『OMIR(Life)』 by ディマシュ・クダイベルゲン 感想&妄想考察 Part.1
「Dearsの動揺と、魂を引き出すライム(韻)& サウンドマジック」
(Dimash No.18)
(7589文字)
(第1稿:2023年5月31日)
動画:『Dimash Qudaibergen - OMIR | MOOD Video』
by Dimash Qudaibereden(公式)
【 ショックを受けるdears 】
(注: dearsはディマシュのファンの総称です)
2023年5月24日。
ディマシュの誕生日にあたるこの日、彼の方からファンであるdearsに
贈り物が届けられた。
『OMIR(Life)』という、彼が始めて作詞したという新曲のMVだ。
それを予告する彼のインスタグラムの投稿文には、歌の内容を伺わせるような「白と黒が反転し」「幸福と悲哀がより合わされ」「喜びは悲しみに
置き換わり」という文言が連なっており、かなりヘヴィな内容の歌ではないかと推察することが出来た。
その曲は、カザフスタン時間の夜8時、日本時間の夜11時にYouTubeで
公開された。
MVが始まり、歌詞の英語字幕を見ながら聴いていた私は、絶句した。
これは、大変なことになった。
若いDearsが心配だ。
おそらく彼らは今頃、ショックを受け、打ちのめされているだろう。
急いでインスタグラムを開き、フォローしている彼らの動向を見ていた。
夜2時まで見ていたが、だれも何も投稿しないようだ。
次の日まで待つことにした。
次の日になり、インスタとYouTubeの両方に、この歌の感想やリアクション動画が続々と投稿され始めた。それらを見たり読んだりしながら、自分の予感が当たっていたことにまた、絶句した。
Dearsは、本当にショックを受け、打ちのめされていた。
【デ・ジャ・ヴ】
それは、高校生でロックバンド「クイーン」のファンになった私が経験したことの「デ・ジャ・ヴ」だった。
音楽のジャンルに限らず、質の高い作品やアーティストはいとも簡単に
作品を見聞きする人のそれまでの世界を壊し、新たに再生させる。
当時の女性洋楽ファンのご多分に漏れず、私はフレディ・マーキュリーのボーカルによってそれまでの世界をすべてくつがえされた。その時のあの、全てが崩壊し、途方に暮れ、そしてのちに全てが組み直され、新たな世界が出現する感覚。
ディマシュのこの歌には、その時に私の世界を壊した「なにか」と同じ
ようなエネルギーが込められているように感じた。
その理由のひとつに、MVの持つ内容と、歌、特に歌詞が持つ内容が食い違っていることがあげられる。
MVはこれまでの彼の足跡を順番に追いかけ、彼の大量の動画の中で印象的な場面や出来事を見せ、彼と関わった人々、彼のファンであるdears、そういった人々への感謝を込めた内容だ。dearsはMVの映像に自分が知っている場面を見て、それを初めて見た時の嬉しさや喜びの感情を思い出す。中には実際にその場にいたdearもいるだろう。
だが歌の方の印象は、特に英語の訳詞の重厚さから、彼がこの道の途上にあって何かに苦しみ、何かにおびえているような内容に聴こえるのだ。この歌によって喚起されるdearsの感情は、映像のそれとはまったく違って、戸惑いと無力感だ。
映像と歌のねじれ現象によって喚起される正反対の感情が、おそらくdearsの心を乱すだろうことは、容易に想像がついたのだ。
これは私が見聞きした範囲にとどまる話だが、ミュージシャン達には繊細な人が多く、時として彼らが抱く苦悩は非常に大きいものがある。
ミュージシャン達が一様に苦しむのは、曲がヒットしてスターになった後の「次もヒットさせなければならない」という重圧だ。バンドを続けるには金がかかる。マネージメントやレーベルは、バンドに投資した資金回収のため、さらなるヒット作を望む。
さらに一度ヒットが出てしまうと、その後に作る曲のクオリティを下げるわけにはいかなくなる。
そして、彼らのファンこそが最もそれを許さない。
クイーンは、毎回ツアーを(彼らが使う機材を現地レンタルせず、持ち込んだ機材の費用と輸送費がバカ高かったため)赤字で終わらせてしまい、レコードの売り上げでその借金を補填するという目標があったため、わりあい楽に(でもないけれど)レコード制作を続けることが出来ていた。
だが、中にはスターになってしまったことの重圧そのものに耐え切れず、その苦悩を歌にし、バンドを解散させ、突然自ら命を絶ってしまったり、
