に何もしてやれないからって。
日本を去る前に爺さんにそう頼んだそうだ。
話しながら、誠二は涙ぐんだ。
あっ……。
「誠二、ジョージさんが亡くなったのは私たちがまだ大学の頃?」
誠二は驚いてわたしを見た。
「なんで判るの?すごいなぁ」
そうだったんだ……。
だからあの日、真っ暗な部屋で誠二は泣いていたんだね。
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