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8つの習慣 〜帰宅困難になった東日本大震災の記憶と地震への備え〜

早春の北鎌倉駅


10年前の2011年3月11日のあの日。
わたしは、北鎌倉にいた。


お昼過ぎに北鎌倉駅近くのお客様を訪問し、小一時間程度の打ち合わせを終えたのちに、JR線で横浜に帰ることになっていた。

打ち合わせが終わったのは午後2時過ぎ頃。
お昼前後の約束だったため、お昼ごはんは後回しにし、打ち合わせが終わってから食べようと考えていて、客先で頭を使ったせいか、ほどよく疲れ、ほんのりお腹がすいていた。

本来なら、すぐにでもお昼ごはんにしたいところ。しかし、北鎌倉駅は鎌倉駅と異なり小町通りのような繁華街はない。駅前もひっそりと静かで、飲食店も少ない。それを知っていたので、この日は北鎌倉駅でのランチはあきらめ、横浜駅についたらランチをしようと決めていた。

3月に入ったばかりの北鎌倉は美しかった。

梅の花など春を感じさせる花々に気をとられるほど、すこぶる気持ちの良い早春だった。少しお腹がすいているせいか、北鎌倉駅までの道を少し早足ぎみになりながら帰路につく。

この日は、上下のスーツにストッキングとパンプス。春物のコートなしでも十分心地よく過ごせる陽気だったと思う。

「おなかすいた…」

そんな事を思いながら客先から北鎌倉駅まで10分程度歩く。有名な円覚寺と隣接する北鎌倉駅近くは天気が良くて梅が見頃。せっかく北鎌倉まできたのだから、円覚寺にちょっと寄っていきたいな…なんて思いながら、3月11日の午後2時ごろ、Instagramにこんな写真をあげていたようだ。

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見慣れた北鎌倉駅ではあるが、平日の昼間、人出の少ない時間帯に北鎌倉を訪れるなんてめったにないことだったから、仕事でなければ北鎌倉観光でもして帰りたい、そんな気持ちになってしまうのは当たり前。

この頃のiPhoneは、写真の画質も粗くてなつかしい。

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電車が止まった


少し名残惜しかったけれど、そそくさと北鎌倉を後にしJR線にのりこんだのが2時30分過ぎ。北鎌倉駅から横浜駅までなら電車で20分程度だ。あっという間に着いてしまうはずだった。

2011年3月11日14時46分。

電車の中で、グラグラと揺れる地震に気づいた。もともと、電車は揺れながら移動する乗り物なのだから、最初はさほど気づかなかったように思う。当時の自分のSNSの投稿をみると「電車内で地震。すごい揺れてる」とつぶやいていたらしいが、今思い返しても、あの時の体感は正確には思い出せない。

良くも悪くも電車内だったゆえに、東日本大震災の揺れの瞬間の記憶は私の中ではすっぽり無くなってしまっている。

しばらくすると、電車が線路の真ん中で急に止まった。
駅も見えない中途半端な場所での急停車だった。

すぐに地震のせいだとは思ったが、どの程度の地震なのか今ひとつ分からない。しばらくすると大きな地震があったこと、電車は安全確認のため発車できないことを知らせる車内アナウンスが電車の中で響き渡った。
まさに、東日本大震災だった。

「何が起こったのか?」

平日の昼間ということで、電車の中はさほど混雑してはいなかったが、状況がわからない乗客たちが少しガヤガヤし始める。

車内アナウンスだけでは、まったく分からなかったので、私は真っ先にSNS(Twitter・Facebook)を開きはじめる。すると、今までにみたこともない地震についてのつぶやきが、次から次へとタイムラインに溢れてくる。
この時はじめて、東日本に巨大な地震が起きたことを知った。

外界から隔離された線路の真ん中で、知り合いが一人もいない車内。とたんに不安が押し寄せてくる。

しばらくすると、近くの乗客たちが「地震ですごい被害がでてるみたいよ」などと囁きはじめた。おそらく、みなSNSなどから情報収集しているのだろう。その時の電車内はなんとも言えない空気が漂っていたが、今思い返してみても車内の乗客は驚くほど冷静だった。

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電車から降りる

突然、電車にとじこめられ、今一つ状況がわからない中、ひたすらTwitterのタイムラインを眺めるだけの時間が過ぎていく。

なんとなく、震源地は東北であることと、関東も大きな揺れに見舞われた所までは分かったが、一番きがかりな自分の家族やオフィスのスタッフと連絡がとれない。電話は通じないしSMSも送信できない。Eメールも送信できなかった。


そんな中、良好に動いていたのがSNS(TwitterとFacebook)。SNSでつながっている人たちから断片的な情報をもらいながら心をおちつかせ、JRからの指示をひたすら待つしかなかった。

どれくらいの時間が経った頃だったろうか?

