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万年筆を愛せなかった女の逆襲!~散財の果てに見えた赤の誘惑~

万年筆を手にした瞬間、人は「書く」という行為を再発見する――なんて美しいフレーズだろう。書くことが自分と向き合う時間になり、日々の喧騒から逃れ、静かな世界に没頭できる。万年筆を手にした人々のレビューやエッセイには、そんな魔法のような瞬間が語られていることが多い。それを読んでいると、なんだか自分の人生まで格上げされたような気分になる。ほら、「上質な時間」を手に入れた気がしてくるではないか。

でも、現実はどうだ?4年前、私は満を持して万年筆の世界に飛び込んだ。その時の私は「きっとこれで私も文房具の世界の住人に」なんて、かなり浮かれていたと思う。でも結果はと言えば、散財と挫折が待っていただけだった。いや、もっと正確に言うならば、散財によって生じた痛みと、挫折から逃れるために万年筆を手放した悔しさが、私の中にくっきりと残った。あの時の自分に言いたい。「万年筆は魔法の杖じゃない。使いこなせなければ、ただの高級な棒だ」と。

けれど、今は違う。なぜなら私は、ついに「赤の万年筆」と出会ったからだ!真っ赤なボディ、滑らかな書き心地、そして私自身の「使いこなす」という決意が三位一体となった、運命の一本。散々な過去を超えて、私は万年筆ライフのリベンジを果たしたのだ。その結果、万年筆は私にとって、ただの筆記具ではなく、自己表現のツールとなった。今の私にとって、万年筆は人生の伴侶のような存在だと言っても過言ではない。

この変化には理由がある。4年前の私が直面した挫折、それが今の私を作り上げたと言える。挫折の中で「自分の好き」を見極める力を学んだのだ。そして、その過程で自分を理解するセルフコーチングという技術にも出会い、ようやく「書く」という行為を自分の一部として受け入れることができた。

さあ、これから私の散々だった過去と、そこから見えた新しい視点について語ろう。万年筆の魅力、そして私がどのようにして「赤の誘惑」によって自分を救ったのか、その物語をお楽しみください!


散財は人生のスパイス?いや、唐辛子すぎてヒリヒリする!

4年前、私はプラチナ万年筆#3776センチュリーを購入した。お値段、約16,500円。改めて書くけど、文房具にこの値段ってどういうこと?今の私なら間違いなく「それ、正気?」とツッコむところだが、当時の私はそんな冷静さを微塵も持ち合わせていなかった。むしろ、「これで私も大人の文房具マスター!」と、勝手に人生の格上げを感じていた。ああ、過去の私よ、少しは落ち着け。

事の発端は、某手帳系インスタグラマーの影響だった。美しくデコられた手帳の写真がタイムラインに流れてきて、「私もこんな手帳生活を送りたい!」と心が躍ったのだ。そこからはもう、手帳沼への片道切符である。アシュフォードのHBWA5やM5、リフィル沼というキーワードが脳内を駆け巡り、次々と「買う理由」をひねり出しては散財を繰り返す日々。「HBWA5って正方形だから最高!」「M5サイズは持ち運びに便利!」「リフィルがたくさん選べるって最高!」と、一人で勝手に盛り上がり、「次は万年筆が必要だ!」という結論に至ったのだ。←後から考えれば、どこにも万年筆の必要性なんてなかった。

散財オールスターズ、キャプテン万年筆の誕生

こうして意気揚々と購入したプラチナ万年筆#3776センチュリー。未来の私にとって、この万年筆は「散財オールスターズ」のキャプテンにふさわしい存在だった。なぜなら、他のアイテムはまだ使い道があったが、この万年筆だけは「買った満足感」で終了したからだ。いや、正確には終了ですらない。「真っ赤な万年筆が欲しい!」という夢が、店頭であっさりと打ち砕かれたのだ。

真っ赤な万年筆は店頭になく、代わりに勧められたのがブルゴーニュ色。「こちらも落ち着いた色味で素敵ですよ」と店員さんは優しく微笑んでくれたが、その言葉を信じた私は、後日「落ち着いた」という表現を呪う羽目になった。私が求めていたのは「情熱の赤」であって、「大人のブルゴーニュ」ではなかったのだ。←大人になりきれていない自分を自覚する瞬間。

インスタ沼の住人に未来はあるのか?