無意識にその方向に向かって行ってしまったミュージシャンも少なくなかった。
人気者になるということは、外部の人間やファンが思うほど楽なことではないのだ。
【ディマシュの初めての歌詞】
ディマシュは今まで、早くから作曲はしても、作詞をしたことはなかった。そのため、彼の内面を推測するのは難しく、それにはある程度の年季が必要だろうと思っていた。
だから、若いdearsはわりあい気楽に彼とのインタラクションを楽しんでいた。
ディマシュはこの規模のスターにしては珍しくファンと気楽に話をするタイプだ。時間待ちの空港や、ステージの上からでも、ファンの声が彼に聴こえれば、その声になにかしら答えている。最近では、ライブに来ていた歌の上手なファンをステージに上げて歌わせて「凄ーい!」と大喜びしたりするなど、スター然とした態度をほとんど取らない。そのためファン達も楽しく彼のファンを続けることが出来ていた。
しかも、この曲の直前に発表されていたMVは、ディマシュが彼の弟や妹と一緒に遊びながら歌ったり演じたりする、可愛らしい内容だったのだ。
ところが、今回彼が初めて詩を書いた新曲は、なんと、dearsに助けを求める歌だった。
彼が世に出るきっかけになった、フランスのロックオペラの曲、『SOS』の本人作詞版だ。
しかもディマシュのこの歌詞は、あまりにもクオリティが高すぎて、その赤裸々さがナイフのように心に突き刺さる内容なのだ。
【カザフスタン語の歌詞】
YouTubeのMVには、概要欄にカザフスタン語の歌詞が乗っており、映像の字幕にはカザフ語と英語の両方の字幕が最初からついていた。
英語の字幕を日本語訳すると、非常に重苦しい歌詞で、まるで『世界の名詩』にでも載っているような重厚な感じになる。おそらく訳者が頑張ったんだろう。
ところが、あるdearsのインスタ投稿の返信欄に、別のdearsが、カザフ語の歌詞の方はニュアンスが少し違うと投稿していた。全体としては「ラブレター」のようだ、とも。
そこで、メッチャめんどくさかったけど、カザフ語と日本語を翻訳するサイトを見つけて単語ごとに検索ボックスに入れて意味を調べたり、グーグル翻訳にかけたり、(Deeple翻訳には残念ながらカザフスタン語がなかった)とにかくいろいろやってみて、カザフ語の方の歌詞のイメージをつかもうとしてみた。
すると、確かにニュアンスが違うことが分かった。
えーとですね、まず、カザフ語の歌詞には英語字幕のような重厚さはそれほど無く、全体的にもっと口語的で、時には彼特有の皮肉めいた言葉も出てくるようだ。
(とはいえ、私はカザフ語の文法も文化的な背景もぜんぜん知りませんので、全くの見当違いの可能性もあります。以下はただの読み物としてお読みください)
1番の歌詞で英語訳の “ How many mysteries are in this motal world”「この有限の世界にはどれほどの謎があるのか」は、カザフ語では3つの単語しかなく、“Сырлары көп жалған”「多くの秘密は偽物だ」となった。
また、「愛の調べは絶え間なく不滅だ」と言ったあとの “Does it exist in this world”「それははたしてこの世に存在するのか」は、カザフ語では2つの単語で “Болса жалғанда”「だとしたら偽物だ」となる。
この2行については、特に「愛の調べ」の行を次の行で「偽物」という単語を使って受けているのは、なんとなくディマシュのいつもの皮肉まじりのジョークなのかな?と思ってしまう。
2番の冒頭 “Tomorrow is another precious day”「明日はまた別の貴重な日となる」は、カザフ語では “Келер ертең тағы жаңа жақұт күн”「明日はまたルビーのような太陽が昇る」となる。「新しい」の “жаңа(シャナ)” と、「ルビー」の “жақұт(シャット)”が、日本語の「沙羅」(この単語自体はもともとサンスクリット語だけど)を思わせる。イメージ的にはすごくキラキラしていて、これをここに並べて置いているのが、とても童話的で可愛らしい。
“Doesn't it have a home?”「彼の故郷は無いのだろうか?」のカザフ語は“Оның аялдар жоқ па мекені?”で、「女性の居場所はないのかい?」または「彼女はいないのかい?」になった。ここは検索ボックスに出てきたカザフ語の日本語訳を見て、ちょっと苦笑してしまった。