なんとかEメールの送受信ができるようになり、家族やオフィスにいるスタッフと連絡がつくようになった。みんなの身の安全や被害の状況などを確認することができた。

運良く自宅近くでは大きな被害はでなかったこと、家族もみな安全であることが確認できたので、ひとまずホッと胸をなでおろし少し落ち着きを取り戻す。

しかし、大きな津波が起こっていることや、すでに多くの犠牲者が出ていることなど、想像を絶する断片的な情報がSNS上に押し寄せていて、居ても立っても居られない気持ちはおさまらなかった。

文字だけのSNSの世界は、音もなく残酷な情報をつきつける。

「津波だって」
「東北の方ひどいんだって」

私と同じ気持ちでいるんだろう。
乗客たちのかすかな囁きが、妙に静かな車内のあちらこちらから聞こえてくる。

いったい、いつになったら家に帰って、ちゃんとニュースを観ることができるのだろうか?いっこうに動かない電車のなかで、妙な焦燥感だけが脳裏を横切る。

電車が止まってから2時間。
ようやく状況が動いたのは、夕方の5時に近づく頃だった。電車からはしごで降りて近くの駅まで歩いてくださいという指示がアナウンスされた。

その後は、手際よくJR職員が乗客を誘導し、はしごをかけてくれて、そこから車外へと一人ひとり降りていった。あのとき、乗客は驚くほど冷静で騒ぐ人もいなければ怒鳴る人などもいない。落ち着いてゆっくりと、粛々と電車の外へと脱出した。JR職員もとても親切だった。

電車が止まっていた位置から近くの最寄り駅まで、線路の上をゆっくりと歩くという初めての体験だ。その日のわたしは、運悪くパンプスだったので非常に歩きにくかった。しかし、車椅子やベビーカーは、もっと移動が困難だったろう。それを考えたら、パンプスで線路を歩くくらいはどうってことない。

あの時の線路の感覚。
今でも鮮明に覚えている。

とにかく、早く電車から出て自宅に帰りたかった。

どれくらい歩いたんだろうか?

黙々と線路を歩きようやく磯子駅に到着。駅に到着した頃は少し薄暗くなっていたが、真っ暗ではなかったと思う。今考えると、明るいうちに駅について、ほんとうに良かったと思う。

駅につくとすべての電車が止まっている事がわかり、復旧のめどもつかないことも分かった。駅には帰宅困難になった人たちが溢れていて、みなが「どうしようか?」と悩んでいるようだった。

線路を歩いている間は、まだ「もしかしたら、電車が動き出すかもしれない」とかすかな期待があったように思う。事態の深刻さの実感がなく、どこかで楽観視していた自分がいたのだ。何かあればSNSで情報収集もできるし、なんとか家に帰れるだろう、それくらいにしか思っていなかったように思う。

しかし、その直後、私にとっては最悪の事態が。
iPhoneの電源が切れてしまったのだ。

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iPhoneのバッテリーが切れる最悪の事態


思い返しても、本当に無防備だったように思う。

そもそも、北鎌倉駅を出る頃には、バッテリーは半分くらいしかなかったのだが、小一時間でオフィスに戻れるし、最悪、途中でバッテリー切れになっても、土地勘のある場所にいる限りは、さほど心配もない。

その当時は、iPhoneのバッテリーが切れてしまうリスクなど、さほど重要視していなかったのだから。

しかし、電車内で地震が発生し閉じ込められている間、必死にSNSで情報収集してしまったため、突然バッテリーが切れてしまった。バッテリー残量を計算する余裕などなかった。
本当に最悪だった。

スマホが無いだけで、手足を失ってしまったかのような恐怖感に襲われる。まるで無人島に取り残されてしまったかのような孤独感。そして、これまで、いかにスマホに依存してきたかという絶望感。五感の一部を無くしたかのような無力感にさいなまれながら、なんとか一人で乗り切るしかないと気持ちを切り替えるしかなかった。

電車が動かない。
この事を知ると、とたんにこみ上げてくる感情。

とにかく、とにかく自宅に帰りたい。

疲れていたこと、お腹がすいていたこと、地震や津波の心配。
そんな事はすべて忘れ、とにかく家に帰りたいという思いだけが、頭の中をしめるようになった。

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久しぶりに使う公衆電話


電車を諦めるということは、相当の時間をかけて自宅に帰らなければならないという覚悟とセットである。ひとまず、今の自分の状況をオフィスにいるスタッフや家族に知らせなければならない。しかし、頼みの綱であったスマホも息絶え、何か別の方法で連絡しなければならなかった。