振り返れば、あの手帳系インスタグラマーの美しい写真に魅了された時点で、私の散財は運命づけられていた。彼女たちの投稿は、まさに文房具のショーケース。シール、ハンコ、リフィル、そして万年筆……次々に登場するアイテムたちは、どれもこれもキラキラ輝いて見えた。気がつけば、私はその光に誘われる虫のように、「これも買わねば」「あれも揃えねば」と自分にプレッシャーをかけていたのだ。

しかも、私の「買い物の理由」はいつもこんな感じだった。

  1. 見た目がオシャレ:オシャレな人は使ってる!

  2. 高価だから良いに違いない:高い=良い、の謎理論。

  3. 所有欲の満足:使う予定なんてないけど、とりあえず欲しい。

これらの理由を総動員して購入した万年筆は、当然のように活躍の場を得られなかった。なぜなら、私は「買ったら満足する」タイプの人間だからだ。そしてその後、満足が消えた瞬間に後悔が押し寄せてくる。散財とは、私にとって人生のスパイスどころか、ヒリヒリしすぎる唐辛子だった。

こうして、散財のキャプテン万年筆は、購入後ほとんど使われることなく引き出しの奥で眠ることになったのである。これもまた、私の散財人生における名シーンの一つだ。←名シーンにするな。

書けない女、そして「持てない女」~人生は筆記具に厳しい~

筆記具に関して、私は少し特殊な「経歴」を持っている。子どもの頃から、鉛筆の正しい持ち方ができなかったのだ。周囲の大人たちからは、「どうしてそれで書けるの?」と感嘆と呆れが入り混じった声を浴びせられることも多かったが、私自身は特に困っていなかった。「字が書けるなら、持ち方なんてどうでもいいじゃない」というマリー・アントワネットを彷彿とさせる(パンがなかったら、お菓子を食べたらいいじゃない)豪快な思考で育った結果、私はそのまま矯正せずに大人になった。

ところが、そんな自由奔放な筆記具ライフに転機が訪れる。そう、教師になった時だ。子どもたちに「正しい鉛筆の持ち方」を教えなければならないという事態に直面し、ついに私も「持ち方改革」を決意する。近所の書店で購入したのは、鉛筆用の矯正ギプス(まるで大リーグボール養成ギプスみたい)。あの頃の私は、それを装着して「正しい持ち方」を猛特訓したのだ。50音を書きまくり、手が痛くなろうとも、子どもたちに笑われないために必死だった。

その結果、どうなったか?見事に「正しい持ち方」を習得…したわけではない。むしろ、仕事とプライベートで完全に持ち方を分けるという、二重生活が始まったのだ。職場では「正しい持ち方」モード、プライベートでは「好きなように持つ」モード。これが意外と疲れる。だが、子どもの前で「どうしてそれで書けるの?」と言われるわけにはいかなかったので、私は二重生活を続けたのだ。←ある意味プロ根性。

骨折の破壊力、筆記具ライフが完全崩壊

しかし、その二重生活も4年前に終焉を迎える。原因は右手小指の骨折だった。ある日、私は不注意で(っていうか、階段を2階から1階まで後転を2回決めながら落ちて)右手小指を骨折してしまったのだ。これがただの骨折ではない。小指が使い物にならなくなったことで、筆記具の持ち方が完全にカオスに。これまで「正しい持ち方」「自由な持ち方」を使い分けていた私だったが、小指が邪魔でどちらのモードにも移行できないという絶望的な状況に陥った。

特に問題だったのは、筆記具を握るたびに小指が「私もいるよ!」と主張してくることだ。どんなに頑張っても、小指の存在感が消えない。結果、書くこと自体がストレスになり、ついには万年筆に手を伸ばすことすらできなくなってしまった。あのプラチナ万年筆#3776センチュリーも、私の右手事情には勝てなかった。最終的にメルカリ行きとなり、私の万年筆ライフは幕を閉じた。←さようなら、16,500円。

書けない女の「持てない人生」

この出来事から学んだことが一つある。それは、「正しい持ち方」や「高価な文房具」も、結局は自分に合わなければ意味がないということだ。どれだけ努力して矯正しても、右手小指が邪魔をする限り、私は「書けない女」「持てない女」であり続ける運命なのかもしれない。だが、そんな自分を笑い飛ばせる日が来たのも、少し大人になった証拠だと思う。

それにしても、小指というパーツの影響力の大きさには驚かされる。骨折一つで筆記具ライフがここまで崩壊するとは。万年筆を愛用する人生を夢見ていた私にとっては、なんともシュールな結末だった。←これもまた一興。

