見出し画像

『行かないで』1 カバー by ディマシュ:魂の物語 実況的妄想感想


                 (Dimash No.1)
                 (10,934文字)
                 (第1稿:2022年6月29日~7月2日)
 
 
動画:『Dimash - Ikanaide | 2021』  
     by Dimash Qudaibergen 公式  公開日:2022/02/06
   ※2021年11月29日 「20th TOKYO JAZZ FESTIVAL」初出

 
 (注:歌詞の部分は、作詞家の松井五郎氏が書いたそのままではなく、漢字に直した部分があります。)
(ちょうど1年前にこのシンガーに出会ってのち、誰に読ませるでもなく、テキトーに書き始めてしまったので、挨拶も前置きもなんにも無しにいきなり始まりますが、ご容赦ください。ってこれが前置きかしら??)
 



(イントロ)

 音楽が始まり、ディマシュの顔にピントが合うと、彼の右目が半分閉じられている。
 すでにこの歌のイメージの世界に入っているらしいことがなんとなくわかる。
 スタジオ全体が白っぽい灰色の光に包まれていて、とても美しい。
 映像の世界では、白っぽい背景は「特殊な場所」であるという演出がなされることが多い。
 彼の着ているセーターの深緑が、とても印象的。
 東洋の荒涼とした高い山を歩く求道者が着るような、シルエットとイメージを感じる。
 色彩の数が少ないので、見ている方も歌の世界に集中していく。

(ヴァース1)

《なにも 見えない なにも》 
 最初の「なにも」で、もう驚愕。 
 こんな声で歌うのかね? この子は?
 今まで聞いたことのない、優しく静かで柔らかい、ウィスパーボイス。
 しかも、ギターのフィンガリングノイズのような、息が声帯を擦る音まで聞こえるんですけど!??
 さらに、この場所ではないが、弦楽器の「ナチュラル・ハーモニクス」のような高音が聞こえているところまであるんですけど!!???
(「ナチュラル・ハーモニクス」とは、左手の指で弦に触れた状態でその弦を弾き、直後に左手の指を離すと出る「倍音」のこと)
 そんな音声を、歌っている最中の歌手の声に聴いたのは、私はこれが初めてだ。
 私は声楽の専門的な事はわからないけれど、素人にもはっきりわかる、彼の歌唱の「人外魔境」ぶり。
 この「なにも」の時点で目が点になるのと同時に、ディマシュの歌に完全にやられました。
 そして、イントロのディマシュと、歌に入ってからのディマシュの雰囲気の違いがまた凄い。
 イントロでは厳しい顔をした「音楽家」だったのに、歌い始めたらなんだかすごい淋しげな男の子になってしまって、彼の人格が歌詞の中の人格に完全に変わってしまっている。
 ということで、歌詞の中の人格を「主人公」と呼ぶことにする。
 この主人公は、なぜこんなに淋しいのか。
 彼は今、「一次元」に閉じ込められ、ただの点でしかない状態だ。自分以外に誰も、何もない孤独の中にいるからだ。
 また、この場面の歌詞では、歌の主人公が「暗闇」の中にいる、または目の機能を失っているという、これ以降の歌の世界にとって重要な「提起」がなされていることを覚えておいていただきたい。

淋しい少年、一人称

《ずっと 泣いてた》
 えええ……、微笑むのかここで? 歌詞は「泣いてた」なんだが??
 前のフレーズの「提起」は、作詞の段階での提起だったが、ここでは歌手のディマシュの「物語を語る」という能力が現れてくる。
 口では「泣いている」と言っているのに、それを歌う彼の顔には、何かを愛おしく思い出しているような不思議な微笑みがうっすらと広がっていく。
 言ってみればこれは、次のフレーズへの「叙述的なトリック」のようなものだ。
 すでにディマシュの歌の美しさに我を忘れている聴衆は、この時の歌詞と表情の矛盾に瞬間的に気がつくことはないかもしれないが、無意識はちゃんと気がついている。
 その矛盾の意味が分かるのが、次のフレーズ。