“Where happiness intertwines with sorrow.”「幸福と悲哀がより合わされる」は、カザフ語では “Бақ-нала арбасқан”「楽園は誘惑される」だった。意味的には英語の訳で合ってはいるが、もっと宗教的な隠喩を言いたいらしい。一般的にはこれは「失楽園」を意味する。
“Give me your hand, Life.”「私に手を貸してくれ、人生よ」は、歌詞が英語訳より一行多く、もっと直接的で、“Кел, сен енді Қол созғайсың маған, өмір”「来てほしい、今すぐあなたに。手を貸して欲しい、人生よ」だ。
また、1番2番のコーラスで最高音になる箇所(2番でディストーション・ボーカルになるところ)をカザフ語から直接日本語に訳すと、英語の訳詞とはとはかなり違っている。
英語だと、1番も2番も
“Don't knock me down, life.”「人生よ、どうか私を打ちのめさないでくれ」となっている。
カザフスタン語だと、1番の同じフレーズは、
“Мені қолдашы, өмір, құлатпа!”「助けて、人生、私を墜落さないでくれ」
になる。
ここでは、前の方で白い雲のような夢へと飛んで行く途中なので、「墜落させないで」になる。
2番の同じフレーズは、同じ単語で
「助けて、人生、私を見捨てないでくれ」になる。
ここでは、前の方であなたに来てほしいと言ったので、「見捨てないで」になる。
このあたりが、カザフスタン語から直接日本語に訳した時の違いだと思われる。
【歌詞のライム(韻)】
そしてなにより、カザフ語での韻(ライム)が素晴らしい。
素晴らしすぎる。
(以下、MV概要欄のカザフ語歌詞による)
歌詞のキリル文字の字面を見ていると、歌が始まってからメジャーコードに変わるあたりまで、その行が全てn(キリル文字のH)で終わり、音的に閉じている。
これがずーっと続いたあと、メジャー展開後の「夢(арманға)」と、その2行先の「偽物(жалғанда)」でaの音になり、音的に開かれる。
コーラス手前の行の最後は「人生(өмір)」のr(p、巻き舌の音)で、開いたままロングノートが歌われる。
コーラスでは、感謝を歌う最初の3行が再びnになって閉じ、次の3行はすべてaの音で開いて終わる。4行目にp(キリル文字のп)の音が来て、最後にまたaで開いて終わる。
1番も2番もだいたいこのような構造になっている。
音が閉じている時には、その行の印象が歌の主人公(今回はディマシュ本人)の独り言、あるいは内省的な言葉に聴こえるが、音が開いている時、特にコーラス後半はほぼすべての韻がaになるため、彼が自分の心を開いて
何かを叫び、何かを訴えているような印象になる。
【『マイ・スワン(Akkym)』の韻 】
『マイ・スワン(Akkym)』という、ディマシュが歌った昔のカザフスタンの歌を聴いた時、カザフ語の歌詞の韻の踏み方のものすごいテクニックに仰天したことがある。
歌全体の韻の構成もさることながら、タイトルの「白鳥」を歌う一番の
聴き所である、コーラス最初の「私の白鳥、私の愛、私の夢(Аққуым, аяулым, арманым,)」。
全ての単語がそろってmで終わるのだ。
そして2個目と3個目の単語は、最初がaなので、直前の単語のmの音と組み合わさって、mの音で始まるようになる。
すると、以下のように発音することになる。
「アクアム、マヤラム、マルマナム」。
なんと思慕に満ちた音であることか。
メロディはこの時、問いかけるようにマイナー3度の上昇を繰り返す。
学生演劇の劇中歌として歌われたこの曲は、大ヒットしたという。それもわかるような気がする音の連なり方だ。もともとカザフスタン語が韻を踏みやすい特性を持っているのかもしれないが、この歌を通して私はカザフ語の面白さを知るようになった。
【コーラスの韻と、曲の最後の2行】
『OMIR』も、実はコーラスの「感謝」を伝える最初の3行は、行の最後だけではなく、単語単位ですべてn(H)の韻を踏んでおり、閉じているのにとても印象的で、奥ゆかしささえ感じる。
そして、この3行が閉じているため、次の行からの韻の開きによって、特に2番のコーラスのディストーション・ボーカルとそのあとの下降する長いランによって、主人公(ディマシュ)が自分の胸を切り裂いて「こころ」あるいは「魂」を自分の手で取り出し、血だらけのそれを聴く者の手の中に