さて、こうして筆記具ライフは荒波に揉まれているが、私は新しい道具を手にして再チャレンジしている。だが、それはまた別の話。結局、書くことを諦めない限り、私の「書けない女」物語は終わらないのだろう。←なんかカッコよくまとめたつもり。

万年筆リベンジ!オタクの沼で目覚めた赤の情熱

2022年春、私は「My手帳倶楽部」というオンラインサロンに入会した。手帳好きが集うこの楽園は、リフィルの種類やカバーの素材について語り合う人々でいつも賑わっていた。その熱量たるや、「これ、手帳じゃなくて宗教では?」と思うほど。手帳好きはほぼ確実に文房具好き。いや、むしろ文房具オタクと言っても過言ではない。私もその環境にどっぷり浸かるうち、自然と「万年筆lover」の投稿に目が釘付けになっていたのだ。

彼らの投稿は、万年筆を美しい写真とともに紹介するものばかり。インクの色見本を並べた画像や、滑らかな書き心地を語るレビューには、ただならぬ情熱が宿っていた。その情熱に触れるうちに、私の中で眠っていた「万年筆欲しい熱」が再燃。しかも、火種ではなく一気に炎上したような状態になってしまった。←こうして私は、再び沼の入り口に立たされる。

だが、この時の私は2022年バージョン。以前の「ただ欲しいから買う!」という衝動的な自分とは一味違った。なぜなら、「自分軸」が少し整ってきていたからだ。←セルフコーチングの成果。そこで、冷静に自問自答してみた。「本当に万年筆が必要なのか?」と。結果、結論は「必要ではない」だった。珍しく理性が勝利した瞬間である。

手元には既にボールペン、シャープペンシル、ゲルインクペンなど、筆記具のラインナップが充実している。さらに考えれば、万年筆を持っていないからと言って生活に支障はない。むしろ、また散財して後悔するだけでは?そう判断して、私は万年筆への誘惑を振り払ったのだ。←これ、奇跡のような出来事。

しかし、この冷静さが続くのは、この時点ではまだ物語の序章に過ぎなかったのだ…。←続く予感あり。

2024年、推しの一言が全てを変えた

2024年、私の万年筆に対するスタンスは大きく変わった。そのきっかけは、推しである東京大学の酒井邦嘉教授の言葉だ。彼はこう語った。「万年筆は、想像力を高める思考ツールです」。この一言が私の心を直撃した。「科学的エビデンス」が何より好きな私は、もうこの言葉を否定することができなかったのだ。万年筆が単なる文房具ではなく、思考を深め、創造性を高める道具だという事実に、雷に打たれたような衝撃を受けたのである。←これが推しの力。
そういえば、My手帳倶楽部の高田さん、バリキャリ女子2人の動画で言ってたじゃんよ。「思考はアナログ」って。

⬇️参考記事 その1

【記事要約】

言語脳科学者・酒井邦嘉教授に聞く、手書きの可能性と魅力

東京大学大学院教授で言語脳科学者の酒井邦嘉教授は、「手書きや読書が脳を創る」と主張し、その重要性を説いています。本インタビューでは、手書きがもたらす深い思考と理解、教育現場における万年筆の活用、そして万年筆に込める特別な思いについて語っていただきました。

手書きの優位性:タイピングにはない深い思考と理解を促す

酒井教授によると、手書きはタイピングよりも思考を深め、情報の理解を促進します。海外の研究では、講義ノートを手書きした学生の方が、タイピングに頼った学生よりも理解度が高いという結果が出ています。手書きではキーワードを書き出しながら要点を整理する過程で考える力が鍛えられる一方、タイピングは受動的で表面的な記録になりがちです。

手書きの準備が創造力を引き出す

酒井教授は、「手書きする際の準備」が思考を深めるための助走になると述べています。例えば、万年筆にインキを吸入する時間は、書く意欲を高める効果があります。これは弦楽器の松脂を塗る準備や、管楽器の息を整えるプロセスにも通じ、道具への愛着が集中力と創造力を高めるといいます。

小学生から始める万年筆教育の可能性

教授は、子どもたちに万年筆を使う教育の重要性も強調します。万年筆は「消せないからこそ丁寧に書く」ことを促し、思考の整理や深い学びに役立ちます。教授自身、小学生に万年筆を教える機会を持ち、その結果に手応えを感じています。