《だけど 悲しいんじゃない》
 うわあぁぁ、きれいな声(うっとり)。
 ここで、前のフレーズの「歌詞と顔の矛盾」の謎解きがされる。
 我々は、意識の上ではディマシュの歌唱の素晴らしさに満足しているが、同時に無意識下でも「矛盾の謎解き」をされたことへの満足も発生する。
 2重構造の美的表現。凄すぎて、うなるしかない。
 前のフレーズでは、主人公は「一次元」に閉じ込められたひとつの「点」でしかなかった。
 だが、このフレーズの「だけど」を歌うディマシュは、両手を横に広げ、手首を少し立てて、バレエのマイムのような動きをする。
(タイトル上の画像参照)
 この動きはまるで「点」と「点」を繋げる直線のように見え、「一次元」にいた主人公に何かが起きたことを我々は察知する。
 また、ここの歌詞の最後の「ない」の部分で、共鳴の多い深い声になり、主人公が今までの「ウィスパーボイス」とは違って、思考を伴った意志を表明していることが分かる。
 他人か、それとも自分自身か、またはそのどちらもか、誰かを説得しようとしている。
 そしてその説得の理由も、次のフレーズで明かされる。

《あたたかい あなたに》
 さらに驚愕。
 ディマシュが「あなたに」と歌った次の瞬間、ディマシュの右側の空間に「あなた」と歌われている人物のホログラム、または残像、または思い出が浮かび上がってくるのだ。
 これは私の妄想的な脳味噌が勝手に空想しているのかもしれないが、勝手にそんな空想をさせるだけの言葉の表現力が彼の声にはある、ってことだと思う。
 で、ここら辺でやっと気がつくのである。
 あっ、日本語だったこれ! 
 てことは、ディマシュにとっては外国語であるはずの日本語なのに!? 
 えええっっっ!!??? と。
 つまりディマシュの日本語は、それが日本語だとわかっていながら、日本  人の私が途中までそのことに全く気がつかないくらい自然な響きなのだ。
 もう信じられん。
 さて、ここで歌詞の中に主人公を「二次元」へと導く別の点、「あなた」が登場した。
 主人公が切望していたもうひとつの点、もうひとつの世界。
 暗闇にいる彼に、別の感情が発生する。

《触れたのが うれしくて》
 前のフレーズの「あなたに」の終わり近くで、ディマシュは目を閉じる。
 歌の主人公は今、自分の皮膚の上に残っている「あなた」の感触を思い出している。
 そして次のフレーズで、前の「悲しいんじゃない」という意志表明の理由が明かされる。
「うれしくて」
 彼は強いはっきりした声で、意志を持って、そう我々を説得する。
 それが泣いていた理由だったのだ、と。
 だが、今度はここでディマシュは辛そうな表情になる。
 また矛盾した表現だ。
 それはなぜなのか。

(コーラス1)

《ああ 行かないで 行かないで》
 最初の「ああ」の、エモーションの表出のすごさってばもう。
 そして次の「行かな(いで)」のフレーズ。
 この時の彼の声の、美しさたるや!
 宝石が日の光を受けて、一瞬燦然と輝くような、ブリリアントなこの声。
 どこかへ去ろうとしている、あるいは去って行った「あなた」を、なんとかして呼び止めようと、自分の全存在を賭けて「懇願」している声だ。
 だが、次の「行かないで」では、また内省的で感傷的な「ウィスパーボイス」になる。
 主人公は、自分が決して叶わない無理難題を「あなた」に「懇願」していることに気がついている。
 それが、前のフレーズでの言葉と矛盾した表情の表現の「意味」ではないかと思う。

