勝手にチャレンジ1000 0119 水遣りをしながら思ったこと。

 基本的に放任、放置の庭なのだが、鉢物もあるので鉢に水やりくらいはする。こう暑くて日差しが強ければ地植えのものでもカラカラになりそうだ。
 ホースで盛大に水撒きすればいいのに、何となくじょうろに水をいれてしまったので、水をやってはまた水をいれに水道のところに戻り、また別の鉢のとこに戻り、と、庭の水道の蛇口のあるところと鉢植えをおいてるベランダやら玄関周りやらをじょうろをもって何往復もした。長いホースをずるずる引きずって、濡れた土がついたホースをジャリジャリと音をさせながら巻き取るのもかえって面倒な気がしたからだが、じょうろで水やりをするのは結構好きだ。祖母に言われて、町家の小さな庭を水を撒いたり道路に打ち水をしたりしたときの記憶がよみがえるからかもしれない。コンクリートやアスファルトに水のあとが残る。じょうろの持ち手を細かく振って、無限大の模様ををたくさん、素早く描いたり、波々やぐるぐると丸い連続模様を描く。たっぷり遊ぶと、凪がやんで動き始めた風で辺りの空気が少し涼しくなった。
 近年の、殊に去年、今年の暑さはそんな牧歌的なものではなく、最初に出てくる水がそのままお風呂のようなお湯である。けれども、そういえば細い管に水を通して温めるってのが瞬間湯沸かし器の原理だな、、等と思いつつ水をだし、巻き取ったホースの中に残っている水が出きってしまえばそれなりに冷たい水が出てくる。
 水道の水をたくさん出して撒くのはなんだかもったいないような気がするのはなぜかな。昔の水不足とか、取水制限とかの記憶があるからか?昔は雨が少ないとすぐ水不足になって、水道局が水圧を下げてあまり水がでなくしたり、ちょっとだけ断水とかもあったような気がする。学校の手洗い場には「水は大切に」、って張り紙があったりした。今でも取水制限とかあるのだろうか?電気とか、水道とか、あまりに自然にそこにあって、使っても使っても(お金はかかるけど)絶えず供給されていることに改めて驚く。昔より水源が豊富になったとか、水量が豊富になったのか?技術が進歩したとか、なのだろうか。気にしなければ気にならないけど、少し気になる。それでもやっぱり、鉢植えだけでなく、池にまで水をいれてやると、新しい水が満ちるにつれ水温も下がり、池の中の生き物が喜んだり、庭が息を吹き返したりするのじゃないかと、勝手に想像する。

 そういえば昨日は盛んに雷が鳴って、それは一雨くるかな、と思ったのだけど結局降らなかった。降水量1ミリとかの小雨でも、降ったら少しは潤うだろうが、よく考えたら、この地域一帯に一ミリってどれだけの水量なのだろう。ましてや「バケツをびっくり返したような雨」を、ひとつの町、市、広ければ県とか地方の広さにぶちまけるってどれだけ大きなバケツ!

 昨夜保冷剤を枕にして床に寝転んでいたら床がびしょびしょになって、保冷剤からも水が滴っていた。湿度が高くて蒸し暑い空気にどれ程水がふくまれているか驚く。そんなことがあったので空の上のことまで考えてしまった。その大きなところでは差し引きゼロ、というか、帳尻はあっているのだろうけど、適度に冷えて適度に降る、かつての夕立のような降り方が少なくなったな、と思ったのだった。

 私もそこそこ年を取ってきたので、「いいおしめりですね」みたいなことを言ってみたい。

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