駅には、数台の公衆電話が設置されていた。
その頃は、スマホ生活だったので、公衆電話を使うのはずいぶん久しぶり。テレフォンカードなどを持ち合わせている訳はなく「小銭あるかな…」そんな事をつぶやきながら、財布をガサガサとあけて公衆電話から電話をかけることに。

案の定、公衆電話の周りには、私と同じ境遇の人たちが沢山いたように思う。それでも、いがみあうこともなく、皆、粛々と列にならび自分の番を待っている。

またたく間に、公衆電話の前には数人の人が列をつくるようになり、順番に電話をかける姿が数台の公衆電話でみられた。ようやく自分の番になり公衆電話からオフィスや家族に連絡をし、自分が今どこにいて電車で帰れないことをつげ、なんとか帰る手段を模索してから帰るので遅くなるという事を伝えることができた。

ひとまず、心配しているだろう人たちに連絡することができ、少しだけ余裕ができた。

さて、電車が動かないのだから別の交通手段を考えなければならなかった。

そうだ、電車がダメならバスだろう。駅のロータリーをみると、バスを待つ人の列ができている。バスは動いているようだ。

すぐさまバス停へと移動したが、案の定、バス停は長蛇の列。しかも、なかなか次のバスがやってこない。バスの到着間隔が異常に長い。

あとから振り返れば、地震の影響で停電し、信号機が消えていた街道もあったそうだ。そんな状況で、定刻通りバスがやってくる訳もない。その当時は、状況がさっぱり分からなかったから待つことができたのだが、今なら「絶対に」待たない。

そうこうしているうちに、すっかり空は薄暗くなり車のテールランプでロータリー全体が明るくなった。バスだけではない、車という車が渋滞をおこしているようだった。混雑したロータリーのテールランプが妙に不穏な色に見えた。これからの私の絶望する状況を暗示していたのかもしれない。

それでも、他に帰る手段を思いつかない私は、ひたすら長い列に長い時間並びつづけ、ようやくバスに乗り込む。

「時間はかかるかもしれないけれど、これで帰れるかもしれない」

そんな淡い期待も、すぐ裏切られることになる。

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バスが進まない


小一時間くらい待っただろうか。
ひたすら待って待って、ようやくきたバスに乗り込んだ。今思い返しても、かなり辛抱強く待ったと思う。

この頃から、「とにかく家に帰りたい。いますぐにでも帰りたい」という気持ちがどんどん強くなっていっていたから、あの時間待つことができたのだと思う。陽が落ちて暗くなってきた事もあったかもしれない。暗くなると、とたんに心細くなるものだ。

電車が止まってしまい移動手段を失った状況で、なんとか道を前に進めるために、バスに乗ることを選択したが、これが大失敗だった。

ようやく乗り込んだ横浜駅行のバスは満員で、なんとか後方に立ってバスに身をゆだねる。

動き出したバスは、ゆっくり進み止まり、ゆっくり進み止まりを繰り返す。
バスに乗って数十分経った頃だろうか?

「え?何?ここどこ」

かなり長い時間バスの中に揺られているつもりが、全く進んでいない事にようやく気づく。前方の道が混雑して、いっこうに前に進んでいないのだ。

それはそうと、さっきから車窓を横切る歩道の人並みが気になっていた。結露したバスの窓ガラス越しに、バスに乗っている私たち乗客をよそ目に歩いてバスを追い抜いていく人の群れが続いている。つまり、歩行スピードよりも遅いスピードでバスが進んでいるのだった。

「やばいかもしれない」

大渋滞でバスが全く進まない事に気づいたのは、私だけではなかった。周りの乗客もざわざわしはじめ、誰かが「降ります!」と言い出すのを待っているかのようだった。

あとから知ったのだが、バスの車窓から見えた人の群れ、これがまさに帰宅難民と呼ばれる人々の大行列だ。

バスに乗った私は、あまりにも無知で、そして何時間も無駄な時間を浪費してしまっていた。

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バスを降ります!