《いつまでもずっと はなさないで》
 自分の願いが叶わないことを踏まえ、主人公は「懇願」の意味を変える。
 行ってしまうのならばせめて、と、両手を広げ、彼は意志を持って語りかける。
 私も「あなた」も、この嬉しかった邂逅を、その身から離さないで、忘れないで、と。

《ああ……》
 YouTubeにある、この曲への多数のリアクション動画で、海外のヴォーカルの先生方が声をそろえて insane(非常識、またはヤバ過ぎ)なテクニックだと感嘆する、「チェストボイス」から息継ぎなしの「ウィスパーボイス」への移行。ひとつ前の「ああ」でも使われているが、こちらの方がメチャメチャすごい。うっとりどころの騒ぎじゃないよもうね。
 ディマシュのこの声の変化は、主人公が意志を持って語りかける外向きの状態から、自分の内側に戻って、自分の感覚に集中する内向きの状態に移行していく過程のようにも聞こえる。
 また、主人公は今、広げた両手のうち、右手に残る記憶を感じている。
 それは、ディマシュが最初は意志を持って右手を前に押し出していたが、ウィスパーボイスへの変化に呼応して、その右手が自分の身体に無意識のように引き寄せられ、途中で止まってしまう動きから、そういった意味を見て取ることができる。

《行かないで》
 だが、このフレーズで主人公は、前のフレーズで決意した自分の意志とは裏腹に、自分の両手から「あなた」のあたたかさが失われていくのを発見する。
 聴き手(私)は、なぜそう思うのか。
 ディマシュはこのフレーズの最後に、左手をゆっくりと持ち上げ、薄く目を開くと、左手の掌を見て、すぐに目を閉じた。
 この一連の動きから、「主人公の手の中で起こっている出来事に主人公が驚き、不思議に思っている」かのような意味を、聴き手(私)が読み取ってしまっている、いやむしろ読み取らされているからだ。
 そして、この項目の最初に書いたようなストーリーが自然と組み立てられていく。
 並外れた歌唱の効果だけでなく、彼の身体表現からも、彼の芸術性がよくわかる場面だ。

《行かないで》
 手の中にあったはずのあたたかさは、刻々と失われていく。
 主人公は自分の両手を胸に当てて、わずかに残ったあたたかさを確かめようとする。
 だがそれもまた、儚くも消え去って行ってしまう。
 ディマシュは最後に、左手を前に出して、何かをそっとつかもうとするかのような身振りをする。
 ここでまた、ホログラムが見えてしまうのだ。彼の左手にいくつか残っていた小さく輝く愛おしい何かが、ゆっくりとひとつずつ消えていくのが。
 主人公は、自分の手から消えていく「あたたかさ」に向かって、「行かないで」と願っている。
 その少し前、主人公が両手を胸に押し当てた時、彼は自分の胸の声を聴いてもいる。
 彼の胸は、なんと言っているのか。
 それはこの曲の最後あたりへとつづく。

《このままで》
 行ってほしくなかった「あなた」も、離したくなかった「あなた」の感触も、結局は残らなかった。
 残ったのは、自分の「願い」だけ。
 歌っているディマシュは、フレーズの最後にまぶたを閉じる前、瞳の中に「空しさ」、自分の意志を裏切る自分への「失望」の色を浮かべるのだが、いやもうね、そんなことがホントに出来るのか!?と思うよね。
 だが、おそらく彼は「自分の思い通りに歌えない自分と、自分の思い通りにならない身体への失望」を、声の訓練や観客の前で歌う時に、何度も何度も繰り返し経験していると思う。
 それは、表現者の宿命でもあるのだが、その経験がこういう瞳の色を生んでいるのだろうと思う。