デジタル化が進む中で失われる手書き文化

デジタル機器の普及で、手書きから遠ざかる若い世代について懸念を抱いている教授。文字には「抑揚」があり、手書きの筆跡にはその人の個性が表れます。オンライン授業の際に電子ペンで書く文字は、線が画一的で視認性が低く、深い理解に繋がりにくいと指摘します。教授はあえて大学のレポートを手書きで提出させることで、学生に考える力を養わせています。

万年筆の魅力と想像力を高める役割

万年筆は教授にとって、単なる筆記具ではなく「思考のツール」です。高校生の頃に自ら購入して以来、研究や日々のメモに欠かせない存在となりました。教授は、万年筆で書く文字の太さや筆跡に個性が出ることが、機械では得られない豊かさを生むと語ります。

まとめ:手書き文化の継承と人間らしい営み

「どんなに機械化が進んでも、手書き文化は人間らしさの象徴として守り続けるべき」と教授は訴えます。万年筆を使う時間やインキの色選びも含めて、手書きには深い喜びと創造性が秘められています。手書き文字が持つ個性や抑揚は、その人の人生そのものを反映するのです。

PILOT かく、がスキ

⬇️参考記事URL その2

【書く部分においての要約】

「書く力」の重要性と現代社会の課題

東京大学教授・酒井邦嘉氏は、AIの進化や教育環境の変化が「書く力」の低下に拍車をかけていると指摘する。「書く力」とは単なる文字の羅列ではなく、情報を再構成し、相手に意図を伝える高度な言語処理能力であり、これが人間同士のコミュニケーションの中核にある。

1. AIと書く力AIは人間の意図や思考を理解できず、記述式の採点などに活用するのは現時点では不可能。
記述式試験の廃止は、「書く力」育成の重要性を軽視する流れを助長しかねない。

2. 書く力の現状と課題学生の「書く力」が低下し、推敲の意味すら理解できない例が増えている。
SNS文化が他者理解や丁寧な文章作成を阻害し、承認欲求中心のコミュニケーションが蔓延している。
日本の教育では、言語の「普遍文法」や深い思考力を育む仕組みが不足している。

3. 書く力の鍛え方多読より深読: 繰り返し読むことで理解を深め、自分の言葉で再構築する。
書き写しの効果: 社説や文章の写経は、思考力や表現力を磨くために効果的。
手書きの重要性: タイピングよりも手書きが学習成果を高める。
マルチタスクの練習: 話を聞きながらメモを取るなどの訓練が必要。

4. 書く力の根本と社会への影響書く力は話す力と密接に関連し、他者理解や思考の深さを反映する。
教育の問題だけでなく、社会全体で「書く力」を再評価し、その育成に力を入れるべき。


酒井氏は、書く力を楽器の演奏に例え、繰り返し練習する中で深みや表現力が増すと述べる。デジタル時代にこそ「書く力」の重要性が際立つと強調している。

ジアース 教育新社

赤強火担の復活劇!私を燃やす万年筆ライフ

ここで知っておいてほしいのは、私が「赤」にとことんこだわる人間だということ。かつてブルゴーニュ色で失敗した苦い経験があるだけに、今回は絶対に妥協しないと決めていた。そして、ついに手に入れたのがプラチナ万年筆プレジール(レッド)とパイロット万年筆LIGHTIVE(アクティブレッド)。どちらも赤強火担としてのプライドを完璧に満たす色味。「これだ!これを待っていた!」と心の中で絶叫しながら、私は再び万年筆の世界へ華麗にリターンを果たした。

今、この2本の万年筆は私の相棒として大活躍している。プラチナのプレジール(レッド)は英語学習に、パイロットのLIGHTIVE(アクティブレッド)はセルフコーチング(ここ!思考!!)にと用途を分け、日々の生活に彩りを添えてくれる。しかも、どちらもリーズナブルな価格で、気軽に使えるところが嬉しい。それにしても、この赤いデザイン!見るだけでやる気が湧き上がる。この高揚感こそ、万年筆の持つ魔力だ。

振り返れば、かつて挫折し、メルカリで手放した過去があったからこそ、今の私はこの「赤万年筆ライフ」を存分に楽しめているのかもしれない。結局のところ、好きな色やデザインにこだわることが一番大切だと学んだのだ。そして、「推しがいいと言ったから」というシンプルな理由が、新しい世界に踏み出す勇気をくれることもある。

さて、次はどんな赤い万年筆に出会えるのだろうか?その期待に胸を膨らませながら、ふと気づく。あれ、このワクワク感、また散財への序章では?いやいや、これはエンドレスに続く赤い誘惑。←それでも止まらないのが私の宿命!

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