あずけてしまうような、そんなリアルさを感じるのだ。
そして、最後のフレーズ。
「許しを請うほどのことを、私にさせないでくれ」 (英語字幕からの訳)
こんなことを言われてしまったら、dearsはいったいどうしたらいいのだ。
彼の守護天使となって、生涯彼を見守るしかないではないか。
彼が罪を犯さないように、ではない。
彼が罪を犯しても、それが彼を狂わせてしまわないように、だ。
MVの最後のあたりで、彼はバダという祝福の形を両手で作る。
しばらくして、両膝をついてガックリと頭を垂れる。
最後に、顔を上げ、片手を空にかざし、天に祈る。
それは歌詞の意味を超えて、もっと普遍的な動作に見える。
彼は、今までに自分が出会ったすべての人々を祝福している。
彼は、自分が持っている願いや夢が愚かで儚いことを知りつつ、それでも神に許されたいと思っている。
そして彼は、そのような人間の弱さの罪を神に許されたいと、我々に代わって天に祈っている。
このような内容の歌詞を、あの陰と陽が織り成すような複雑な転調の美しいメロディと、あの声で歌うのだ。
もうねえ、曲の最後の2行の箇所を聴いてるだけで泣けます。
【サウンドマジック】
また、音楽のサウンド面でも、曲の聴かせ方がすごいことになっている。
いつもと違って生ギターが前面に出てきて、ボーカルと同程度の音量で
聴こえている。これはディマシュの歌では結構珍しい。ギター奏者もすごく上手くて、楽器もすごく良いもののようだ。
また、2番から鳴るボンゴのパーカッションもラテン系の切なさを加えていて、とても印象的で美しい。
編曲したのは『Zhalyn』の作曲者エディルジャン・ガバソフだ。やっぱこの人天才。
だが、もっとすごいのは、ボーカルの位置の変化だ。
技術的に何をどうやってそうしているのかまではわからないが、ボーカルの位置が歌の場面によって変化するのだ。以下、どのように聴こえているかを探ってみよう。
歌の始まりでは、ボーカルは耳のすぐ近くで歌われていて、聴く者の手が届く位置、というよりもむしろ、聴く者が自分の腕の中にボーカルを抱いているかのような近さで聴こえている。
メジャーコードになるあたりでは、ボーカルの唇が聞く者の耳のすぐそばに来てウィスパーボイスで囁くのだが、ここを音量を上げて聴くと、声を出す筋肉の動きが分かるような肉感的な感じさえする。
「愛の調べ(Махаббат үні)」からは、コンプレッサーをかけたのか、マイクから物理的に遠ざかったのか、ミックスダウンでそうしたのかまでは分からないが、聴く者の腕から離れて行ってしまったような距離があるように感じる。
コーラス1では、聴く側の指がほんの少し届かないような微妙な位置に
行ってしまう。
そしてコーラスの最後のフレーズで、また手の届く範囲に戻ってくる。
2番では、1番ほど密着してはないが、最初は息がかかるほど近くにいたボーカルが、「幸福の鳩(Бақыт көгершіні)」のあたりで少しずつ遠ざかり始め、メジャーコードの場所では背中を向けて歌っているようで、まるでボーカルが何かを追いかけてどこかへ行こうとしているように聴こえる。
だが「人生はそうやって作られる(Бұл өмір- жаратқан)」で振り向くと、こちらに向かって何かを訴え始める。
コーラス2の強烈なディストーション・ボーカルでは、姿が小さく見えるほど離れてしまい、苦悩しながら叫んでいるボーカルを、聴く側が見ているしかないような位置にまで遠ざかる。
そしてまた最後のフレーズで聴く者の腕の中に戻ってくると、叫び疲れ、泣き疲れてかすれてしまったような声で、聴く者の耳に最後の思いをつぶやくのだ。
これは、バラード曲でよく使われる音の定位の変化のテクニックだが、
そのシンガーとの親密さをものすごく強く感じさせられるため、ファンならいやおうなく何度でもその曲を聞いてしまうというマジックでもある。
だからといってどんなバラードでもこのようなテクニックで効果が出るわけではない。
そしてこの曲は、私がこれまで聞いたバラードの中でも、このマジックがもっとも成功している曲のひとつと言っていいと思う。ディマシュの最も柔らかく壊れやすい、そして最も愛すべき側面を、余すことなく引き出してしまったのだから。
(「Part.2」へ続く)
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