ー「物語」の構造解説 ー

 ここまでが、最初の 「何も見えない、何も」 の歌詞が提起した、主人公が暗闇にいなければならない理由だ。
 ヴァース1(1番)の歌詞の焦点は「あたたかさ」にあって、その「あたたかさ」は、主人公の皮膚感覚からもたらされたものだった。この皮膚感覚に焦点を当てるためには、人間の感覚器官で最も上位にある「目の機能」を閉じる必要がある、という感じかな。
 つまり、この歌の1番の内容が「感じる」世界であることを前提としていることを聞き手に理解してもらうための「何も見えない、何も」だったのだ。私の妄想的には、ですけどね。
 そして、印象的なベースの音をきっかけに、歌は転調する。
「世界」が、変わる。

(ヴァース2)

《いつか こころは いつか》
 前の世界で、主人公は「なにかが消え去っていく経験」をした。
 それによって主人公の「感覚の世界」に「いつか」という「時間の概念」が発生する。
 その「時間」の長さ、果てしなさ、へだたりをあらわすのが、ディマシュの歌唱のデクレッシェンドする「トレモロ」と、そのトレモロに合わせて波のように動きながら離れていく彼の右手だ。
 転調の直前までその右手がディマシュの胸の上にあったことから、見ている我々は、遠ざかる彼の右手には主人公のこころが乗っているような印象を持っている。
 それは、歌の焦点が主人公の「こころ」に移ったことを表しているように見える。
 そしてこのフレーズ全体で、ディマシュは声のトーンを深く響くはっきりした状態に変えた。
 そのため、主人公がしっかりと目を見開き、光を見て、「認識の世界」に入ったことを表わしているように聞こえる。
 視覚的にも、この場面から頻繁に画面に映り込んでくるギターヘッドの「エメラルド・グリーン」とその右隣のアンプの「オレンジレッド」が、「光の三原色」のうちの2色であり、アンプの右隣のアコギの「黄土色」と、たまに見えるギタースタンドに付いているタグの「イエロー」が、前述の2つの光を混ぜると、網膜の都合で見える色なので、「目は見開いている」という暗示のように受け取ることもできる。
(三原色の残りの「ブルー」は、動画の後半で2回だけ映る、窓の外の夕暮れの色)

光の三原色

《遠い どこかで》
 我々は、前のフレーズのトレモロ表現を聴いているので、ここでの「遠い」の遠さを知っている。
 この「遠い」の時の歌声は、引き続きはっきりした認識の声なのだが、次の「どこかで」の、特に最後の「で」の部分で、うっすらと「ウィスパーボイス」の混じった甘い声になっていて、主人公はその「どこか」に対して、なにか憧れのような気持ちを持っているように聞こえる。
 ディマシュも、ここで少し微笑みを浮かべている。
 作詞家が書いた「どこか」がどこなのかは、作詞家様本人に聞かないと分からないが、ディマシュが歌う「どこか」には、架空の美しい場所、シャングリラとか極楽浄土とか、いろいろ呼び方はあるだろうが、魂が最終的に行きつく場所、のようなイメージを、彼の表情から思い浮かべてしまう。
 主人公はどうやら、あの場所に行けば、また「あなた」に会える、と感じているようだ。
 ついでに言うと、最後の「で」の時にディマシュが2回まばたきをする。これは、この時偶然、彼の前髪のひとふさが右のまつ毛に触れ、そのために彼は反射的にまばたきをし、まつ毛に触れた前髪が2回、揺れるのだ。
 か、かわいい……。
 この瞬間の偶然が、驚くべきことに、主人公の束の間の幸福感とシンクロしてしまっている。
 ファインプレーだよ、ディマシュの前髪。
 そしてカメラマンさん、よくぞアップで録ってくださいました。
 この動画、いろんな意味でほんとうにクオリティが高いと思う。

《みんな 想い出になると》
 だが急転直下。
 時間の概念を知ってしまった主人公は、その場所に行きついたとしても、時間の作用によってあらゆるものが形を失い、おぼろげな「思い出」しか残らないことを認識する。
 遠いどこかで再び「あなた」に会えたとしても、また失ってしまうのだ、と。