「バスを降ります!」

しびれを切らしたかのように、誰かが運転手さんに声をあげてくれた。すると運転手さんは準備していたかのように、さっとドアを開けてくれる。それを合図に、多くの乗客が歩道の人並みへと移動していった。

当然、私もその人並みの中へ。

1時間ほどバスに乗っていたが、おそらく20メートルか30メートルくらいしか進んでいなかったと思う。今考えると、よくも小1時間も我慢してたなと思う。それくらい、磯子駅から横浜駅まで歩いて帰るなどという発想はなかったのだった。

バスを待ち、バスに乗っていた時間は2時間程度だったと思う。朗らかな春の陽気にほんわかしていた北鎌倉の風景と、この現実のギャップが激しすぎて目も当てられない。

電車に見捨てられバスに裏切られ、自宅に帰るために残された方法は、たった一つ。


徒歩だ。

それからは、ひたすら歩く歩く。
磯子駅から横浜駅までは最短コースで計算すると7kmくらいだ。

今、記憶を振り返っても、当時、どこをどのように歩いたのか覚えていないのだがスマホの充電が切れた状態だったのでGoogleマップなどは見れていない。おそらく、道路標識の看板をたよりに横浜駅方面に向かったと考えられるのだが、果たして、どうやって歩いたのだろう?今考えても不思議だ。

たぶん、絶対に最短コースでは歩いていない。かなり無駄なルートを通り、遠回りして帰ったに違いない。10kmくらい歩いたのかもしれない。いや、もっと長い距離だったかもしれない。

ただ、暗い夜道だったはずだが、大通り沿いを歩いたこと、そして私と同じように帰宅困難になっている人の波があったことなどから、決して心細い夜道ではなかったように思う。

とにかく寒かった記憶だけが残っている。
10年前の3月11日は東北では午後から雪になった。横浜でも日が暮れるとすごく寒くて、スーツ姿にパンプスの私は、とても寒かった。

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譲り合う公衆電話の列


どれくらい歩いただろう。
ようやく横浜駅近くまでたどり着き、灯りのついているコンビニに到着した。

コンビニの前には公衆電話があって、そこにも列ができていた。公衆電話の列にならび、自分の番になってからようやく家族に連絡することができた。家族に居場所をつたえ、なんとか車で迎えにきてもらえることになった。

真っ暗な大通り沿いのコンビニの前。寒空の中、公衆電話の列は途切れなかったけれど、みなが譲り合いながら順番に電話をかけていた様子が昨日の事のようによみがえる。

人々はみな、ゆずりあっていた。

電話をかけた相手が不在の場合は、数コール鳴らして一度切って、再度列にまわる。誰が言ったわけでもないのに、阿吽の呼吸で譲り合いながら電話をかけている。誰一人、電話を独占する人などいなかった。要件も短めにして、できるだけ早く次の人にまわす。列の後ろにまわりながら、時折、笑いかけてくれる見知らぬ人の笑顔に、その瞬間だけ癒やされた。

家族の迎えを待つ間、少しホッとしたのもあるのだろう、無性に寒くて寒くて、どこかで暖を取りたかった。それまでは、帰ることに必死で、あまり寒さを感じなかったのだが、家族が迎えにきてもらえることが分かった事で、体が冷えている事に初めて気づく。

コンビニでホッカイロを買おうと思ったが、当然のごとくコンビニの棚は空っぽ。ホッカイロなどはすべて売り切れ、食べ物もほとんど売っていなかった。時々、コンビニの中に入って体を温め、少し温まったら外にでて家族を待つ。そんな事を繰り返し、ようやく迎えの家族に出会うことができた。
必死の思いで歩き、家に着いたのは夜の10時を回っていた。
北鎌倉を出たのが2時30分、普段は小一時間でつく距離を、実に8時間もかけて帰ってきた事となる。
自宅について、ようやくお腹が空いていた事に気づいた。
その日、遅めの昼食は夕食でもあり夜食でもある時間に食べることとなった。

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今でも守っている震災の教訓


あれから、10年だ。
東日本大震災の当日の記憶は断片的であっても、部分部分では、まるで昨年のことのように鮮明に記憶がよみがえる。

いずれにせよ、東日本大震災の前と後では自分の考え方や日々の暮らし、行動のあれこれに変化が起こったことは間違いない。特に、帰宅困難になり何時間もかけて自宅に帰ったあの夜の記憶は、今でも外出時の危機感として私の行動に影響している。
1年、また1年と、3月11日のあの日から離れていくごとに、その時の記憶は薄れていくが、危機管理として体にしみついた習慣がいくつかある。

あの日から、ずっと継続してやっていることは今の自分のカバンの中身にある。

1.外出時は必ずスマホのバッテリーを持ち歩く
とにかく、帰宅困難になった時、スマホの充電が切れた事が一番つらかった。誰とも連絡取れないばかりか、外からの情報収集もできない。地図さえも見られず移動が困難だった。あれ以来、スマホの電源ケーブルと予備のバッテリーは、必ず携帯するようにしている。むしろ、これ無しでは不安で一人で遠出はできないほどだ。

