勝手にチャレンジ1000 0118 夏の夜の庭の気配がマジヤバイ。
夏の盛りの頃、夜、庭に出ると、その瞬間に、夥しい生命たちの、濃厚な気配に包まれて驚くのが常だった。小さな池はツチガエルの天下で、競うように盛んに鳴いているのが、一歩踏み出したとたんにピタッと止む。騒々しい合唱が一斉に止んだ静寂のなかで、侵入者を警戒して息を潜め、気配を消したカエルたちの気配が際立つ。更に歩みを進めると、ポチャポチャと池に飛び込む小さな音が次々に起こる。カエルがとりあえず池に避難、とばかりに動き出すだすのだ。そして、しばらくして鳴くものがまた鳴き始めると、緊張がほぐれたかのように、周囲にはいっそう蠢くものを感じられるようになる。暗闇に存在する多数の命は、草の陰に潜む羽虫や微かな光に集まる蛾や甲虫だったり、あるいはそれらを狙うもの達だったり。ヤモリが窓に張り付いている。カナヘビや青い尻尾のピカピカしたトカゲは石の下で休んでいるのだろう。土の上や土のなかでもいろいろな生き物が、一生懸命もぐもぐしたり、にょろにょろしたり、がさがさしたりして、食事や繁殖をしている。じっと耳を澄ませば、なにかが葉っぱを食べる咀嚼音まで聞こえそうだ。遭遇したくはないが、ゴキブリだって家から家に道路を渡っているかもしれない。そして、きっと人知れず、セミやトンボや蝶々が殻を破って誕生しているはずだ、でなければ朝、あんなにたくさんの脱け殻が見つかるわけはないもの。そして、一方では、地上に転がったセミが最期の時を迎えている。夜が明けると、それは白い腹を見せて、乾いて空っぽの、セミだったものになる。食うもの食われるもの、産卵や羽化や脱皮。生と死。夏の庭は、カエルの声だけではなく、賑やかだった。
くりが、「外に出る、連れてけ」というので、昨夜、一昨夜と真夜中の庭に出る。このところうっすらと感じていた違和感を確信する。虫、というか、あの、夏の夜に感じる気配がない。暑いのは暑い。しかし、昼間があまりに酷く暑いので、少しその熱気が収まり、30℃でもむしろ少し清々しい。カエルは変わらずピョコピョコと出歩いているようでくりが喜んで飛び付くのを難なくこなして逃げていく。池に近づくと変わらずポチャポチャと音はする。しかし、木の影も草むらもなんとなくシンとしている。人間と犬を警戒している風もない。なにもいない静寂。美しい月に照らし出された庭で、一瞬、秋が来たのかと思ったりもしたが、きっと、本当に、絶対的に生き物の個体数が減っているのだと思った。
例えば、今年はヤモリをみたのは二匹だけ。トカゲはここ数年少なくなっていたが今年は一匹もみてないしカナヘビも数回目撃しただけだ。思えば、いろんなものを見なくなっている。毎年、とりあえずひと番い、オスとメスを一匹ずつくらいはみていたカマキリを今年は見なかった。捕食者が少ないということはエサが少ないということではないだろうか?帰ってきたと喜んだヨモギハムシもあの一匹だけ、蝶もカナブンもトンボ数えるくらいしか見ていない。蜂は数も種類も少ない。ナメクジは通ったあとに光る筋を残して存在を示しているが、カタツムリはもう数年来一匹も見ていない。そういえば、秋の虫でなく、例年夏の暑いときから鳴いている外来種、アオマツムシの、耳が痺れる金属音のような声もない。決して少ないわけではないが、蚊ですら例年よりは少ないような気がする。
なにかが変化してしまったのだ。
草むらにすだく虫の音が聞けるかどうか心配になった。そして、昨年末、それまでは、例年玄関にかざるや否やしめ縄の稲穂を丸坊主にしてしまっていた雀たちがちっとも来なくて、三ヶ日過ぎても稲穂がきれいに残っていたのを思い出す。すずめたちはどこにいったのかと、今年は年初からそこはかとない不安があった。このまま、静かな秋となり、冬となれば、きたるべき春はどうなるのか?沈黙の春が現実のものとなったらどうしよう、と、うろたえ、何か、深刻な気分になった。
しかしながら、去年は、真夏は暑すぎるのか九月にはいって、少し気温が落ち着き始めた頃、猛然と薮蚊が活発になって目についた。願わくば、他の生き物たちもお盆過ぎてから息を吹き返すように出てきてくれたらなー、と思う。こんな、蚊にまで希望を託す気持ちになる。
マジヤバイよ、負けるな庭の生き物たち!
そして、もし、このまま、日本や世界が酷暑厳寒の厳しい環境に変化していくなら、今は少し数が減ったとしても、1年1年その試練に耐えながら変化に適応し、じわじわ数を増やし、命を繋いでいってくれるといいなと思う。人間も何だか死にそうだけど、人間より弱いが強い自然の底力で、こんな、人間が造り出した温暖化の世界になんか負けないでいてほしい、と思うのだった。
明日の夜に庭に出て、やっぱり賑やかで生命に満ちた気配が横溢していて、なんだ、私の思い違いだったのだな、と、思えますように。