《知らなくて いいのに》
 このフレーズでは、この歌の世界に初めて「オペラ歌唱」が登場し、今までとは全然違う人格が登場して来たように聞こえる。
 それは、小説でいうところの「地の文」、または主人公の「ハイヤーセルフ」、または「神の視点」のような、遠い未来を見通す力を持つ存在のようだ。
 そういう人格が、主人公が知らなくていいこと、つまり、この世のすべてがいつか消えてしまうこと、しかも認識の主体である「彼自身」でさえも、いつか消えてしまうという、厳然たる事実を彼が認識したことを宣言している。
 ただそこには、ヴァース1の歌詞で描かれたような、他者の暖かさに自分の喜びを重ねる、愛らしくも心弱い人間が、この世のある種の残酷な「ネタバレ」をされてもなお粛々と生きていくことができるのか、という懸念があるようだ。
 我々は「死」という概念を知りつつ、なぜかその中に自分の未来を含まないという不思議な信念を持っていることで、かろうじて正気を保って生きているようなところがある。
 神の視点、あるいは彼のハイヤーセルフは、そのことを危惧している。

《知らなくて いいのに》
 前のフレーズと同じ内容を、今度は認識の世界に立った主人公が歌う。
 知らなくても良かったはずの事実を、彼は知ってしまった、そして驚き、怒っている。

(コーラス2)

《ああ 行かないで 行かないで》
 ヴァース1のフレーズの「行かないで」では、主人公は「あたたかい、あなた」、その「あなた」と分け合った記憶に向かって歌っていた。
 だがここからは、主人公は自分を含むすべての生きとし生けるものに向かって「行かないで」と懇願しているようだ。
 ヴァース1では自分と特定の他者との「最少単位の世界」の存続を望んだが、2ではそれがもっと大きな枠組みの世界に変貌し、それだけ主人公の認識が及ぶ世界が広がったように聞こえる。

《どんな時でも  はなさないで》
 さて、ここまで来てディマシュ君、前のフレーズの終わり頃に、次のフレーズ(つまりここ)の歌詞を忘れそうになったのか(非常にレベルの高いパフォーマンスの時に限って稀によくある現象)、ちょっと微笑んで、目線を右斜め下にある楽譜に向けます。
「どんな時」の箇所で、今まで作り上げた歌の世界を壊すことはないけれど、ちょっとだけ歌への集中から離れて、歌詞を読むことに集中してしまいまして、それであの、両手でちょっとリズムを取るような、しかもテンポが合ってるような合ってないような、なんとも可愛らしいダンスをつい、やらかしてしまうんですね。
 ちょっとだけ、いやかなり、素のディマシュのようです。
 めっちゃ可愛いです。
 次の「はなさないで」では、自分を立て直してます。一生懸命です。
 もう可愛いです(特にレトリバー犬のような胴震いが)。
 ところがですね、このちょっとしたアクシデントが、あとですごく生きて来ます。面白いですね。
 というわけで、この箇所だけ、ディマシュの表現は保留っていうか、他のフレーズより少しだけ薄いので、詩の内容と、これまでのストーリーの流れから推察すると、どんなにつらい認識が待っていても、あの時感じた幸福を持ち続けたい、自分を自分たらしめている大切な何かを手離してはいけない、そういう意志の強さを自分は今、必要としているのだ、みたいな感じかな、と。

可愛いダンス


《ああ 行かないで 行かないで》

 ディマシュが身をよじって右手を伸ばし、最後の「で」の箇所でマイクと自分の距離を離す仕草をすることから、主人公がこのフレーズで「行かないで」と懇願する相手が、「行ってしまうもの」の総体としての「時間」に移行しているように感じる。