2.いつも水を携帯する
そして、水の携帯だ。
いま、外出時は常にバッグの中にミネラルウォーターを入れている。500mlのミネラルウォーターを入れておき、半分以上残った状態で電車にのるようにしている。ただ、あの時、電車に閉じ込められた時は、ほとんど飲まず食わずで移動していた。喉の乾きも空腹も感じなかったが、やはり、いざというときのためにも、お水は携帯しておいたほうがよい。

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3.トイレをすませてから電車にのる
そしてトイレも大事だ。
先日の震災の時は、水分をとらなかったせいかトイレに行きたくはならなかったが、電車の中に閉じ込められた時、トイレに行きたくなっていたらどうしよう….と考えるとゾッとする。今は、突然閉じ込められてもいいように、電車に乗る前には必ずトイレを済ませるようにしている。行きたくなくても行っておくこと。

4.食べ物を携帯する
次に軽い軽食をもつようにすること。
お腹が空いていない状態で被災したのであれば問題はないが、東日本大震災の時の私のように、空腹の状態で長い時間過ごすのは好ましくないだろう。なので、カロリーメイトのような携帯食をできるだけバッグに入れるようにしている。1本でもいい。口に入れられるものがあれば時間が稼げると思っている。
あとこれは、携帯というよりも行動の習慣だが、遠方にでかけた時は、できるだけ家の近くで食事をとるようにしている。それは、できるだけ早めに自宅近くまで移動しておきたいという気持ちからだ。いざ、帰宅困難になった時は空腹感よりも家に帰りたいという欲求がまさる。なので、できるだけ早く自宅近くまで移動するようにしている。

5.ヒールの高い靴は近場の外出のみにする
そして、履物だ。
東日本大震災の時、長い距離をパンプスで歩いた。それはそれは辛かった。あとから知ったのだが、パンプスで長距離を歩くことになってしまった場合には、ストッキングを脱いでストッキングでパンプルを結んで歩くと歩きやすいらしい。でも、それでも10kmとか歩くのは辛いものがある。なので、あれ以来、ヒールが高めのパンプスは近場の打ち合わせのみにし、できるだけ歩きやすい靴で遠距離はでかけるようになった。

6.ホッカイロを携帯する
そして、ホッカイロ。
私の荷物には必ず貼るホッカイロが入っている。冬のみならず夏でも入っている。どうしても、寒かったあの日の記憶が影響しているのだろう。売り切れだったコンビニにショックだった事が忘れられない。あの日から、夏であってもホッカイロを入れたままにしている。

7.ビニール手袋を携帯する
ビニール手袋を携帯すること。
これは、当時の東日本大震災の帰宅困難とは直接は関係ないが、万が一、大きな地震にあい、被災者が出た場合の救助時に使えるように使い捨ての手袋を入れている。たぶん、人命救助のため身体が動いてしまうと思う。

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8.SNSはライフライン
そして最後にSNSの存在。

あの地震の直後は、電話もメールもSMSもつながらなかった。だけど、唯一、SNSだけは一度も止まらず動き続けてくれていた。なので、最悪の事態を考えて、家族とはSNSでも連絡がとれるようにしている。
そして、突然の災害時、誰も知り合いのいない社内にとじこめられ、なんの情報もなかった時に、多くのTwitterのお友達がやさしい声をかけてくれたこと。本当に心の底から勇気づけられた。

わたしにとってSNS(TwitterとFacebook)は、何かあった時に助けを呼べるライフラインとなっている。

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日本という地震大国に住む以上、誰でも突然の地震に見舞われる危険性がある。しかし、過去の震災の経験や記憶を、次の災害に活かすこと、そして、できるだけ落ち着いて身の安全を確保しながら、正しく避難できるよう、イメージトレーニングをしておくことが、本当に必要だと思う。

あの日の震災で、お亡くなりになった方。
そして、大切なお身内をなくされた方。
辛く不便な避難生活を余儀なくされた方。
貴重な財産を失ってしまった方。

多くの悲しみや苦しみは、10年経っても大きく薄らぐことは無いだろう。いつの日か少し薄らぎ少しでも心に笑顔が戻る事を願ってやまない。

また、この10年という節目に、もう一度防災・減災について考えを新たにしていきたいと思っている。

次に地震に見舞われたときでも、できるだけ多くの命が助かるよう、そして次世代に生きる子どもたちが、これから困らぬよう、可視化できるものは可視化する、明文化したりエビデンスを積み上げたり。

私達はあの日の記憶から、新しい智慧へと紡ぎ出さなければならない。


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