《このままで》
 ディマシュは前のフレーズの最後と、このフレーズの最後の部分で美しい「ラン(こぶし回し。フェイクの一種)」を入れているが、このランが下降して音階を下りて行き、それが主人公の位置の変化を表わしているようだ。
 最後の部分でディマシュは左上を見上げる。
「このままで」と願っているのに、そう願っている何かは、どうやら「遠い上の彼方」に去って行ってしまったらしい。
 というよりも、主人公のほうが深く落下してしまったために、その何かと距離が離れてしまったようだ。
 その何かが見えなくなってしまったので、彼は視線を戻すが、その顔には痛々しい表情があらわれる。

(インタールード:ヴォカリーズ)

 出ました、奇跡のハイノート。
 ヴァース1で「感覚の世界」、2で「認識の世界」にいた主人公だったが、この場面で主人公の世界はさらなる「次元移動」を起こす。
 彼の前に突然現れた天使が、背中の真っ白い大きな翼を広げ、二度、三度と羽ばたき、彼を包み込む。
 天使の声に乗って彼の魂は上昇し、雲を超え、地球を超え、漆黒の宇宙の彼方にまで飛んで行ってしまった。
 おそらく主人公はそこで、至高の存在、時間の神、宇宙の法則、名前はともかく、そういう存在がいる場所で、何かに出合う。
 ディマシュの表情を見ていると、このハイノートを出すためにどれだけのエネルギーを使っているかがわかって、聴いてるこちらは胸を打たれるのだが、それがまた歌の世界に反映されてしまって、次元の上昇とか軽々しくおっしゃいますけども、これから大変なことが起こるんですよ、覚悟してくださいね、みたいな警告を発する天使の声のようでもある。
 しかもですね、このヴォカリーズの途中には、なんと『荒城の月』のメロディが隠されているのだ。
 滝廉太郎だよ。びっくりしたわ。
 ディマシュ、ありがとう。
 歌はさらに、転調する。
 そして……。

天使のハイノート、『荒城の月』出現箇所

(コーラス3)

《ああ 行かないで 行かないで いつまでもずっと はなさないで》
 漆黒の宇宙を背景に、だがそこは神のおわす場所なので、真っ白い抽象的な世界でもある。
 彼はそこで、至高の存在に向かって、あるチャレンジを開始した。
 最初の「行かないで」でカメラの位置が少し下がり、ディマシュの足元が写り込むと、彼の両手両足がなんらかの武道の構えを取っているのが見える。
 以下はそこからの妄想。
 チャレンジする相手は、難しく言うと「熱力学の第2法則」、簡単に言うと、「死」という概念。
 物語的に言うと、その名は「タナトス」、死を司る神。
 主人公は、これまでずっと受け身の状態で、願いが叶うことをただ待っているだけだった。
 ところがここで彼は初めて、みずからアクションを起こす。
「神」に、楯突くのである。
 絶対に負けると分かっていても、挑まずにはいられない、宿命への怒り。
 すべての愛すべきものを易々と奪い去って行く「タナトス」への、抗議。
 自らの激情のままに、暴れ回り猛り狂う主人公。
「タナトス」はそんな彼を、表情も変えずにただ黙って眺めている。

 さてここで、2番の「どんなときでも」でディマシュが歌詞を忘れそうになってしまってつい、素のディマシュが出てしまった、あのアクシデントに話は戻るのだが、そのことが今、彼の声の中にディマシュ自身の、何らかの辛い経験が混ざっている気配となって私の耳に届いている。
 それは、この完璧に近い動画の中で唯一、あの愛らしいアクシデントによって出来てしまった小さな傷口、そこから密かに漏れ出している、彼の生身の感情のような手触りだ。
 そしてそれは、聴き手が人生の中で経験した同じような辛い出来事やその時の感情と、共鳴を起こしているらしいのだ。
 自分の心の中に深く沈殿してしまっていたその感情、その記憶が、全身全霊で献身的に歌う彼の声によって、もう一度無意識の奥底からよみがえり、彼の声の美しさ、パフォーマンスの真剣さ、ゾーンに入ったかのような彼の集中によって、人生への贈り物に変わっていくような、そんなようなことを感じながら聴いてしまっている自分がいる。

《ああ 行かないで》
 ハードロック的なシャウトから続くこのフレーズで、主人公は自分が勝てないことを悟り始める。
 そして、彼は知る。
 主人公は最初に「悲しいんじゃない」と歌ったが、本当は「悲しかった」のだ、と。
 嬉しくて泣いていたのも事実だけれど、悲しくて泣いていたのもまた、事実だったのだ、と。
 それが、1番の最後あたりで両手を胸に押し当てた時、彼が聞いた自分のこころの声かもしれない。
 そしてここまで書いて気がついたが、ヴァース1の「うれしくて」の言葉の意味と表情の矛盾も、そういうことだったのか、と。
 ディマシュの声に、悲哀の色が混ざっていく。
   
《行かないで このままで》
 主人公の「こころ」はついに、宿命に抗うすべは無いことを受け入れる。
「知らなくていいのに」と、神の視点、あるいはハイヤーセルフが危惧したことが起きてしまった。
 自分の意志を裏切って、「こころ」がそれを受け入れてしまったことに、主人公は悲鳴を上げる。
 ディマシュが両腕を振り上げ、叫びと共に彼のパワーが太陽フレアのように周囲へ放たれる。
「このままで」の「で」の直前で全ての楽器が鳴り終わり、ディマシュのア・カペラのロングトーン。
 主人公はタナトスに向かって、子供のように最後のわがままをぶつけた。
 そのパワーは自分自身の魂を破壊し、彼はついに粉々に砕け散ってしまった。
 漆黒の宇宙から青い地球へと、彼の魂が幾多の彗星となって落ちていく。

(ブレイク)

「魂の死」の空白。無音。

(アウトロ:ハミング)

 もといた場所で、彼は息を吹き返す。
 それがなぜかは彼にはわからない。
 だが、ここまで聴いてきた我々にはわかる。
 それは、主人公が持ち続けていた、「あなた」がくれた「あたたかさ」の「思い出」が持つ力だ。
 そして、息を吹き返した彼は、完全に変容してしまっていた。
 ディマシュは、この曲の中で最も美しいと言ってもいい「ハミング」を、無音の状態から紡ぎ出す。
 3フレーズ目の上下する超低音のハミングは、あまりの美声にこちらの魂が破壊されるレベルだ。

 天使の声によってタナトスの前に連れ出されるまでの主人公は、若くて無謀で愛らしいが、世界の本当の姿を知らず、この世の理(ことわり)を覆せると思っていた。
 ただ、愛されて嬉しくて、泣いていた無力な子供だった。
 そんな彼がタナトスに挑戦し、この世の理(ことわり)を受け入れたことで、子供の彼は消えた。
 最初は点でしかなかった「わたし」の「一次元」だった世界に、もうひとつ点である「あなた」が加わり、「二次元」の世界となった。
 そのあと、失うことで「時間」が発生し、天使によって「高さ」が発生し、「三次元 + 時間」という現実世界になったのだ。
 そして彼は、成人した男性に変容した。
 ハミングの「超低音」は、そういうことだ。
 この世のすべてはいつか消え去っていくが、その宿命ごと、この世を愛する力を彼は得た。
 なぜなら、と、今の彼は答えるだろう。
 消え去っていく宿命を持つからこそ、この世は美しく、愛する価値があるのだ、と。
 主人公はこれから、「死」を友として歩いていく。
 美しく、愛すべきこの世界に対して、自分に出来ることはただひとつ。
 祈りを捧げるのみ。

 これは、そういう魂の物語。


(「実況的妄想解説」 終了)
(「あとがき・妄想考察」へ続く → yoko-tzm (note.com) )

             (第1稿:2022年6月29日20時~7月2日4時)                         
             (校正:2022年8月8日)
             (最終校正:2023年5月17日)

いいなと思ったら応援しよう!